終わりなき日常 [その他]

あまり真剣に考えたことはなかったが、ふと頭を過ぎったのは、
ごく当然のことだった。それは、日常である。

生活といってもいいかもしれない。

どんなふうに生きようが、我々は日常を生きている。
どんな仕事をしようと、毎日何かを食べ、眠り、セックスをする。
そういった生活は死ぬまで永遠に繰り返される。

そういう意味では、日常をいかに豊かにするかは人生の極意かもしれない。
それは派手な消費やレジャーや旅行では生み出せないものだ。そして、
圧倒的に日常のほうが時間が長いのだ。同じだけの投資をするなら、
日常のレベルをどうやって向上させるのか。それが大事ではないか?

何度も繰り返される日常をもし、快楽で埋め尽くそうと思うなら、
それは危険であろう。人は物事になれるという性質があるからだ。

どんなにごちそうでも、毎日は食べられない。一定量しか食べられないのだ。
どんなに面白い映画でも、毎日は見られない。筋を覚えてしまえば、感動も減る。
どんなに良いセックスでも、毎回毎回同じように快楽があるわけもなく、また
なれてしまうものだ。

これを最大限化するには、絶えず新しい何かを取り入れなければならない。
人は、違いに敏感であるがゆえだ。ちょっとした違いでも、飽きを解消するには良い。
だから、快楽を前提に日常レベルを変えようと思ったら、絶えず消費は過剰さへと向かう。

この原理において、資本主義は動いてきた。だが、実際には人の数が問題なのだ。
消費において生活レベルをあげるにはカネが必要である。そのカネを得るには、
誰かが使わなければならない。もっといえば、誰かが借金をしなければパイは増えない。

だれかが、溜め込むほど、社会から消費が減る。消費がへれば、資本は回らず、
経済が停滞する。つまり、金持ちが増えるほど、消費は必然的に減るのである。

歴史はごく単純だ。リソースの分配構造の変遷である。
その支配権の争いであり、そのリソースを手元に引きとる行為にどれほど勤しむかである。
そこに変な価値観を付与することで、権威性が発生するが、それはただの幻である。
なぜなら、みんな等しくただの人間だからだ。生まれながらの貴族や王族もまた、
たんなる人に過ぎない。彼らがらしく見えるのは教育のたまものである。

ともあれ、リソースを溜め込む支配力が強くなれば、反発が起こる。
その反発は、しばしば内部ではなく外部へと向かった。ローマ帝国などは典型である。
貴族たちは溜め込んだ資本を労働者や奴隷に配分するのを嫌がった。そして、それは
外部への領土拡大への投資に向かったのである。貧乏人は兵隊となり、カネを得る。
そうやって、領土を拡大する事で、兵隊は住む場所を得たカネで得ることができ、
貴族は投資を領土から回収する。帝国的にみれば、うまくいく戦略であった。

もちろん、侵略される側はたまったものではない。彼らの日常レベル向上のために
なぜ、我々が攻撃されるのかと憤慨したことだろう。

ローマ帝国はこの後、更に強力な武力をもつ東方からの攻撃によって、崩壊を始める。
要するに、領土を拡張しようとしたけれど、もはや広がらなかったので、国の論理が
破綻したのである。結果として内部分裂を起こした。

現代に話を戻そう。現代は、要するに兵士の代わりにビジネスマンを育成して、
それを多方面に展開する形で動いてきた。それがいつしか、情報のやり取りのみに
おいて事が動くようになった。現代とは、新しい状況への過渡期である。

とはいえ、そのマクロな状況は全く変わらない。
日常的な快楽の増進というお題目が相変わらず存在し、それに向かうようにと
日々、人々を洗脳し続けている。それはあなたもだ。繰り返す。あなたも洗脳されている。

あなたはおそらく毎日働いている事だろう。大人であれば、高確率でそうであろう。
専業主婦であっても、家事労働という仕事が存在する。それは生活そのものであるが、
労働でもある。

