日本の構造:大企業と中小企業 [思考・志向・試行]

「日本のしくみ」小熊英二著を読み始めた。
データベースによる社会学の本だ。

まだ、出だしだけしか読んでいないが、なかなか興味深い事が記載してある。
現代日本の経済的社会構造を3つの形態にまずは落とし込む。
「大企業型」「地元型」「残余型」である。ぞれぞれ、26%、36%、38%の割合という。

「大企業型」というのは都市型ホワイトカラーをイメージすれば良い。
満員電車にゆられて会社に出勤していく人々である。いわゆる「カイシャ」生活だ。

「地元型」というのは、もともとは農林水産業、つまり一次産業と接点をもつ人々だ。
地域社会で生活している。商店をやったり、農業をやったり、様々なスタイルがあるが、
基本的にローカルで生活がまとまっている人々である。いわゆる「ムラ」生活である。

これ以外の状態を「残余型」と呼ぶ。その他型でも良かった気がするのだが、
小熊氏は残余と書いた。

日本社会が用意している生活スタイルはおおよそ、いずれかであるという事だ。
残余型を当初から目指す人はともかく、普通に暮らしていれば「大企業型」と「地元型」の
二択である。かつての日本はまだまだ農業など一次産業に従事する人々は多かった。
家業を継ぐ人々も少なくなかった。その彼らの中から、都市部へと金やムラから脱出を
試みた結果、都市部の企業への就職が果たされるようになったわけだ。

中小企業の立場は大企業型とも地元型とも言えるが、その違いは採用スタイルである。
大企業は全国、場合によっては世界から、人を募集する。一方で、体力的限界から
中小は地域から選抜する。結果として、中小は地元型になりがちである。

結局、都市部の大企業と、地方の中小企業という図式になる。大企業には大卒の
ホワイトカラーが属し、地方の中小企業には、地元の熟練職工たちが取り仕切る世界がある。
大企業は系列会社に仕事を発注し、それを地域の企業が下請けするという形である。

ざっくりと言えば、大卒は都会へ出てホワイトカラーになり、高卒や専門学校卒は
地元に残って、中小企業で働くという事だ。そして、この形態が日本の社会保障を
決めている。だが、近年ではこの枠組から溢れる人が増えてきた、それが社会問題なのである。

日本型雇用の特徴として
・終身雇用
・学歴主義
がある。

大企業型が社会全体の雇用形態を牽引する。その大企業の採用の思惑は、ポテンシャル
のみである。よって、何を勉強してきたかに関わらず、大学名によって取捨選択する。
このような人材を全国から広く採用するという慣習によって、子どもたちは受験戦争を
行うことになった。知名度のある大学を「卒業」したという事が、唯一評価される
ポイントなのだ。その仕組みを肌で感じている親たちは、なんとか子供をこの路線に
のせようとする。

なぜならこれがいわゆる既得権益への入り口だからだ。
日本における社会的成功とは、知名度のある大学を出て、官僚ないしは大企業の社員になり、
それなりの給与で、組織に守られながら40年ほどの時を過ごすという事なのだから。
それは他の立場よりも圧倒的に有利であるという事に尽きる。腐っても大企業なのだ。

国は経団連と癒着している。大きな企業は様々な面で優遇される。仕事の受注だけでなく、
税金にしても、年金にしてもだ。その「美味しい」立場を求めて、若者たちは競争する
という仕組みをこの数十年続けてきたというわけだ。

日本の大企業は、ポテンシャルのある人間をカイシャという名前のムラに招き入れる。
なにしろ40年もあるわけだから、何かが身についている必要はない。時間をかけて
使える人材にすればいいわけだ。そして評価体系は、ひたすらに勤務日数に比例する。
これは労働者を一つの企業にしばっておく方法である。長く居るほどに退職金や年金が
増えるのだから。多少の不服には目をつぶることだろう。

逆にいえば、大企業に採用されさえすれば、ひとまずは安心できる。それが日本社会の実情
である。そのようなものが数十年の続いた結果として、企業が求める人材はある型がでてくる。

それについて、内田樹氏はこうつぶやく。
”日本の学校教育が子どもたちに求めているのは「上位者に抗命しないこと、
無意味なタスクに耐えること、査定に基づく資源分配が唯一のフェアネスだと信じること、
周りの子どもの市民的成熟を妨害すること」です。そういう子どもばかりだと管理コストが
削減できますからね。”と。

そう、従順な命令に従い、それでいて与えられた仕事をこなす人間。これが大卒の人間に
求められる資質になってしまった。こういうフィルターで人を選抜しているのだから、
やるべきことが定まっている時はとても物事がスムーズに進むことだろう。だが、一旦
イレギュラーな状態になったとき、つまり社会情勢が変わってしまい、今までと同じ事で
儲からなくなった時、新規な事に挑戦するという事にはならないのは明白だろう。

また、官僚たちや大企業の人間たちがこのようなメンタリティということは、日本全体の
経済圏は、現状維持マインドという事になる。そうして意地でも、今までと同じを目指そうと
する。なぜなら、それが「正解」だと思っているからだ。価値観を時代に合わせて柔軟に
変える事ができない。

40年も同じ会社で働いているのだ。そのムラの中では、いろいろな事が生じる。
だが、多くの人は事なかれ主義のはずだ。なぜならそういう人間をこそ見つけて採用しつづけ
たわけだから。考えようによってはおおらかであるが、逆にいえば、やる気などどんどん
失われる事だろう。何しろ、がんばっても、給与は一定にしか増えない。出世するといえど、
上がつかえている。変な肩書が増えていくのみだ。そうして、カイシャというムラは、
その活気を失う。まさに、それが日本社会の現状を繁栄している。

