女王の教室ー強いメッセージー [思考・志向・試行]

天海祐希主演のドラマ「女王の教室」を観た。その感想に絡めて、登戸事件を考えたい。
下記、ドラマのネタバレを含むので留意されたい。



さて、女王の教室は徹底して、強いメッセージのドラマだった。
そのベースにあるのは、子供の問題は親の問題であるという事だ。

一見すると、先生と生徒の物語であり、子供たちの成長ストーリーに見えるだろう。
だが、脚本家が狙ったのは、そこではない。むしろ大人たちがどうあるべきかと訴えているのだ。


子供に現実社会を諭すかにみえる主人公、阿久津先生は、実は社会人に向かって親に向かって
声を発しているのである。そして、子供たちが抱える問題は、親や家庭問題の一部なのだと
訴えているのである。

大人が子供をおもちゃのように、自己の道具化をする。その結果として、子供は自発性を
スポイルされる。そのようにして主体性を失った子供が大人になり、その大人はずっと親に
支配されて生きるのである。それは親が死んだ後ですら続くのだ。そうして、大人はずっと
精神的な子供のまま一生を終えていく事になる。

そのような親の元で、子供が果たしてまともに育つだろうか? このドラマはそこに最大の
メッセージがあるのだ。クラス担任が気に入らなければ、変えろ言ったり、何かをクレームを
つけるような親たち。そういう子供な大人は、このドラマをみて反省すべきである。

その点で子供たちは立派である。描かれている描写は非常に極端である。極端であるがゆえに、
雑にはなるが、分かりやすく作ってある。決して、子供たちがみて感情移入するような金八
のようなものではない。説経を感情的にたれるという生ぬるいものではなく、事実、現実の
事をそのまま子供に伝えているのだ。

たとえば、阿久津先生のクラスにおいて、成績によってクラス委員を決めるという手段。
これは社会では人事評価である。テストによって成績を決めるクラスの方が、その結果の
明確性からむしろまだマシかもしれない。会社の人事にはたぶんに、人間関係が絡むからだ。

阿久津先生の在り方が傲慢に見えるという人がいるならば、それは愚昧な世論に思考が
絡めとられているからといえる。阿久津先生の方針は、実社会におけるルールをごく単純化
したものといえる。たとえばルールを逸脱したものには罰を与える。それはルールを守る
事が社会の構成員になるという事を意味するからだ。ルールがおかしければ、変えればいい。
阿久津先生は、決してそれを否定しない。むろん、肯定もしない。なぜならルールを運用する
のが大人だからだ。


昨今では、とかく消費者マインドがあらゆる世代に蔓延している。サービスを受ける側では
不平や不満をいうのが当たり前だと。教育とはそういうものから一線を画す。教育は役立つから
やるのではない。教育を通じて我々は二つのことをクリアーする。

一つは、子供から大人になること。
もう一つは、仲間になること。


多くの大人はバカであるために、稼ぐことが大人になる事だと信じて疑わない。
日本では男性差別が横行していて、男が仕事をしないという事を烈しく断罪する。
その一方で、精神的な子供ばかりが量産された。スポイルしたのはもっぱら日本の母である。
かつての農村部では家事・畑仕事などをしながら子育てする事が当たり前であった。
それが、欧米的な、もっぱらアメリカ型生活が”理想”として日本に持ち込まれ、核家族化し、
多数のサラリーマンを作り出した。その結果、専業主婦が生まれる。これはごく最近の出来事
である。伝統でもなんでもない、新しい習慣である。

この層が、子供を「監視」「管理」し続けた。それはいわゆる承認の問題でもある。
母親はあらゆる可能性を押しつぶして、子供の成長を守るものとして日本では定義される。
結果として、子供たちはその感情の軋轢をそのまま受けるのだ。母親の期待を子供は一身に
あびることになる。優しくてたまたま能力があった子供は親の期待をかなえてゆく。そうして
主体性を失っていく。親が心配し、子供によかれとする行動が、往々にして子供の命の活性を
奪うのだ。そのような子供は結果として、精神的なゆがみを抱え、生きづらい生活を送る。

母親は夫に対して生活を依存する。それはまた屈折した感情を生み出すだろう。
選択権がない人生として、自分を規定するほかない母親は、子供に自分の夢を託すという
愚昧な行為に及ぶ。子供は犠牲者となるのだ。


