方向性の転換 [雑学]

このブログでは、世相の問題を批判することが多くなってしまった。
言葉は一種の呪詛であるので、批判と言えど、自分にも影響があるように思われる。

世界の良い面をみるという意図的な努力も必要なんだと最近は思うようになった。
悪いところは多い。けれど、それだけではないのだ。

なぜ、寄せ集まると悪にみえるのかは不明なのだが、
個々人でみれば、みんな自己のために行動しているだけに過ぎない。
その利害が対立すると、そこに悪が生まれる。なぜなら、正義と正義がぶつかるからだ。

飲茶氏の著作「正義の教室」を読んだ。
学園モノのラノベ形式で、哲学の話が網羅してある。

内容はもっと凝縮できそうであるが、まあ、物語のほうが読みやすいという意味では
成功していると思う。ラストの展開は予想済みだったが、表現がキモチワルかったので、
マイナス点である。

内容的には、正義には、功利主義と自由主義と直観主義があるという話題である。
どれかを立てると他が影響を受けるので、どれも不動の地位を得ることは出来ない。
これが結論である。そして、正義とはつどその時に正しかろう行動をとることでしか、
成立しないのだ。つまり、事前に主義を決めておく事では、正義は解決しないのである。

ロールズの無知のベールは、割合とよいオトシ所に見えるがどうだろうか。
個人的には、妥協的にみてまずまずなのではないかと思う。
ともあれ、これもまた事前に正義を確定しておくことはできない。

要するに、我々がすべからく全員と仲間となるとか、壮大な事がない限りは、
互いに利害は対立し、必ず悪が生じてしまうのである。

ならば、どうするか。そう、ここからが議論なのだ。
対立は不可避である。だから、どうそれに対処するのか。それが問題なのだ。

もちろん、最初に否定しておくのは、武力による制圧である。
それは最悪の手である。一瞬間はそれで収まっても、必ずその復讐が始まる。
歴史はそれをまざまざと見せてくれている。ほとんど例外はない。

魏の曹操は、後の災いを考えて自分に歯向かった徐州の人々を惨殺した。
その結果どうなったか。武力にて抑え込んだ地方の人々は、決して曹操を
信用することはなかった。そして、事あるごとに曹操に反発した。
そう、武力によっては、場が収まらないのは、世の常である。

徳川家だって、かなり慎重に事をすすめた。けれども、関ヶ原で負けた島津と
毛利の末裔である、長州と薩摩にクーデターを起こされてしまった。

武力による平定は長く続かない。よって、これは棄却されるべきである。

では、どうやって対立を緩和するのか。
現状では、法による。万能ではないけれど、それでもなお法によるのが現代である。
誰かの独断で物事がきまる世界よりはいささかマシという事で、妥協されているのが
現状である。

とはいえ、法の効力の背景には武力がある。それは同じことの繰り返しになるだろう。

実際問題、国同士の争いともなれば、調停者は存在しない。
国際機関は、その代理であるが、もっぱら大国の意図が大きく影響する。
そして、大抵は利害対立があって、まとまった形で平和へと移行することはない。
残念ながら、我々はそういう世界を生きている。

これについての答えは、おそらく解決を諦めることである。
そして、都度、最善の策を練るというだけのことなのだ。

つまり、正義の結論と同じである。答えは先験的にない。
これをどうやら、我々は受け入れざるを得ない。

だからといって、ルールはなくて良いわけではない。
そこで暫定的なルールとして、正義が必要になるのだろう。
そこでは、無知のベールというアイデアは一つの落とし所だと思われる。

知らない人は、ぜひ調べてみてほしい。
https://liberal-arts-guide.com/a-theory-of-justice/

私は、ひとまず、正義という観点を諦める。むろん、それは後ろ向きなことではない。
むしろ、前に進むためである。正義を一貫して死守することは、必ず矛盾を招くという
論理的帰結であり、それは一つ新しい価値観なのである。

方向転換の第一歩は、ここからだ。
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