習慣ーゲーミフィケーション [思考・志向・試行]

人は大抵のことを習慣化する。

とある研究によれば、人の日常の4割は習慣的行動であるとも言われている。
ところが、多くの家事などはなかなか辛さを感じることがある。

たとえば、掃除。やればスッキリするので、気持ちが良いのだがとにかくやるまでは
時間がかかる。なかなかやり始められないのだ。そして、どうでも良い場所は本当に
やらないものだ。

それから、ゴミ捨てなどもなかなかラクにならない。やはりゴミを集めて収集所へ
もっていくのは面倒くさい。

これらの行動は既になんどもやってるのだから、すっかり慣れてしまってもおかしくはない。
ところが、掃除にしてもゴミ捨てにしても、習慣化とはほど遠い気がする。それはなぜか?

おそらくだが、毎日やらないからだろう。
3日おき、一週間おき、というような事柄は習慣化が難しいのではないか。

毎日やることは習慣が発揮され、さほど面倒ではなくなる。
自然と身体が動く。例えば、顔を洗ったり、歯を磨くといったこと。
それらは習慣なのだ。

だが、掃除やごみ捨ては違う。毎日ではない。でも、やらなければならない。
このちょうど習慣化しにくい物事なのだ。やりたいことなら別だろう。
しかし、やりたくもないなら、やらなくなる。
というわけで、掃除やゴミ捨てなどはついついうっかりする。

習慣化しにくい事柄の本質は、毎日ではないこと、そしてそれがどうしても必要ではないことだ。

では、どうして変な習慣が発生するのか。
たとえば、いつも同じ場所でポテチを買ってしまうとか、スマホゲームに興じてしまうとか。
それは、間違えなく報酬系を刺激するからだろう。俗に言うドーパミンである。

習慣化というより中毒化といえるが、それには報酬が必要である。
報酬といっても、金じゃなくてもいい。それは何かをゲインするという感覚である。
行動の後に、ゲインを得られること。これを人は繰り返して行うようになる。
そのゲインとは、食事でもいいし、快感でもいい。とにかく行動後にゲインの感覚を
得られればそれで十分に中毒になる。そして大事なのは、それが毎回ではない事だ。

意外なことに、行動後に特定の報酬が得られると確実にわかっている時は、
人は中毒化しにくい。むしろ、時折、適当な頻度でだけゲインを得られる時にだけ習慣化する。

習慣化の要件は、
1.行動後に報酬があること
2.報酬は毎回ではなく適当な頻度があること

これはAIでいう強化学習と呼ばれるアルゴリズムである。
人の習慣化のメカニズムを機械にやらせても、意味ある行動を作り出せるわけだ。

この習慣化の作用、つまり行動の強化は、おそらく我々が生物であるという事実に基づく。
このうまい習慣化こそが、生物である我々の生存率を高めたからだ。

食にありつくには、獲物をとってくる、もしくは何かを拾いにいかなければならない。
当然ながら、毎回確実に手に入るわけではない。だから、たまにすかしたとしても、
再度、取りに行かなければならないわけだ。この食を得るという行為が生物学的に
発揮されるのが、報酬系である。あの場所にいけば、あれが手に入る。あの川にいけば、
魚が手に入る等々。これらの行動は不確実ではあるけれど、手に入れようとし続ける
事が大事である。まさに、食を得るには不可欠な行動と言えるだろう。

実際に獲物を手にいれたら快楽が生まれる。快楽が生まれると、その行為をまたやりたくなる。
性的なものも同様だ。行動後に快楽が生まれると、それを繰り返したくなる。それが報酬系の
主たる役割である。この仕組がなければ、生物として生存力が低くなってしまうことだろう。

時折発生するかもしれない快楽・報酬をもとめて人は行動する。
そういう仕組を持っているといえる。それは食や性を求める行為であり、一度や二度失敗
したからといって諦めるわけにはいかない行為なのだ。生物はうまくできたもので、
それなりに失敗しても、その行動を繰り返すように仕組んであるといえる。

結果的に、人々は報酬系を駆動させる行為にふけるようになる。
一方で、報酬系を駆動させない行動もまた必要になった。それは1万年くらいまえから始まった
定住である。人の身体は文化ほどに急速に変化しない。よって、生活に必要であっても、
生物学的には不可欠ではない行動には、報酬系は働かないのだ。

