資本主義の奴隷制 [思考・志向・試行]

結局の所、資本主義の現代は金という幻想によって支えられた奴隷制である。
強く言いすぎかもしれないけれど、我々は飼いならされた奴隷なのである。

資本主義下において、金を得る労働から逃れるすべはない。
いや、どこかに籠ればできるのかもしれないが、大抵はうまくいかない。
なぜなら、人は他者との関わりで生きるからだ。

そして、周りがすべからく奴隷であれば、自分もまたその思想を内面化せざるをえない。
私が一番、自分に対して驚いたのは、自分が奴隷だという事である。
かつての奴隷ほどではないという意味では、確かにそうだ。
だが、自ら奴隷を進んでやっているという意味においては、もっと質が悪い。

奴隷である事を、世間は誇っている。
私が子供時分から、感じていた違和感をちゃんと認識したのは30代も終わりであった。
歴史をみればすぐにわかる。とりわけ、非道な白人たちの歴史をみればだ。
何がヨーロッパだ、腐れ外道どもめと思った。よくわからないのであれば、
三角貿易を学ぶべきであろう。そして、その貿易から起こった株式会社という組織についてを。

そもそも、奴隷のような扱いを受ける中において、規範化された末に、
会社という組織が成り立っている。その意味で、会社とは非道な組織である。
ところが、日本人はのんきにも、その組織に組み込まれることを嬉々として容認したのだ。
それは、農村よりも、安定的に暮らしていけるという意味において。

せっかく土地をもち、生産能力があった人々は、それが賃金格差を生じるという故に、
手放してしまった。むろん、村にある掟という若者にとって厄介なものより、
都会の自由に憧れたというのが、短絡的な動機であっただろう。
都会に出るという意味を、奴隷になるという視点として眺めるだけの知恵がなかったのである。

村に残れば、村の人間関係に縛られた人生。
村を出れば、奴隷の人生。どこに逃げ場があるというのだろうか。
こういったことを肌感覚で認識した結果において、若くして自死を選ぶものもいる。

現代社会が抱えている問題は、とっくの昔から問題だったのである。
桃源郷などない。だから、少しでもマシな暮らしを所望するなら、奴隷になれ。
これが社会が要請する圧力である。

奴隷と言っても、現代はかなりマイルドではある。しかしだ。考えてみれば、
自ら進んで、会社に出かけていき、その中で、能力を発揮して、奴隷としての生産能力を
強くすることをもって、成長などと自画自賛する気持ち悪さは、精神の腐臭が漂っている。

じゃあといって、村に残っても、一次産業において金銭を稼ぐ。
むろん、魂を売らないという意味では、ずっとマシであろう。

都市部では起業をする人間たちも少なくない。
だが、起業したからといって、この奴隷制社会からは逃れられない。
その本質は、金の奴隷であり、結局、金を操る権力の奴隷になる。
取引先の意思決定に右往左往するという事は、生殺与奪権を他者に握られているという事だ。

私だって、この仲間であって類似な存在である。金がまったくないというわけにはいかないからだ。
生殺与奪権を他者に奪われるわけにはいかないと吠えてみても、金が必要なのは変わらない。
残念だが、日本における暮らしとは、奴隷になる事である。

奴隷がきついなら、カタカナにしてみよう。スレーブだ。金に支配されるスレーブである。
マネースレーブ。これが現代人の言い換えである。いや、都市部の人間の言い換えである。

平和に生きていると人々は日々思っている。
それは、マネースレーブを受容し、その人生で良いと信じたのか、洗脳されたかで、
始めて可能になる平和さである。

ときおり、なんのために生きているの?とまっとうな問を立てる人間もいる。
まっとうすぎる質問の答えは、マネースレーブとして生きるためである。
答えはちゃんとあるのだ。社会が用意した答えは、これである。
「考えるな、感じろ」というコピーがあったが、
「考えるな、受けいれろ」これが、この社会の実情である。

いや、そうじゃなくて、自分にとっての意味は??と思うのはごく自然だろう。
残念ながら、親たちは、ただなんとなくで子供をもうけている。
目的があるというほどのことはない。社会的要請であったり、自然の摂理であったりする。

そして、そこで形成される家族というものを後生大事にする。
その価値観に対しても、当然後ろ向きな見解も可能だと誰が理解しているだろうか?

家族とは、自分ではどうにもならない絆である。選べない。その影響は一生を左右する。
果たして、そんなに良いものなのか? 答えは、どっちでもない、そういう事だ。
いや、正確にいえば生物学的にみて、親にとって子供は存在が生き甲斐である。

誰かの存在意義は、その親の存在意義につながっている。では子供は?
子供が子供を産み育てる時に、存在意義を作る。これが人生の一つの側面である。

もちろん、それが全てではない。自分にとっての人生の意味は? 
その答えは、「任意」である。どんな意味をもたせてもよいのだ。これが賢者の見解である。
信じる自由がある我々は思っているのだから、それで良いではないか。

とはいえだ。我々がマネースレーブなのは、事実であって、思想などではない。
自分の行動を何が規定しているのか考えたことはあるだろうか?
日常の大半の時間を、マネーを手元に引き寄せるために、活動しているのではないか?
なんでそんなことをしているのか考えたことはあるだろうか。

というより、そんなことをするために生まれてきたのか?とは思わないのだろうか?
私は思った。そして、困ったことに塀の上を歩いている。マトリクスに没頭できる方が
幸せという事を私は否定しない。奴隷頭になることも否定しない。

けれども、私を奴隷にしようと画策するのはやめて欲しい。
私を支配するもの。現状においては、国である。私は国に支配されている。
国という文言は、幻想である。実態は社会であり、金である。
支配から逃れることは、残念ながら、生存を諦めることに近い。

人は、他者なしに生きられない生物である。
そして、その他者はみんな大抵は奴隷である。
彼らとの関わりにおいて、支配されずにいる事はなかなか難しい。

この状況において、論を逆向にたどることもできる。
一部の賢者は、こういう。あえて飛び込めと。
自分の意思をもって、被支配に飛び込めという。

逃げられないのであれば、自覚をもって飛び込め。これもまた一つのあり方である。

自分の人生にどんな意義を与えるのか。
現代人はマネースレーブでありつつ、なんらかの希望を抱くしか無い。
でなければ、この時代を生き延びられない。

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