『U』森達也著 [本]

やまゆり園事件の植松死刑囚の話である。

テレビマンでもあり、映画監督でもある森達也氏が、植松氏を取材し感じたことを
書いた本となっている。

19人もの障害者を惨殺した植松氏。
その素顔は決して悪人という一側面だけでは形容できない。

森氏はこの事件だけでなく、オウム事件等々、凶悪犯罪を追ってきた。
その中で、日本の司法に対する危惧を感じてきた。検察が起訴した際の容疑者が
99%もの有罪率を示すという。元来人は間違えを犯すものだ。それなのに、この
あまりにも高い有罪率。

そこで発生する数々の冤罪。検察が容疑者を容疑者たらしめる調書を作成し、
刑を確定しようとする流れ。世論という国民感情に動かされる司法。
そういうものに森氏は警鐘をならす。


植松氏の行為もまた、国民感情主体で裁かれた裁判であった。
この平時における惨殺事件。2人殺すと無期懲役、3人殺せば死刑という暗黙ルールがある。

相変わらず日本では、死刑を是とする世論がある。
諸外国では、これは「中世的」であると理解されているのだが、日本人は誰も気にも
留めていない。国際的には時代が止まったままの司法制度、それが日本である。


さて、植松氏であるが、その生育環境は定かではない。
むしろ、普通であった可能性が高い。彼は大学も卒業している。
その彼が施設において惨殺を繰り広げてしまった。

多くの知人は事件の1年前から彼は変わっていったと証言している。
そして、その頃かれはやまゆり園で働いてたのである。

司法では、園は被害者で、植松氏が加害者であると設定された。
むろん事実的にそうなる。だが、植松氏をそれに駆り立てたのは何か?
残念ながら、森氏はそれを植松氏に尋ねる事は出来なかった。だが、それを
推測する手立てはある。

植松氏が書いた衆議院議長大島理森への殺戮予告の内容は
支離滅裂といえるものだ。誇大妄想の世界に彼がいたことは明らかである。
この殺害予告文には安倍元首相の名前もある。これは事件の5ヶ月前の事だという。

新聞はこの惨殺事件を受けて、「障害者いらない」という目次をつけた。
だが、植松氏はそういう意図で殺してはいない。彼は「心失者」を襲った。
それは自分の名前等が言えない、しゃべれない。そういう人物を選んでいた。
障害者ではない。意思疎通が出来ない人である。

彼の脳裏にあったのは「不要な人間は、むしろ社会の重荷であるから
排除すべきである。」という事だ。それを短絡的に意思疎通不能者に結びつけて
行動を引き起こしていた。

また、収監されてから植松氏は様々な人々と面会を行っている。
その面会者の人へのインタビューから、植松氏はとても浅はかな思想の
持ち主という描像が浮かび上がる。借り物のミームをパッチワークし、全体としては
辻褄が合わない陰謀論などを信奉していた。

これらの事が意味するものはなにか?

これらを通して透けて見えてくるのは、精神的な病理である。
少なくとも正常ではない。誇大妄想があり、その異常な世界観の中でうまれた
”正義感”によって、彼は犯行に及んでいると推察出来る。とても正常とは言えない。
その一方で日常的なことに関して、彼はごく普通でもある。悪魔のような人間という
事はないのだ。

森氏は、暗に仄めかしている。植松氏は精神疾患ではなかったのかと。
私も同感である。およそ、境界段階にあるのだろう。異常な側面と正常な側面が
同居している。そういう人物である。

そのような人間が犯罪を犯すのだろうか? いや違う。それは十分な要件ではない。
それは刃物を手にした人間が必ず人を刺すとは言えないように、精神的な疾患が
あっても犯罪を犯す理由にはならない。あるとすれば、なにかきっかけが必要である。


時代には空気がある。そして、その空気は人々の思考によって生まれる。
人はその空気に感染する。さらにそれが時代の風潮を生み出していく。

一方で、特定の精神疾患には被害妄想と、思考の短絡化がある。
物事を悪くとらえ、その理由をこじつける認知の歪みが生じるのだ。

ここからは私の見解だ。
植松氏は、およそ精神的な問題を抱えていた。器質的なものか、生育的なものなのか
それは分からない。だが、決して思慮深い人間ではない。むしろ周りの言うことに
左右されてしまうような浅慮な人間であった。その彼がどのようなものに染まるのか。

社会の風潮はまさに「個人の評価は役立つかどうか、それが問題だ」と言わんばかりである。
そのような空気を醸成したのは日本人であるが、その象徴として安倍がいた。また、アメリカには
トランプがいた。植松氏が自己責任論を振りかざす日本の体制に感化されても不思議はない。