一方で、中小企業はもっとシビアである。仕事の継続性は会社の規模に比例する。よって、
常に資金繰りが厳しい状態に置かれ続ける。ギリギリで耐えていた経営者が不景気になると
クビをくくるのは、そのシビアさの現れだ。そもそも、人材が不足している。若者たちは
都市へ憧れ、都市部へと流れる。地元に残った高卒を母体とする商工会は、つねにどうやって
消費を増やそうかと頭を捻っている。

地方のジレンマは、人材が都市部大企業へ移動してしまうことであり、人口そのものが
減って活力が減退することである。しかし、若者がより「豊かな生活」を求めて、
ホワイトカラー職を追い求める事を止めるのも難しい。自分たちの農業生活ではジリ貧なのは
明確だからだ。そこにある金銭以外の豊かさは無視され、現代日本の社会における普通生活
を築こうとすれば、都会へと移り住むほかない。

地方の若者の一部は、大学へ行き、高卒や専門卒は、中小企業で働き始める。
この大枠の中で、様々な問題が生じている。それが今の日本である。

ちなみに、人材の流動はそうそうに起こらない。なぜなら、それが損な仕組みであるためだ。
大企業ムラに入った人間は大企業間を渡り歩く。もしくは中小企業にうつる。中小企業の
人間は、中小企業内を渡り歩く。もしくは、非正規になる。とりわけ女性や高齢者はそうなる。

大企業が終身雇用を維持する事で、企業内人事統制をとったわけだ。それはインセンティブで
あったわけだが、それが長く続いた結果、入った人間はその能力がスポイルされてしまった。
面従腹背でなければ、なかなかつらいのが組織内での行動なのだ。そこには会社都合の転勤
や、サービス残業への圧力がある。今の職をやめると損をするのが明確なのだから、多少の
我慢はやむを得ないと、休日出勤するのである。

これがエスカレートすれば、社畜やブラック企業化する。他にいく当てがなければ、
当然ながら、従業員の搾取はその力を強める事だろう。

不景気になれば、中小企業だって同じ事だ。地元にはなかなか就職口がない。
ともすれば、嫌な仕事であっても、引き受けざるを得ない。そうして、不本意な仕事に
従事する人達が増えていく。

日本の雇用が、長時間で低生産なのは、仕事へのインセンティブがない事と、
従業員の創意工夫など、求められていないという事に尽きる。評価がひたすらに、
在籍期間なのだから、何をしたからといって、大した事ではない。むしろ、何かをやろうと
すれば、新しい仕事を増やしかねない。そうなった時には、同僚から恨みを買うことだって
ある。何もしないのが善なのだ。そこにナッシュ均衡が存在するわけだ。

こういう社会ルールでは、まるで共産主義と同じ事が起こる。頑張ったものがより多くを
得るわけではないなら、そこで頑張る理由は見当たらない。手をなるべく抜くのが労働者と
しての賢さになる。能力の有無に関わらず、賃金があがるなら、ほどほどでいいのだ。

これを防ごうと、日本社会は管理化する。ノルマ化する。こうして職場は薄暗くなっていく。
管理するものとされるものは対立し、ムラの内部は険悪さが蔓延するのだ。管理を簡便に
したい企業は、従順な社員を登用する。しかし、従順な社員は企業を成長させたりはしない。
ただ、目の前の仕事をするだけなのだ。

こうしてここ20年は食いつぶされた。かつての成功体験を引きずりながら。
未だに、60代の人間はこれを追い求めている。それがための安倍政権であろう。
かつての夢をもう一度ということだ。だが、世界は元には戻らない。

小熊氏は、日本社会における職能雇用に疑問をなげかける。諸外国では、特定の職につく
には、その職のスペシャリストになる必要性がある。そのためには学ぶ必要があり、
その証拠が必要である。世界的にみれば、日本は低学歴社会のままだ。海外では、特定の
ポジションにつくには学歴、それは名前ではなく、ランクが必要とされる。博士号が
なければ、役員になれないなどである。そういう壁があるがために、海外の人々は、
本当の意味で学歴をつけることに真剣である。

日本では、どこに所属しているかが問題であって、何をしているのか、何ができるのかが
問題にならないのだ。その結果として、色々できなくもないが、どれも中途半端という
人材が大企業にはゴロゴロいる。彼らはますます外へ出られない。出る理由を失うのだ。
実力で勝負できないなら、勤続年数を誇るだけになってしまうだろう。


現代日本において、正社員は減っているのかという事について、小熊氏はデータを示し、
否定する。むしろ、ずっと横ばいといえる。一方で、非正規社員は増えている。
その裏側で自営業者がいなくなっているのだ。

端的にいえばかつては一次産業従事者たちが自営業者として存在していたが、彼らは、
より普通の生活をもとめて、足を洗ってしまい、その担い手になるはずだった人々は、
非正規社員として、大企業の手足になったという事だ。

これが現状日本で起こっている事なのだ。不幸にも勉強が不得手であると、
日本社会では、中小企業に入りゼネコンとか地元企業に入り、もっぱら大企業の下請けになるか、
家業をついで、零細の農家や、漁業や林業をやるかとなる。いわば、王道の経済圏から排斥される形
でしか生きられない。多くの人が思い描く、日本的生活を手に入れるのは、一部の人に過ぎない
ということだ。

逆に、転がり落ちればどんどんと落ちていく。特に不景気になって、正社員になれなかった
人達は、パートやアルバイトで生計を立てるしか無い。そうなると技量も技術も増やせない。
よいより職を見つけるための手段は存在しないのだ。そのような立場はさぞ苦しいことに
違いない。かつてならば、ムラ社会の中で、農作業に真面目に性を出していれば、それなりの
豊かさで暮らせた人々である。

日本のしくみは、なるほど、ほどよく歪んでいる。
それが今の所の感想である。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。