左派やエリートの冷血さともどかしさ [思考・志向・試行]

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/74417
石戸諭氏の記事である。

これを読んでいてふと思うのは、左派的な思想性をもつ人々の裏返った冷たさだ。
どこまでも、理知的なエリートたちは、論理で世界を把握しようとする。
その世界の把握が、感情や情動といったものを置いてきぼりにしている。

一方で、世界に住む人々の大部分は、もっと利己的で短絡的な人々である。
こう書くとおこがましいのだろうが、批判的思想や自己批判が出来る事自体が
相当に高度な知的行為である。大抵の場合は、そんな事を考慮しない。
なぜなら、そういう態度は「負け」と世界は規定しているのだから。
よって、仮に理知的に理解はしても、ふるまいとしては、短絡的な情動をのせた方が
良いということになり、そのような態度がデフォルト化される。

それはある意味ではやむを得ないのだろう。
だが、一方では物事を理知的にコストをかけて理解した人々がいる。
その人々からいえば、物事に対する短絡的な態度は馬鹿にしたくなるようなものだろう。
そして、一種のパターナリズムが発動する。啓蒙というやつである。相手の理解を
見限った場合は、命令や強制というものに変化する。

世界を理知的に把握したエリートたちが、こうすれば良いと考えること。
それは一見すると、短期的に損をふくむ事が多い。場合によって、事実上損をする。
だが、その損を上回る得が全体として体現出来る。こういう物事の決定指針は、
民主主義にそぐわないのは当然である。

たとえば原発問題。この問題は二重にねじれているので厄介なのだが。
他には、環境問題である。環境問題を自分たちの問題と考えないのは、もはや
反知性主義であると断定できる段階である。多くのデータを信用するならば、
温暖化は発生しているし、もっと具体的には多くの森林伐採が行われており、
それだけをみても、人類の持続性は危ういのである。

そこで、知的エリートはこういう時に、正当な手続きで人々を説得しようとする。
つまり人々に警告を与えて、行動を変容させようという事だ。そして、その行動とは
大抵の場合「短期的な損で、長期的な得」である。

だが、説得すべき相手はどういう人々であるのか。説明をそもそも理解不能である
場合と、その説明を理解した所で、そのような行動をとる事を嫌がる人々である。
その結末はどういうことか。

昨今の反知性主義とは、要するに「あいつらわけわからないことをいって、
俺らを騙そうとしてるんじゃないか?」と言う懐疑主義である。

エリートたちとの間にある相互不信が、問題を大きくしているのだ。
知恵あるものの判断を仰ぐのは、人類の知恵であった。だが、その知恵あるものが、
自らの利益しか考えないとしたら? その時、普通の人々は理解可能なものに親しみを
抱くだろう。理解可能な中身とは「短絡的で目先の利得を押し上げる」言説だ。
そして、わけのわからない理屈ではなく「単純でわかりやすい断定」言説である。


民主主義を構成する人々は一般的知性である。ところが、社会は日々複雑化していく。
あらゆる場面で物事がややこしくなるのだ。社会を複雑化させるのはエリートたちの
やり口でもある。複雑な仕組みであれば、騙しが効くからだ。法律は日々ややこしく
なるし、社会のありようもまた同じ事。ましてや情報を得る手段として発達したネット
だって、ますますややこしくなっている。こういう時に何を信じて行動するといいのか。

全体を細部を含め理解できるのは、知的エリートたちと言いたいところだが、
もはや、知的エリートすら全体把握は無理であろう。そのくらいに社会はややこしい。
だが、問題を限定すれば、知的エリート達はきちんと正解を導く。残念なのは、その
ことだけみても、一般的な人々からみれば十分に複雑なのだ。

結果、知的エリートは結論だけを連呼する。そして現状の危機を説明して行動変容を促す。
理路が正しいならば、誰でも同じ解にいきつくはずである。これが知的エリートの思考法だ。
そして、間違えならば、誰かが修正するだろうと考えている。