定住に不可欠な行動とは、まさに掃除である。ゴミ捨てである。
これらの行動は、生物学的にみて基本的に快楽が生まれない。掃除には多少の快楽が生じるかも
しれないが、必須ではないために、そのように人は適応しなかった。むろん、掃除好きな人も
いて、何かしらの快楽が発生している可能性があるが、大抵の人は掃除にそこまでの報酬は
感じないのだ。

よって、掃除やゴミ捨てという行為はヒトにとって苦行になる。意思の力でなんとか実行する
事の一つである。それは、歯磨きと同じではあるが、これらの行為との大きな差は、
毎日かどうかである。毎日の事は苦行的であっても、習慣化しやすい。

ちなみにトイレなどは毎日の行為だが、これは快楽行為である。つまり、報酬がある。
用を足した後にわずかながら、スッキリした体感を得られるだろう。それが報酬なのだ。

だが、歯磨き後の快楽はほとんどない。同様に掃除後に快楽もほとんどない。
よって、これらの行為を習慣化することはないのだ。それは生物の適応的にみても、
定住がごく最近に起きた出来事だということも関連するのだろう。汚れたら別の場所に移れば
良かったわけだ。

この報酬系はなかなか強力で、人は現物的な報酬だけでなく、抽象的な報酬にも反応する。
例えばカネだ。カネとは完全な幻想である。世界のどこにもない。紙幣や貨幣はそれを具現化
しただけであって、カネの本質は概念である。そのカネによって、人は簡単に動く。
報酬があるというだけで、人殺しさえする。これは完全に報酬系のバグみたいなものだ。

本来は食を得る、性を得るというために発達した器官が、カネという幻想にも同様に反応
するようになった。同じく、名誉や承認という社会的な称賛に対しても働く。これがあるために、
人々は社会的地位を得ようと試みる。これらもまた報酬の一部だからだ。報酬を得ようとしてしまう
のは、それが習慣づくからである。あの興奮をもう一度って事なのだ。


翻って、報酬がでさえすれば、人は行動する。これを現実に落とし込もうというのが
ゲーミフィケーションである。本来報酬のないところに、報酬を擬似的にでも与える事で、
行動を強化しようという事だ。ゲーム化とはつまり行為に対して報酬を設定することである。
人によっては人生そのものをゲームであると主張するものがいるが、それは無茶である。
人の報酬系そのものが人生ではない。だが、かなりの行動に報酬系が関与し、影響を与えている
のは間違えない。

人は他者から欲望をもらう。他人がなんらかの行為後に喜びつまり報酬を得ている現場を
みると、自分もそれをしたくなるという事だ。報酬系がうごめくには、自分が実際に報酬を
もらったことがある経験だけでなく、他人がおこなった経験であってもいいのである。
こうして、他者が喜ばしい事をやっているとき、それを自分もやってみたいと望むようになる。
それが行動の駆動となり、実際に行動した際に快楽を得ることができた場合、人はそれを
自己の習慣に取り入れるというわけだ。これは文化ともいえる。

さてゲーミフィケーション的に、掃除を習慣化できないか。人の報酬系をだまして、
苦行を快楽に変更することは可能なのか。これがまさに現代的な過大ともいえる。

簡単には、掃除後になんらかの報酬を得られればいい。それは抽象的なカネでもいいし、
身体的な快楽でもいい。掃除をしたらセックスするという事にすれば、ものの数回で、
掃除にアディクションするかもしれないわけだ。この仕組をもっとライトにしてもいい。
例えば、掃除機から音楽を流す。掃除が終わると心地よい音がするなど、多少とも快楽に
訴える。そういう報酬を備えることで、掃除という行為を強化できるだろう。問題は、
誰で彼でも通用する報酬がなかなか難しいことだ。掃除をしたらカネをくれるというのは
まさに、仕事そのものである。

こういう事をすると完璧に習慣化すると思いきや、実はしない。

不思議なのだが、行為そのものに快楽を生じさせない連合的なゲーミフィケーションの弱点は、
快楽を生じさせるものにすぐ馴化することだ。そして、持続させるには報酬を大きくする
必要がある。多くのゲームには、レベルなるものがあったり、アイテムがあったりする。
それらは報酬となっていて、ゲームという苦行を続けさせるための仕組みである。そして、
これらの報酬は常にインフレするしかない。

