コミュニケーションにおける協力 [思考・志向・試行]

コミュニケーションというと実際には何を思い浮かべるだろうか?
話し合い? 会話? やり取り? 情報伝達?

おそらく、どれもがコミュニケーションの要素ではある。だが、それらは本質ではない。
コミュニケーションの本質は「変わる事」である。

どういうことか。ここでいう変わる物は、考えや行動を指す。
コミュニケーションが取れているというのは、その情報を受けて、相手が変化する様を意味する。
「ちょっとこれをやっといて」「はい」といって、それが実行されるならば、それは
コミュニケーションが成立している事になる。だが、「はい」と言って何もしないならば、
それはコミュケーションとは言えなくなる。ただ、’音’に対して反応したに過ぎない。

要するに、受け手側には、変わる準備が必要なのだ。考えや行動を相手からの情報に
よって変化させるという準備である。それを持たぬものはコミュケーションは成り立たない。

では、発信者はどうすればいいのか?発信者は、受信者に協力を促すしかない。
協力とはどうすれば成立するか。過去の記事に書いたが、それは3つの動機に依存する。
1.相手を好きである 2.相手を恐れている 3.不当な利益を得られる
これらをバートランド・ラッセルは協力の動機とした。

例えば、教育を考えよう。教師と生徒である。この2つの関係性は一見すると、
2つの立場があり、上位者から下位者への情報伝達に見える。だから、コミュニケーションとは
教師が何かを教え、それを生徒が受け取るという形であると解釈される。しかし、ヒト同士の
コミュニケーションとはそんなものではない。

この二人の関係性は、教師は、協力を仰ぐものであり、生徒は協力を提供する側なのだ。
そして、生徒は同時にコミュニケーション可能性を準備する側である。これらが整って始めて
教育が可能となるのだ。

教師の行為とは、実は生徒への協力要請である。つまり、生徒に対して3つの動機のどれか、
もしくはどれかの組み合わせの動機を喚起させなければならない。よって、教師の行為目的は、
1.生徒に好かれる 2.生徒を脅す 3.褒めるor実益を提供する という事になる。

もう少し噛み砕けば、教師の一つの努力は、まずは生徒に好かれることだろう。
それがために冗談をいったり、良い人間である事を示し尊敬される事が重要である。これに
失敗すると、かなり教育は困難になる。

次に、教師は生徒を脅す事になる。テストをやると言ったり、当てて答えさせたり、
単位をちらつかせたりする。つまり立場的権力を利用するのである。これによって、
生徒を脅すことが可能だ。もちろん、生徒はこのような教師を好きになるはずがない。
ネガティブな感情の中で、教育が実行されていく。この状況で良い結果を期待する
方がどうかしているだろう。

最後に、利益をもたらすことだ。教室内における報酬とは、褒めることに相当する。
教師は権限上、生徒を褒めるということが可能である。この力を使って、教育を実行しようと
する。だが、褒めは常に有効ではない。時に効果的に響くだけであり、むしろ、生徒には
アンダーマイニング効果が発生する。長い目でみれば、褒めるというのはその効果を損ねて
いく。また、もっと違った形での報酬、例えば表彰などだ。テストの上位者に図書券を配る
など、そういう事もまた可能かもしれない。私立高校・大学では、成績上位者の学費が免除
されたりする。

よって、教師が教育というコミュニケーションを十全に実行しようと思ったら、生徒に
協力をして貰う必要があるのだ。そしてその手段は3つの組み合わせによる。
実は、教師は、生徒に協力を仰いでいる。それが教育現場である。昨今の学級崩壊とは、
要するに、生徒が教師に協力しないという事態そのものである。協力の失敗なのだ。

もうお気づきだろうが、これは上司と部下という関係性でも同じである。上司の命令に
絶対服従の世界では、もっぱら「脅し」が協力の動機であろう。しかし、この脅しという
動機はもっとも効率が悪い。それは黒人奴隷の例を考えればすぐ分かるだろう。動機が
恐怖に支えれている時、はたして労働は愉快なものだろうか?否。実行はされるが、それは
最低限の力による、最低限の結果しか生まない。ただ、この最低ラインを厳しい体罰や
それに準じた手段で押し上げることは可能だ。

例えば、ノルマを課す事だ。それを下回ると減給という罰が発生する。連帯責任という
体制にしておけば、他者からの顰蹙を買う。それを避けるために労働するわけだ。奴隷に
対する鞭打ちと対して変わりはしない。体育会系の部活であれば、ランニングが増えたり、
腕立て伏せが強制されたりする。

これもある種の技術でもって、統制をとれば甲子園で優勝するチームを作れるかも知れない。
だが、その結果をどこまで喜べるのかは、私には疑問である。

では一方で、生徒は何をするのか。それはオープンマインドで、変わる準備をする事である。
相手のいう事を受け止めるというのは、実は単純ではない。かなり高度な行動である。
誰の言い分なら、聞きたくなるか。まずは好きな相手の言うことであろう。好きな先生に
代わって成績がのびたなんて話はそこかしこにある。

不本意であるが、嫌いな相手からの情報は当然身につかない。すると心構えとしては、
どうにも好きになれないとしても、教育効果を上昇させたければ、相手に良いところを
見つけ出すか、相手を畏怖することである。相手を恐れば、協力は生まれてくるからだ。
ただ、かなり矛盾した行動になる。

あとは、報酬を得ることだ。テストで100点をとったら、おもちゃを買ってもらうなどだ。
だが、これは殆ど不毛である。そもそも教育とは、変わることである。報酬を得ても、
果たして、変わるだろうか? ただ字面の上辺だけを記憶してテストで吐き出し、その作業の
対価として報酬を得るとして、生徒の能力は変化に乏しいだけである。教育は失敗するだろう。

ここでコミュニケーションに戻ろう。
コミュニケーションは変わる事が前提であった。話し合いというのも相手のいう事を聞くという
心構えが大事である。相手の主張によって、自分の考え、行動が変わらなければ、無駄である。
それは話し合いでもなんでもない。ただ、言葉をお互いに発しただけの儀式である。形式である。

もう繰り返すこともあるまい。要は、コミュニケーションの成功は、互いに好意を抱いているか
どうか。そこが殆どである。相手の言動に上辺で従っても、何も行動原理が変わらないなら
ば、コミュニケーションは失敗している。

この事は、特に、教師や上司、親といった人々に考えてもらいたいことなのだ。
権威にあぐらをかいて、コミュニケーションをせずに、儀式だけしている人たちは少なくない。
そして、命令が通じないからといって、暴力や罰則などに出る。それはコストがかかるばかりか
事態は何度も繰り返されるだけなのだ。一度、暴力に訴えた人は、よほど誠実な謝罪がない限り、
その瞬間の成果を除いて二度と成果を上げることは困難になる。

現代の大人たちはあまりにもこれを知らない。軍隊的組織で出世した人々である。人という
生物の理解がうすく、他者を動物か何かと勘違いしているのだ。そして、今もなお、過労死や
自殺という形で、社会的下位者の命を奪っている。私はこのような自体を招く大人たちには
重たい責任があると思う。組織に一人でも、そのような犠牲者を出したとしたら、それは組織が
腐りきっているという事だ。そして、そういう人たちに対する暴力によって不当な対価を周り
は得ているのである。言語道断なことだ。

腐った外道が必ずしも、悪人顔をしているわけではない。真面目で品行方正にみえる大人たち
こそが、その無知さにより、極悪非道を働いているのだ。私にはこのような社会が狂気に見える。

既に処方箋は示した。あとは、この本質を理解し実行してくれる人が一人でも増えてくれることを
祈るのみだ。
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