生活における労働は必要不可欠であり、必然性がある。
一方で、日々の賃金労働には必然性がない。必然性がない行動はもっぱら社会が規定している。
社会が規定するのは、その社会の自己存立のための行動である。社会構造を維持するために、
社会が人に行動を押し付けてくるのである。

それを自覚すること。それを私は「目覚め」と呼ぶ。
大抵の人は、全く無知蒙昧に、社会の規範を生きている。
私もかつてはずっとそうだった。それで、良かったのかもしれない。

しかし、私は赤いカプセルを飲んでしまった。世界は「マトリクス」なのだと自覚した。
その自覚は私を幸福にしたわけではない。むしろ、不幸にしたかもしれない。
事実は、人をげんなりさせるものだからだ。

そして、私はマトリクスから抜け出すことの困難さも理解している。
およそ半歩も出てないのだろう。およそ、塀の上を歩いているという感じである。
何しろ、私の友人、家族、殆どの人は塀の中に生きているのだ。彼らとのつながりを
断つのは自殺行為であり、それゆえに、塀の外に降りられないでいる。

正確には、一時、塀の外に出たのであるが、日本という国では、塀の外があるようでなかった。
そのような無縁な世界は、日本にいる限りにおいて存在しないのではないか。そんなふうにすら
思えた。どこにいても、社会は追いかけてくる。

加えて、自分はそれほど強くもない。むしろ、日々弱さを実感している。
マトリクスが恋しいこともしばしばである。どこか間違っている世界なのにだ。
結局、塀の上を歩く。それが私にできるせいぜいなのだろうと思っている。

価値観の多様性と考えてきたが、私はそろそろ、そんなふうに考えるのはやめる事が
必要だと分かってきた。マトリクスの住人には、塀の上からでも、別のものがあると
いうべきなのだと。そして、私は塀の上を生きるともっとハッキリと自覚するべきなのだと。

塀の外にいけばもっと楽なのかもしれないし、塀の中でも、楽なのだろう。
中途半端だけれども、現状では塀の上がせいぜいなのだ。

話がだいぶそれてしまった。

日常の消費を差異で固めるには、コストが高い。
それなりのカネがいる。そのカネがありさえすればと思う人間は多い。
その欲望を利用して、資本家は労働搾取をする。良いか悪いのかは各人の問題であろう。
毎日、労働にでかけている皆さんは、れっきとしてこの一員である。憤慨しただろうか。
自分が何をしているのかを真剣に考えれば、別段、おかしなことは言ってないとわかる
と思う。

すぐ次にこう思うだろう。「カネを稼がないでどう暮らせというのか」と。
全くである。だから私も塀の上を歩くほかないのだ。だからといって、
快楽的消費にコミットしなくても良いとは思わないか。

我々がやるべきは、もっと、普通の事だ。
日常生活を、百均で彩ることではない。
むしろ逆である。日常生活ほど、ブランドで着飾るべきなのだ。
外には見えないがゆえに、カネをかけるのは、日常のクオリティである。

いや、正確にはカネではなくタイムである。タイムをかける事こそが、
日常のクオリティを担保する。

快楽的消費は、その消費を行うために、日常を切り詰めることを勧めてくる。
時間もカネもだ。そして、溜め込んだカネを非日常へと利用させようとする。
それは本質的に、貧乏な考えである。洗脳がゆえの価値観である。

むしろ、時間をかける事が大事なのだ。
それも、創造的な事にかける時間の増大こそが、大事なのである。

日常に創造性があり、そこにかける時間がある事が、豊かな日常である。
これが答えだと私は信じている。そして、ここから離れるほど、人は一時の
快楽を求めるようになる。

現代日本人の典型的生活に幸福など存在しない。なぜなら消費、それもカネによる
消費しか興味がないからだ。価値観はそれぞれだから、私はそれをどうとも思わない。
私の友人たちの一部は、それに興じている。ごく普通のことだろう。そして、十分に
「幸せ」を感じている事だろう。

他方で、私が言う豊かな生活を送る人々もいる。
どうせなら、創造性ある日常を生きるほうが良い。なぜなら、日常は死ぬまで続く
永遠の事柄なのだから。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。