命の尊厳ー尊厳死とは? [思考・志向・試行]

本質的なことだが、我々は日々、死に向かっている。
よって、いつ死ぬともわからないのだが、それは日常的には隠蔽されている。
そして、常にやるべきことの中で生きている。

そんな中で、難病というものにかかる事がある。
ALSとは、意志の発露を失ってしまう病気である。

多くの人は実感はないだろうが、我々は出力を断たれてしまうと、
何も表現できなくなる。筋肉の動きこそが我々の意志を体現している。

ALSの人はそれを恐れている。自分の意志が発揮できない状態になること、
それが、一種の社会的な死をもたらすことを。生きながらにして、死んでいることを。

患者の中には、それを自らの意志で乗り越えようと考える人がいる。
それは死を自分のものとすることだ。そうすることで、自己の尊厳を保持しようとする。

我々は幸か不幸か、意識を持つ。意識とは脳によって生み出される機能だ。
一方、肉体はつねに生を選択する。生物とは生きるために存在しているからだ。

もともと、脳は生を確実にするために生まれた。
ところが、脳は身体の生と切り離された「生と死」を持つことになった。
それは社会的な死である。社会とは脳が感受する存在である。ある意味で実在といってもいい。
なぜなら、我々はその実感がないと社会的には生きられないからだ。

脳は身体の生よりも、脳の「生」を優先させる。
それがいわゆる尊厳死である。脳の「生」を優先するがために、身体的死が選択されるのだ。

死んでしまっては元も子もないと人は言う。
この場合の死とは身体的死であろう。
だが、ことはそんなに単純ではない。

人には「脳の生死」があり、身体の生死よりもむしろ重要なのだ。

だからこそ多くの人類は、身体の死よりも、脳の「死」を恐怖した。
より正確に言えば、人は身体の死は実感不能であり、ただ、脳の「死」のみを想像するに
過ぎない。身体が死ねば、当然従属関係にある脳も死ぬ。よって人が身体の死を怖がるのは、
身体の死が脳の「死」につながるからだ。

この脳の死に対する恐怖は、反動で様々な宗教を作り出した。だが、根本は常に、
死への態度である。宗教とは結局、死する運命にある我々の心情の支えである。

私達が尊厳死を前に考えるべきことは、脳の「生死」の決定権を、身体の生死より
優先して良いのかどうかという点であろう。

脳の「生死」は、現代人にとって、世界全てである。ならば、その脳の「生死」を
最優先して何が問題なのか? その「生死」の有り様は、本人の意志に従うべきではないか。

これが現代人のある意味でのコンセンサスであろう。
ならば、日本では違法である「尊厳死」はなぜ正当に扱われないのか。
また、自殺についても同様である。自己の生死を自己が決定して何が問題なのか。

実のところ、我々はそこまで割り切れないでいる。
自殺が問題なのは、本人の問題だけではない。周りの問題でもあるのだ。

他者の死がもたらす影響は決して小さくない。
その根本までたどれば、その死が、自己の死を想起させるからだろう。
そう、隠蔽した自己の死をだ。

死の悲しみは、戻せないという事にある。取り返しがつかないということ。
我々はその感情を乗り越えるすべを未だにもたないのだ。そして、それにショックを
受けるということそのものが人間らしさであろう。

尊厳死は、現代人の矛盾をついてくる。
脳の「生死」は、身体の生死にまさるのかどうか。

忠臣蔵において討ち入りを果たした侍たちは、ほぼ確実に死ぬ運命だと分かっていた。
それでなお、討ち入りを行ったのは、ある意味で尊厳死である。
社会的な生死こそが、大事であるという信念がそこにはある。
身体的な死を通じて、社会的な「生」を保持するということなのだ。

その社会的な「生」とは自己への言及とは限らない。他者の社会的な「生」や身体的生の
ために、自己の命を使うということもあり得るのだ。事実、多くの戦争においては、
そういう想いが利用されたのだから。

自分の命を使うことで、つまり、身体的な死をもってして、社会的な「生」を得られる
機会があるときに、人はときに社会的な「生」を求めるのだ。そのくらいに脳は強烈
なのである。

もちろん、身体も黙ってはいない。身体は脳に強烈な生への欲望を喚起する。
生物の目的が生である限り、その生を失うことに対して、最後まで抵抗するだろう。

我々はそこまで割り切れない。結局、死を前に、自己葛藤して苦しむほかはない。
受容するにしても、大きな葛藤は否めない。我々には、それしか道は残されてはいない。
横着は許されない事柄である。

考えてみれば恐ろしい事だ。すべての人が、この自己葛藤から逃れられない。
キリストはこれを原罪と言ったのであろう。我々が意識という「生」を授かってから、
常に、ずっとこの恐怖は人々のそばにあったのだ。

闇雲に恐れることはない。その一方で、自らを死について避けては通れない。
それを避けようとすればするほど、大きな問題となって立ちはだかるだろう。
どんなに金を積んでも、権力をもっても、死ぬのである。

もう少し、これについて考えてみたい。
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