叱ることの無意味さ、いや有意味さ [思考・志向・試行]

心理学的には、叱ることは無意味だと知られている。

叱るという行為は、およそ叱る側のエゴである。
これで分かる人はもう記事を読む必要はない。
一方で、なんのことかと思った人はかなり危険なのでちゃんと読んだほうがいい。

動物を考える。
叱る親は皆無に等しい。脅す親はいる。しかしそれは餌の配分調整であったり、
なんらかの合理的意味をもつ。一方で、人はどうか。

叱る事の目的はなにか。
それは、権威を示し、自分に従えという強要である。誇示行為にほかならない。
自分は偉い、おまえを操作可能であるという主張である。そして、彼のエゴを
守るという事である。

「相手を良くしよう」とか「指導している」ということはただの建前である。
自己顕示欲を満たすために叱るのである。

なので、本気で叱ることが建前とわかってないのなら、かなりのアホであり、
そんな人間の相手をする必要はない。人を脅すことで、人を利用しようというのが
叱ることの本質である。

例えば、反社会的な行動をする人間がいて、それを正すことが正義だと信じている
やからは多い。もっと卑近に考えると、校則や社則をやぶる人間がいて、
それを先生や上司やらが指導する場合などどうだろうか。

それはルールを強要させたいという目的によって行われる。
なぜか。ルールを守らない人間がいると秩序が崩れるからである。
では、秩序が崩れたら困るのは誰だろう? そう、それは先生や上司の方だ。
彼らは、その地位において権力を振るう。そして、その地位において様々な特権を
得ているからだ。それがゆえに、叱る乃至指導することはエゴなのである。

生徒の行為が極悪非道で、例えば他者への暴力などが生じているとしよう。
それでも、指導として叱りあげるのは意味がない。なぜなら、彼らはそういう
手段でしか自分を表現できない可愛そうな人間なのであって、問題をおこせば、
「叱ってもらえる」つまりかまってもらえるという事が主目的なのである。

裏を返せば、問題を起こす生徒とは何かしらの精神的問題を抱えている。
叱るられる事で人とつながっていると確認するような、そんな貧弱な関係性しか
築けない人間にしてしまった環境の方がよっぽど問題である。

多くの人が勘違いしているのは、問題を起こす人間というのは、環境に応じて
生まれるのであって、始めからそういう人間というわけではない事だ。
そして、そういう人間を叱ることや暴力を背景に指導を加えたところで、
事が改善するわけがない。

極端な例から、身近なことに戻そう。
およそ、叱るという事柄は、もっとライトな状況で生じている。
例えば仕事のミス。人間はミスをする生き物である。どんなに注意していてもだ。
それを踏まえれば、ミスを叱ることに意味はない。ミスが生じた状況を確認し、
ミスを減らす方策を一緒に考えるのが大事である。

仮にミスが本人の個人的なことだとしても、それを咎めてもなにも良いことはない。
はじめに述べたように、叱ることはエゴであり、それは一種の攻撃である。
だから、それを受けた人間は、「闘争か逃走か」のモードに入る。動物として
当たり前である。そして、このモードに入った人間は、状況を変えることしか
興味がなくなる。つまり、打ち勝つか逃げ出すかである。

叱る人間は、相手が逃げるにしても反抗してくるにしても、ますます攻撃を強める。
行動の改善が見つからないからである。しかしそれは当たり前なのだ。行動を
どう改善するかの話し合いがなく、ただ、特定行為を咎められるだけだからだ。
何をすればよいということや、その目的を説明するほかないのだが、叱る人間は
そもそも無能なので、それが出来ない。

こうして、双方が敵対関係に陥り、逃げを採用する人間は、追い込まれていく。
敵対する人間は、復讐を考える。問題はますます大きくなる。一方は最悪、自殺に
つながり、もう一方は他殺である。

特定の雰囲気や圧力は、社会からも発せられている。特定の文化圏に生きる人間は、
社会が攻撃しているので、それに対抗するために攻撃的になる。本人が単に思い込む
事もあるだろう。しかし、そのような例外をここでは取り上げない。むしろ、大多数の
人間にとって、社会の文化は攻撃そのものである。