阿久津先生は、このような愚かな親たちの支配に疑問を持つように促す。それは意図された
ものではないかもしれない。しかし、阿久津先生が事実を語る限りにおいて、それをどう
捕らえ、行動を変えるかは子供たち次第なのだと阿久津先生は考えている。むしろ、美辞麗句
を並べ、優しいふりをする事が阿久津先生のもっとも嫌悪すべき行為なのだろう。それは子供
たちから思考を奪い、与えられた娯楽で、消費者として、労働者として生きろという意味なのだ
から。

「目覚めなさい」と阿久津先生は何度も繰り返す。これは子供だけに向けているわけではない。
むしろ、大人に向かって投げかけているのだ。現状社会がどういうものかを直視し、どう対応
するのか。その訓練として学校という解釈である。

なんのためにあなたはそれをするのか? そう問いただす阿久津先生は、考えろと伝えて
いるのだ。そして価値観は自分で見出し、それをまずは親や周りに理解してもらうのだと。

阿久津先生の素晴らしさは、生徒の主体性を決してバカにしないという点であり、事実を
決してゆがめないという事であろう。もっとも、あれだけ徹底してニヒルに振舞える人間など
誰もいない。ドラマという事がそれを可能しているのだが、極端な人間描写が物語に芯を
与えている。本作のスピンオフに二つの外伝がある。まだ観ていないが、おそらくこの教師の
あり方を説明したものになっているのだろう。


それにしても、当時はかなり衝撃的な内容であったと推察する。また、当時の私がそれを
みたら、なんという先生なのだろうと短絡的に見たことだろう。歳を重ねると物事をより
俯瞰的にみられるものだ。この脚本家の意図はかなり成功したのだと思う。

各論的なことにフォーカスすると、この物語の主人公は志田未来演じる神田和美であるが、
彼女の性格が家族構成によって現れたものだと説明される。ドラマをみてすぐに違和感を
感じるのは、この主人公の両親の描写である。旦那から愛されない、つまり承認を得られない
母親は、とかくドジを繰り返す。皿を毎回割るのだ。その一方で、旦那は浮気を疑われ、
それをごまかす。そして妻に小言をいうのだ。教育については旦那は無責任であり、妻に
一任している。典型的な核家族を描いているのだろう。

旦那と妻が何かと衝突すると、子供たちは動揺をする。この時、性格が形成されるのだ。
不快な場面を消滅させるため、和美はわざと声をあげてみたり、お茶をこぼしたりする。
完全に大人が悪い状況で、子供にその尻拭いをさせているのだ。ドジを演じる和美によって
場が緊張が開放される。これがこの家族のスタイルなのだ。本来なら、母親と父親の人間関係
不和である。大人が解決すべきことを、子供が代わりにやるがため、子供の性格が変化する
のだ。かつてはこれをアダルトチルドレンと呼んだ。脚本家はそれを当然あたまに入れている。

そして、和美はこの感性、つまり不和の存在を緩和するという性質を帯びて学校に現れるのだ。
だからこそ、和美は学級において問題児でもあり、解決策を導く役にもなる。それは不和を
嫌うからでもある。仲良くしたいという欲求、友達が欲しいという欲求は、家庭内不和からの
影響があると脚本は訴えているのだ。

女王の教室に出てくる家庭はすべて歪んでいる。それは離婚などで家族構成が歪んでいるから
ではない。大人たちの心根が歪んでいるというメッセージなのだ。泥棒を働いてしまうエリカ
という生徒。実は裕福であり、典型的な金持ちの子供という設定である。この子は自分の事だけ
を考えるという設定で登場する。自分が犯した罪を、和美に押し付ける。そして自分は悪くない
んだと決め込むことで、自己欺瞞を解消しようとする。このような性向は金持ちの家の風土として
描かれているのだ。

また一方で、両親が離婚し、お爺さん(おかま)に育てられる松川尚瑠輝演じる真鍋由介も
また家庭からの影響を強く受けた。クラスのお荷物として描かれるが、決して、みんなに嫌われて
いるわけではない。彼の存在はクラスにおけるジョーカーである。王はかつて批判者を粛清して
きた。だが、時に王も間違える。そんなとき、芸をもって王を揶揄する人物がいた。それが
ジョーカーである。ジョーカーは王に向かって批判しても許されたのである。表向きは、
ジョーカーの戯言であり、裏向きには世論の反発や、批判である。教養あるものなら、そのような
自己批判をしてくれる存在の重要性を知っているはずだ。宮崎駿はインテリであるが、彼の
代表作「ナウシカ」にもジョーカーは現れる。トルメキアの王にはジョーカーが侍っている。