そして、彼は障害者施設「津久井やまゆり園」で働いた。
そこで見かけた職員たちによる酷い虐待行為。彼らは社会の縮図を凝縮した形で存在していた。
自分で何か出来ない人間たちは、ああいう扱いを受けてしまうのだと植松氏が感じ、
その存在をむしろ、疎ましく思うようになった。彼らは社会のお荷物なのだと。

この空気に、植松氏はその精神的な問題により、過剰に反応した。
それは彼の誇大妄想世界の中では、殺してでも排除されるべき人間として認識されるようになる。

その一方で、彼は寂しさも覚えていたはずだ。
なぜなら、他者から認められたという欲望があったからだ。
彼の感染した空気を一番に体現している人物に認めてもらいたい。その人物であれば、
自分を認めてくれるはずだと妄想した。

だからこそ、雨に打たれながらも、安倍晋三へむけて、殺害予告を渡そうとするに至る。

そしてある日、彼は気まぐれな誇大妄想世界からメッセージを受け取る。
計画を実行せよと。

おそらく、彼は”正義”のつもりであっただろう。人を殺すことをそう感じてしまうことに
我々は理解不能を感じるかもしれない。だが、彼の妄想世界では、一貫性がある。
そして、彼はどこかで殺害した人々を救うつもりであったはずだ。

社会の重荷として存在してしまっている彼らはいないほうが、幸福なはずであると。
それは彼らが受ける虐待からの開放であり、職員たちにとっても、彼らとの関わりからの
開放となる。

殺すことが問題解決なのだというのは、実に身勝手な考えだ。だが、彼は時代の風潮に
感化された精神疾患者である。そこに利を感じ、その思想を後押ししてくれるはずという
期待感があった。なぜなら時代がまさに、それを明に暗に指し示しているからである。

時代の空気。それが彼にとっての不幸であった。そして、そのような考えを批判する
人が周りにいなかったのだろう。彼の妄想はひどく発展してしまった。


私は彼は時代を反映した犯罪者であると思う。
世相がもつ、心の奥に隠蔽している思想、彼はそれに共鳴した。
だからこそ、その行為を正義と信じたはずだ。そして彼の精神的な異常はそれをエスカレート
させた。

森氏はいう。およそ植松氏は刑を受けるだけの精神状態ではないのではないかと。
そして、彼を死刑にしてしまえば、彼のような犯罪者が何をもって行動してしまったのか
を隠蔽してしまう事になると。

だが、国民感情は19人もの人を殺した人物を生かそうとは思わない。
極刑がふさわしいと思っている。

ここでもまた空気が醸成される。司法はその空気を読み、植松氏がいかに精神的な問題を
抱えていたかは考慮外として見ぬふりをし、刑を受けるに足る正常な精神であると認定する。
もし彼が精神的問題があると確定すれば、法にのっとり、彼は刑を受ける事ができなくなる。
それは、世論が黙ってはないという空気を、司法が忖度したのである。

このような事は、オウム事件、宮崎勤事件等々において散見される。
精神的な問題があるにも関わらず、刑を実行しようという圧力である。
これは司法そのものだけでなく、日本全体にある空気である。

何も私は、加害者をかばっているわけではない。凶悪な犯罪において、
正常さとは何か、それが問題である。およそ精神的な歪がない限り、凶悪犯罪は起こらない。
その異常な心理状態は、必ずしも特殊な人間にのみ起こるわけではないといいたいのだ。

戦時下をみれば明らかだろう。環境・状況によって、人は簡単に人殺しを行う。
だが、人は元来的にそれを嫌う。闘争本能だって? そんなものは妄想である。
でなければ、なぜ戦争帰りの兵隊はあれほどにPTSDに悩まされるというのか。
そこには、やってはいけないことをしたという強い罪悪があるからである。
人は簡単には、人殺しなどできやしない。精神的な異常さが必要なのである。

我々は凶悪犯から、学ぶべきことがある。
どういう事をきっかけに、何を妄想したが故に、犯罪を肯定するのかと。
でなければ、またすぐに同じような事件は発生する事だろう。
これだけ人間がいれば、同類が現れるからである。

何が凶悪犯へと仕立ててしまうのか。

人々が暗に隠そうとする心理。そういうものから醸成される空気。
それに感化されてしまう精神的な病。植松氏は時代が違えば、精神疾患との境界で
何事もなく過ごしていたのかもしれない。

法が裁く犯罪。私達はもっと罪とは何かについて考慮が必要なのではないか。
そして、罪をおかした人間を知るべきなのではないか。森氏の著書はそうつぶやいている。
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