叱る人間というのは、この社会の権威を笠に着て、目の前の個人を攻撃している。
この構図は凡庸な悪でお馴染みであり、ファシズムの種である。

さて、もう一歩踏み込もう。

叱る人間とはどういう人間か。実はこちらのほうが惨めである。
人を脅すということは、何かを守る事である。何を守っているのか。
それは自我であろう。彼の社会的自我を守っているだけに過ぎない。
叱ることによって、自分を保とうと必死なのである。それは弱い人間の現れである。
権威を背負うことでしか、他人に影響力を及ぼせないのである。

本来人は、他者に対して愛情を通じて協力を得るものである。
北風と太陽と同じことだ。人を動かすのは、愛情であって、暴力ではない。
暴力は必ず一定数の反発を生み出す。叱るというのはそのもっともマイルドな
現れである。

叱る人間の本質は、復讐である。そう、かつて叱られた人間である。
彼らは、攻撃を受けた時にやり返せなかったという屈辱を持つ。
要するに負け犬である。その負け犬が、権威に迎合し、その一部に融合したのちに、
今度は、新しくやってくるものに対して、攻撃をして復讐しているのである。

だから軍隊では常に暴力が上から下へ流れる。
同じような組織では常に、それが起こる。
叱るという暴力また、組織内で生じている。

相手が逃げられないという保証があるがゆえに、また、やり返せないという保証が
あるがゆえに、叱ることや「指導」が横行している。まったく恥を知れと思う。

しかしながら、この日本には異常者つまりマゾが多いので、
叱られたことを美化し、それを正当な手段として考えている輩がはびこっている。

簡単に言えば、自分は本当は、攻撃を受けた時に負けを認めた惨めな存在である
のに、それを否認するがゆえに、自分の自己肯定のために、叱る行為を発動させる
のである。惨めだったはずなのに、それを美しい思い出として歪めて解釈している
のである。

叱られたから、今の自分があるとか、厳しい指導を受けたから、成長できたという
思い出がある人は、今すぐ考えを変えてほしい。それ、ただの逃げで、美化なんだから。
そして、それを「愛情」という人間もまた同じ轍を踏んでいる。

親に折檻して、育てられた人間は、愛情を知らぬ人。
その人間にとって、折檻が愛情だと思うことになる。でなければ、あまりにも惨めであり、
自分を保っていられないからである。そして、その行為を正当化することになる。


日本では、どうもこのような暴力文化がある。
その一部の理由は、戦後教育にある。実をいえば、戦争が終わってあぶれた将校たち、
つまり軍人たちは教育に関わることになったのである。学校に軍隊が入れられたのだ。
その伝統がずっと学校の背後に存在する。それがゆえ、学校とは人間を従順にする
装置である一方で、復習と自己攻撃を生み出す装置でもある。

潜在的に教師に対する攻撃をする人間は少なくない。
それは要するに、闘争を引き起こすようなコミュニケーションをする先生が周りに
いたからである。しかし、それは先生という存在がまた、権威を背負う職であった
という事でもある。


マゾでホモな集団が日本の中心にある。それは背後にこの暴力を利用した秩序形成という
概念によるものだ。残念だが、愛情でも信頼でもない。

このような組織で奪われるのなにか。それは創造性である。生命の発露である。

このような社会でうまく生きるには、自分もまたそのような暴力を内面化するか、
怯えて隠れて生きるかである。それが出来ない場合は、必然的に社会からはみ出すことに
なる。仕方がないのだ。

私は正常ならマゾでホモな集団から落ちこぼれるのが当然だと思っている。
そして、マゾでホモな手段で生きられる人間とはさもしい人間たちである。
過剰適応した悲しい存在である。だが、その方が社会的に優位な立場に立てる。
そして裕福に暮らせるだろう。その功利主義を私は否定しきれない。欲望に生きるのは
その人の勝手なのだ。

この矛盾の隙間もある。ホモマゾから距離をとり、それでいて裕福に暮らす社会も。
そういう場所では、愛情と信頼が人々の基礎になる。そういう土地に生まれた人は
それを維持することに専念してもらいたい。

個人的には地方にはそういう場所があると考えている。
一方、都市にはホモマゾな社会が大きく広がっている。
その温床が学校であったりするという恐怖である。

日本がなぜ、社会的停滞を迎え、息苦しい社会であるのか。
それは、ごく単純に、叱るような文化が正常としてとどまっているからである。
そして、創造性に乏しいのは、あたりまえで、萎縮する人間を組織内に抱え込む
からである。そもそも、萎縮しない人間は、いじめて追い出すくせに、どの口が
創造性などというのか、ちゃんちゃらおかしいのである。



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