さて、話を戻せば、そんな由介の役割は実に大きい。彼もまたクラスの緊張緩和に貢献する。
問題視されつつも、実は彼や和美こそが、本来的な人間の在り様であるとドラマは訴えるのだ。
なぜなら、彼らは自分で考えて行動する人間であり、少なくとも他者との関係性の困難を「愛」
で乗り越えるからだ。愛というより、「慈悲」というべきか。それとも友情というべきか。
ともかく、和美は他者との関係を諦めない。そういう強さを持つ。


ドラマツルギーは転回をへて、解決に向かう。よってこのクラスが阿久津という先生が
投げかける問いによって、次第に結束を深めていくのは脚本的には当然なのだが、最後まで
阿久津と和美らが打ち解けることは無かった。ここがこの物語の一番すごいところだろう。
安易なドラマであれば、ここで笑顔を浮かべて、和解する。すると今までの行為は陳腐化する
だろう。悪役を引き受けるというような安易な解釈は許さないのである。

あくまで阿久津は社会の事実を伝えるメッセンジャーであり、そのメッセージに対して、
自己で考えて行動して応える。これが脚本家の描いた教育像だったのだ。



さて、登戸事件を考えよう。
https://brandnew-s.com/2019/05/28/noboritomutekinohito-tr000/


ワイドショーでは、原因探しに懸命になる。引きこもりであったとか、両親の離婚であるとか。
問題はそこではない。この社会の問題である。一人の人間をなぜ社会が放っておくのか。それが
最大の問題なのだ。また、同時になぜ引きこもるのか。それもまた問題なのだ。

心の弱さとか、本人の問題というのは安易な言明である。原因を探したつもりになって事件を
もてあそんでいるに過ぎない。また、もっと監視カメラをつけろとか、ひきこもりを監視しろ
などというのは、もっとも愚昧な言明である。むしろ解決策は逆であろう。

一人の人間を人間として扱わない社会こそが、社会的圧力による自殺を誘導し、また社会に対する
怒りを醸成させ、腐敗した精神状態を作りだす。原因というのであれば、社会と本人ともに原因が
あるのだ。

他者を仲間だと思う。これは教育の成果である。経験がなければ哺乳類は他者を仲間だとは
認識しない。仲間だと思えるには、他者との交流が不可欠なのだ。交流が断たれたとき人は、
他者を同じ仲間だとは思えなくなる。相手が他者を人と思っていなければ、コミュニケーション
は成り立たない。その時、人は侮辱を感じ、疎外を感じるのだ。感情が外へ向けば、怒りに
なり、内へむけば不安になる。今回の犯人は、感情を外へと発露したのだろう。

どれほど疎外感を感じ続けたのか。社会からの断絶を意識すればなお、社会から断絶される。
負のフィードバックによって、ますます孤立化する。仲間を自ら減らしてしまうのだ。一方で、
社会の仕組みも不可思議である。自ら声をあげなければ、誰も手を差し伸べない。では声を
あげるとはどういう事か? 行政に対するなら、自分を社会的疎外者であると認めなければ
ならない。自分を直視し、自分がそれに該当するのであれば、自ら動けるだろうと社会人は
高をくくっている。だが、そんなことを平然と出来るのであれば、そもそも孤立化などしない。

定年退職したオヤジたちが、街をうろうろしている。彼らのうちに多少の趣味でもある人は良い。
だが、大抵はやることもなくパチンコや図書館などに通いつめているだけだ。彼らは小銭を持つ
ゆえに、完全に孤立する事は無い。だが、人としての交流がどれほどもてるか。金銭ではない
関係性をどれほど日々もてているのか。それがひきこもりと、どれほど違うというのか。
私には大いに疑問である。彼らから小銭を奪ったら、ひきこもりになるのではないか?

日本の社会、とりわけ都市やそのサテライトでは、人は人間ではなく、労働者や消費者として
扱ってしまう。名の無い一エージェントである。無差別殺傷は全く許されるべきではない。
だが、これが象徴するのは、「私はここにいた!」という叫びに聞こえるのだ。人生の最後に
悪意をもって、自己の存在証明をしたのだと。悲しいではないか。実に哀しいのだ。

現代社会が世知辛いのは、一つには教育の失敗なのだ。大人になることも、仲間になることにも
失敗した大人たちが支配する社会。それが令和と呼ばれる現代である。それを我々は直視し、
問題解決を和美のように試行錯誤するしかないのだ。








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