勝手に推し量るー他人の心ー [思考・志向・試行]

他者の心の状態を推定する事を「心の理論」と呼ぶ。
それを試すテストを誤信念課題という。サリーとアンの話だ。
サリーが遊んでいたおもちゃを箱にしまう。その後、サリーは立ち去り、アンがそのおもちゃで
遊ぶ。そして、そのおもちゃを戸棚にしまう。その後サリーが帰ってきました。サリーはどこを
探しますか? と質問をするのだ。

すると3歳では戸棚と言ってしまう。一方で、4歳になるとおもちゃ箱と答える。
つまり、被験者はサリーがどういう信念を抱えているかを正確に推定できるというわけだ。
そして、この能力を「心の理論」とよぶ。


個人的にはこれを「心の理論」という言い方をするのはちょっと「心」に失礼だと思っていて、
どちらかといえば「信念推定の理論」というようにピンポイントであるべきだろうと思う。

さて、この能力は普段はもっと違った形で利用される。
それはご機嫌を伺うという事だ。もしくは、思考を探るという事だ。
この時大事なのは、その推定は常に、推定であって確固たるものではないということだ。

たとえば、上司がぴりぴりしているとする。ああ、機嫌が悪いのだなと思う。
しかし本当に機嫌が悪いのかは、上司に聞くまでは分からない。もしかしたら、腹が痛いの
かもしれないからだ。この時、人は今までの経験や、自分の行動を他者へと投影させる。

つまり、ここで人間力、性格というものがものを言うことになる。
自分が自分をどういう風に思うのか、それが他者への視点へと反射するわけだ。

もし自分が感情的な人であれば、ああ、あの子はきっとこんな感情にちがいないと
推定し、思考する人であれば、こんな風に考えているに違いないなどと考えることに
なる。

この時、似たもの同士、似た前提を共有している人は、コミュニケーションがスムーズだ。
だが、まるで違う場合は誤解をしばしば生じる。そのもっともたるものが男女である。

男女では生理的反応がそもそも異なる。だから、お互い同じものを見たときの反応が
そもそも異なるわけだ。それでいて、相手の状態を推し量るために、ときにとんでもない
誤解を生じるという事になる。場合によっては真逆のこともありえるのだ。


対策としては、余計なことを付与しないという事がまず上げられる。
相手が何を考えているのか、感じているのかは相手の持分であり、それを正確に
推し量るのは困難だと思うことだ。それは逆に期待しないという事でもある。
相手がこう思うだろうな、という考えを基準に、相手を裁かないということだ。

だが、こんなことはしょっちゅう起こる。とりわけ上下関係が存在するところには。

親は子どもの気持ちを勝手に推測する。そして、こうに違いないと決め付ける。
その結果、子供たちは自分の本当の感情に疎くなる。これがいわゆる精神的虐待である。
相手の気持ちを考えないという事が、一番の問題点だ。そういうと、すぐに親は子供の
気持ちは親である私が一番よくわかっているなどという。そんな嘘に騙されてはいけない。
そもそも、自分の感情すらはっきりしない場合がある。それを脇において、他者の気持ち
がはっきり分かるなどありえないことだ。

そうして、往々にして子供がよく分かっていると思う親の子ほど、問題を起こす。
それは親に自分の本当の気持ちを伝えるための問題行動なのだが、親はそれを他人のせいにする。
友達や、先生など身近な人のせいであると。だが、本質は親のせいである。親が子供の
気持ちを勝手に作り上げたことに起因する。

相手のことを理解していない、するつもりがないのに、理解した気持ちになって
対応すること。これが一番の問題である。時に、そんなことないよとフィードバックが
かえってきて、驚くなんてことがある。我々はかなりの割合で、心の理論に失敗している
と思ったほうがいい。

なぜなら、推定したことは自分そのものなのだ。相手ではない。相手のことを知りたければ、
たずねるほかは無い。勝手な推定は齟齬を招くだけなのだ。意図がわからなければ、聞くほか無い。

だが、日本の文化の悪い点は、この聞くことを妨げることだ。
そして、聞くことが事態が能力の欠如とみなされることだ。
相手に同調できないのは、お前の力が足りないからだ、KYだからだという。
そういう圧力が日本にはある。そして、その多数派の思考・感情についていけないと、
日本では大変暮らしにくいのである。

だが私はいいたい。そんなもの気にするなと。
同調せざるを得なかったのは、工場という場における兵士が必要だったからだ。
これからの時代は、むしろ個人が何を考えているのか、どう思っているのか、
それが重要となる。

また、相手が理解できなくても、聞くことは常に可能である。
不機嫌そうな上司がいたら、「どうしたのですか?」と聞くことは別段なにも問題ない。
むしろ、それを察しろというコミュニケーションの方が異常である。とかく日本人は、
察することを良しとしすぎである。そして、それがしばしばずれるという事に無頓着すぎるのだ。


自己嫌悪に生きる人は、この他者からの感情押し付けを食らった人である。
他者の期待を生きるとは、自分の感情を抑える・無視する事にほかならない。
その結末は大変ひどいものだ。多くの日本人が、自己嫌悪にいきて死んでいった。
だから、おまえもそうしろと社会が訴えてくる。

そこで負けてはいけない。勝つ必要は無いのだ。ただ、自分の感情を見失ってはいけない。
それだけを心に留めてほしい。
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