ところが世間は違う価値観を持つ。回答は唯一にして完璧正解であるべきだと思っている。
そして、その答えとは「自分でも理解できる」と信じているのだ。

これはリベラルが追い求めてきた事柄でもある。かつては、非知性的な態度が支配していた。
それを知性は打破してきたのだ。ところが、知性のありようが複雑化した結果、こうした
方が良いという内容が、実にややこしくなった。一見すると常識外の事が答えになったりする。

また、知的エリートたちも酷いもので、バカは相手にしないという態度をとることが
しばしばである。結果として、理解させようという気がない人々が多くなり、理解したいと
思う人達は減った。また、そもそも的に、知的エリートはその差分によって高給取りに
なっているわけで、他者が同様に理解するならば、自分の立場が危うくなってしまう。
例えば、法律家などは、顕著であろう。法を理解しているかどうかで、金を稼ぐのだから。
ルールは複雑な方が良いのだ。それを理解できない一般的な人々は損をする仕組みである。

こうして、一般の人々は知性主義から離脱していく。知的エリートの言説がややもすると
信じられない場合や、ややこしくて理解できない。そういう時に、自分でも分かる単純化
した言説を、断定する人間が現れたらどうだろうか? さらに自分でもそう思っていたと
したら、同士が現れたと思うだろう。

この状態をネットが冗長する。自分にも理解可能な言説を流布する人々がいて、それに
賛同する。そのコミュニティに入れば、そこでの言説が常識化していく。

我々はこのような事態にまだ、対応しきれていないのだ。個々人が、自己にとって心地よい
思想に浸かっていられるという状態に。そのようにして常識を改変した人々同士をどうやって、
政治的にコンセンサスをとるかということに、まだ何も対応できていない。

その結果として、日本では安倍晋三がのさばり、アメリカではトランプが、フランスでは
マクロンが長となっている。彼らの言動は実に単純である。古典的といってもいい。
そこにリベラルさはない。意味不明な知的な理路は存在せず、問題を断定し、その解決策を
示す。彼らを求めていたリーダーとみなす人々が一定数いるわけだ。その言動が、どれほど
差別的であったり、ウソやデマに溢れているか、それは問題にならないのだ。

本当に恐ろしい事だ。ウソつきリーダーの言説を、ウソだと見抜く力がないのか、あっても
それで良い、なぜなら、自分たちも同じ様に考えているからという事実。

これに対して知的エリートたちも黙ってはいない。嘘つきがウソであると暴く。そして、
正しい事柄を説明する。だが、それは一般の人々の耳には届かない。むしろ、嘘つきの
言説が正しいと思ったほうが、自分にとって居心地が良いためだ。

残念なことだが、これが現状のあり得る描写である。

これを踏まえると、知的エリートたちのまともな言説はいっこうに広がらないだろう。
なにしろ、受け取り手がバカなのでわからないからだ。その一方で、同じ様に愚かな
エリートも存在する。名誉や地位をもっとも求めるような愚かなエリートは、知的
エリートの邪魔をする。問題なのは、知的エリートと愚昧エリートの区別が一般の
人々には不明だからだ。

こうして、愚昧エリートは、その愚昧さ故に、人々から支持される。その愚昧さとは、
非知的思想なのだが、実はの非知的思想こそがマジョリティなのだから、仕方がない。

原理的にいえば、社会が複雑化し、一般の人々が理解不能な領域が増えるほどに、
知的エリートと一般の人々の間には溝が生まれるのだ。そして、そこに対立が生じる。
知的エリートの願いは、ただ、正しい情報を提供し、人々が間違ったことをしないように
と訴えているのに。人々はそれを否定し、話をきかないのだ。なぜなら、自分たちにとって
都合が悪いからである。

昨今の多くの問題の発生源が、そもそも一般の人々の一般的行動に由来するという事なのだ。

わかるだろうか。その考察を知的エリートが実行すると、「悪いのはあんたらだ」という
結論が出る。果たして、お前が悪いと言われて、はい、そうですか、自分たちの行動を変えます。
なんてことが起こるだろうか?