また、この連合的なゲーミフィケーションの最大の弱点は、報酬がなくなるとたちまち冷める
事だ。要求水準が上昇するのである。アンダーマイニング現象として知られるこのことは、
また生物的に意味がある。かかる負荷に対して予期する報酬がある。だから負荷をこなせる
わけだ。みんなで巨大なマンモスを倒す事は困難ではあるが、達成すれば多くの報酬が得られる。
だからやるわけだ。そうしてマンモスは絶滅したわけだが。。。しかし、高負荷な行為をやっても
報酬が得られないとなると、今度は負の報酬が働くことになる。人は負の報酬を正の報酬よりも
一層避ける事が知られている。そりゃそうだ、高負荷の事をやって報酬が得られないとなると
やるのはバカバカしい。すぐさまにその行為はやめなければならない。ということで、報酬が
なければやらなくなるのは当然なのだ。

これらが仕事の現場で起こっている。仕事の報酬は増えないとやる気を阻害する。高負荷の
仕事には大きな対価が必要だ。また、一度上がった給与水準を下げるのは厳しい。やる気を
簡単に削ぐことが出来る。要するにゲーミフィケーションとは、仕事そのものなのだ。

仕事には人の感じ方が二種類ある。一つは高負荷の行為。もう一つは快楽としての行為。
個人差があるために、同じ行為でも誰かにとっては快楽で、誰かにとっては苦行である。
仕事は本来ゲーミフィケーションであるが、仕事そのものが好きで快楽という場合がある。
これは、ゲーミフィケーションされた仕事ではない。要するに、快楽原則での行為である。

画家が絵をかくのは、絵を売るという事以上に、絵を書くのが好きだということだ。
これは行為そのものが快楽を生むという事。つまり、習慣化する事である。習慣化した行為は
当然ながら上手になる。うまくなれば、それは仕事として価値をもつ。こうして画家は
生計を立てられるようになる。これは音楽家でも、研究家でも一緒だろう。

昨今のやりがい搾取とは、この習慣化の行為に対する報酬の割引のことだ。
やりたいことをやらせてもらっているのだから、報酬は少なくてもいいだろうという考え。
これについては逆のことも知られている。とある行為に対する報酬が少ない時、人は、
その行為の正当化のために、それが価値あることと心的に保証するのだ。それなりに
大変な作業をやってもらい、1ドルもらうグループと、20ドルもらうグループにわけ、
仕事の楽しさを評定してもらった研究がある。すると、1ドルグループのほうが仕事が
楽しかったと答えるのである。つまり自分が損をしていると思いたくないために、
自分の行為に価値があると考える傾向があるわけだ。

これはかなり際どい事を包含する。仕事の価値に応じた報酬というのは幻想ということだ。
そして、やりたくない苦行こそ、高い報酬を与える必要性がある。ともいえる。世の高給取り
とは、人生をやりたくないことで過ごしている人々である。経営者や資本家は除いてだが。
少なくともやりたくないと多くの人が思う事をやることでしか、高給取りにはなれないという
事でもある。矛盾するが少なくとも給与水準が高い人間とは、苦行に生きている人である。


行為の快楽とゲーミフィケーションは微妙なバランスで成り立つ。
勉強が好きな子を、勉強から引き離す方法がある。それは勉強に報酬を与える事だ。
そうしたら、ますますやるじゃないかって? まだ続きある。報酬をしばらく与えた後、
報酬を取り上げるのだ。途端に勉強をやる気がなくなるだろう。勉強が好きで勉強からで
十分な報酬を得ていた人に過大な報酬を与え剥奪すると、もとのように勉強好きというだけで
快楽が得られなくなる。これがどう復元するかは知られていない。だが、とにかくこうやって
カネなどで報酬を与えると、勉強という行為を仕事化することが出来る。

同じく、画家の絵が売れるとなると、売るために絵を書くようになる。結果として、
報酬がなくなったとき、絵を書かなくなるということはありうる話だ。

よく言われることだ。好きを仕事にすると、その行為が好きではなくなると。
だから、仕事と好きは分けておく。これは理にかなっている。一方で、好きでもないことを
やると高給取りになれるわけだが、人生を好きでもない行為で埋め尽くすのは人生の無駄遣い
ともいえる。では、どうしたら?

我々はついつい極端を夢想する。違うのだ。仕事も好きなこともほどほどにやればいい。
好きなことを仕事にしても問題はない。ただ、仕事としてその行為をし続けてはいけない。
逆に、苦行のような仕事でも、好きになることは可能だ。仕事の中に好きを見い出せばいい。
つまり、どちらも正解なのである。答えは極端なものではない。これは世の真理である。

やりたいことを習慣化したい。そう願うそこのあなた。うまいゲーミフィケーションは、
あなたを多少はラクにしてくれるはずですよ。

あ、そうそう、私は大掃除をしなくちゃいけないんでした。。。
以上、掃除回避の言い訳でした。やらねば、トホホ。
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