また、現代人は自己認識が二極化している。一方には、自己肯定感が低すぎて苦しむ人々がいる。
反対に、自己肯定感に溢れ、自己の問題を理解しない人々がいる。一般人は大抵の場合、自己を
実際以上に肯定している。無論、それが心理的に健康なのだが、それが大きな問題を作り出す。

自分の理解を越えたものは、無視する。こういう思考の仕方を内面化するからだ。
理屈は単純で、自尊心を守るためである。自分が理解できないと表明するのは、この世界では
「負け」である。それ自体が失態なのである。すると態度は、反発か無視かの二択である。
そこに理解をするという行為は存在しない。

その結果は、当然、あやまった行動である。近視眼的には得であり、長期的には損をする。
そういう行動である。それは、我々が考慮すべき時間の射程が長い方が有利に振る舞えるのと
相同である。

さて、再度戻ろう。一般人が、特定の問題において誤った行動をとっている。それを知的
エリートが考察して、問題点を明らかにしたとする。じゃあ、その解決策や問題のあり方を
受け入れるだろうか? 否。 無視するか、反発するだろう。

そもそも人数的に知的エリートは数がいない。その一方で愚昧エリートは多いし、更に
一般人は圧倒的に数が多い。この状態で民主主義を貫徹したら、どうなるか。あたりまえだが、
愚昧政治になることだろう。そして事実愚昧政治が横行している。

まあ、どうにもならないのかもしれない。


知的エリートにも問題はある。彼らは時に冷血にみえる。事実冷血のこともある。
それは問題がどうにもならないまでに対応できなかった人々をみて、愚昧だと切り捨てたり、
こうすべきだと頭ごなしに行動を強要させたりするのだから。

また、知的エリートになるために、知性による競争を勝ち抜いてきている。そこにあるのは、
知的に優れていれば、ほかはどうでも良いというくらいの許容がある。だが、知的に優れている
事と、人格が優れていることはまるで別の事だ。極めて知的で、極めて悪辣な人間は確かにいる。
そして、知的エリートの生成過程から、彼らの内面にあるのは、「自分は勝ち抜いた人間なのだ」
という自負と、「勝ち抜けなかった人間たちは努力不足なのだ」という蔑視である。

こうして、また、知的エリートと一般人の間には溝が生じるのだ。

だが、そういう感情的対立は、実に不毛である。なぜなら我々は同じ船に乗っているのである。
対立している暇などない。対立を煽って儲けている愚劣なメディア人間は少なくない。そして
一般人はそういう対立を喜んで消費する。

こうなるともうどうにもならない。知的エリートで良心をもつ人々も、一般人の一部が
発揮する感情的反発や、酷い差別などをみて、諦める事だろう。そして、「こいつら駄目だ」と
断定するに至るのである。

知的エリートが、正しいことを訴えても、政治家は聞く耳を持たない。人々にとって
良いはずの事が、採用されず、ごく一部の人間だけが得をするような政策が大手をふって
実行されていく。それは「勝ち抜いた自分たちに有利にする」のが当たり前という価値観である。

知的エリートが牛耳る、官僚と大企業は政治家を利用して、自分たちの利権を広げる事に
終始する。それで何が悪い? いや、悪くはない。今の資本主義とはそういうものだ。
そして民主主義とはそういう事だ。社会は理想のためにあるのではなく、勝ち抜いた人々の
ものなのだ。これがリアリズムである。

勝ったという言い方はおかしなことだが、それで良いと、権力をもつ人々は考えている。
そういう人間しか権力を志向せず、上に立たないからでもある。大抵の長とはたぬきじじい
やばばあであろう。人格者ではやっていられないものだ。


ここまで理解したら、どうして現代日本が失敗してるかはっきりするだろう。
その対策はどこにあるのか。

安富氏は、どうにもならない大人は諦めて「子供を守れ」と主張している。
宮台氏は、どうにもならない社会は、どうにもならないのだから、とっとと崩壊して
新しい世界をその先に築くしかないだろうと言っている。

私は、彼らほどざっくりとは割り切れない。どこかで一般知性を信じているのだ。
個々人に存在する良心をもっとかき集められないだろうか。その方法はないのだろうか?
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