「立場主義」-居場所を求めてー [雑学]

人は生活のための糧が存在すると、その状態で安定する心理を作り出す。
問題は、暫定的な生活形態であってもという点である。

乞食をしても、ひとまず食えるとしたら、人はその状態から現状を変えようとする
気力を持たない。なぜなら、それで生きられるからだ。他者は簡単に少し行動を変えれば、
そこから脱出できるのにという。そうじゃないのだ。彼らは積極的にそこにひとまずの
生活スタイルを生み出したのである。

あらゆる社会において人はそうやって正気を保って生きている。なぜなら、その程度に
人は強いものであり、柔軟な動物だからである。どんなブラック企業でも、周りがすべて
その状態を受け入れて何とかやっている限りにおいて、たいていの人はその状態を変えようとは
しない。そのくらいに、人は外部から影響を受けない限り、現状を変更をしない。

もちろん文句はある。だがその不満も半径5メートルだ。なんでアイツは俺より仕事が出来ないのに
出世していくのか、なんでアイツよりも俺は給料が低いのか、あの最悪な上司をそのままにしている
会社は何を考えているのか、こういった、人の不満とは直接接触する人々に対してのみ生まれる。
よって、会社全体の事なんてまるで考えようとはしない。ましてや、社会などいうに及ばない。

一番の文句は、立場における争いだ。多くの人は対人コミュニケーションにおいて、
自分の居場所を求める。他者は自分の立場を整えるための駒となる。自分のために他者がいれば、
それでいいと考えている。そのような<自得主義>における対人関係は最低最悪のものとなる。

対人関係のカーストは学校時代に育まれる。自分はイケていて、他者から羨望を浴びるべき
存在であると自己認知したものは、常に自己を称賛する他者を必要とする。だから子分をつれて
いるし、その子分には暗に服従を求める。これがありがちな自己尊厳である。誰かに命令をする
事で自己の立場を安定化しようと試みるものは、結局、自分が本当に欲しいものを得る事はない。
なぜなら、彼らの子分は利益がないとわかると去っていくからだ。大抵の人はそのような利益を
与え続けることは出来ない。

もっとひどい連中は、そういう親分にくっついて回る人々である。自尊心を他者に売りつける事
で自己の立場を確保できると信じている人々だ。彼らは同じコミュニケーションを親に対して
やっていることだろう。親が親分を気取るほどに、子供は尊厳を奪われることを知らないのである。
尊厳を奪われた子供は、グループからはじかれない様に、自分の意見を失ってゆく。なぜなら、
主張するとは、親分への反抗になるからだ。それを是としないのであれば、グループは崩壊する。
このような行動は醜悪と言わざるを得ないだろう。

自分が威張れる立場を作り出すことをもってして、自己尊厳を得たものも決して安泰ではない。
むしろ確定した立場がある方が、その立場を失ったときの落差が酷いだろう。その立場にしがみ
つくことは、この世にある事柄の中で、最も醜悪な事の一つである。その立場など、吹けば飛ぶ
ようなものである。要するに人生においてどうでも良い事柄なのだ。それなのに、大抵は自分は
重要な人物で、それに見合った処遇をされるべきであると信じている。やれやれ。

もうお気づきだろう。私は立場主義に出会っても動じない。むしろ軽蔑をすることだろう。
なぜか。そんなことはどうでも良いのである。あなたが威張ろうが何だろうが、私には関係が
ないのである。年齢が上であるとか、資産が沢山あるとか、どこかの社長だとか、そういう事は
人の尊厳と全く無関係である。だが、人はそれを後生大事に死んでゆく。ほとんど不可解である。

残念ながら、汎夫はこれに気が付かない。この記事を読んだ人も気が付かない。
これほど明確に書いても尚、理解できない。そういう事柄の一つなのである。それほどに
人には、他者の上に立ちたいという欲求と、その実現のための労力を惜しまないのだ。
結末は知れている。ならば、問いたい。あなたはその不毛さに耐えるのかと。

金を得ても、名声を得ても、尊厳を得られるかは別である。人は金のあるものに対して、
服従する。それは金という権力のまえで従順にならざるを得ない仕組みだからである。
だが、心根はその限りでない事はもはや明確である。相手がどう思うかという心まで
支配できないのである。

日本人は相対的に他者に阿る事が多い。それが「善行」であると信じている。もちろん
そんなのは嘘だ。だからそれをしないものや、裏切るものを非難する。それは不当なのだが、
不当だと気が付かない。

人が何かを主張する。これに同調する事こそが「善行」であると信じている人が多すぎる。
意見が違ってもよいと学ばなかった結果である。日本人には主体的な意見など存在しない。
そういう文化である。そして、それからはみ出ると、途端に生きづらくなる。

社会性という意味において、自己の欲求を抑えるのは確かに有効であろう。自得主義に
ならないという点において、浅ましい自己欲求は抑制されるべきだ。だが、価値観まで
売り渡す必要はない。そしてすべての人に自己尊厳がある。自己主張とは、わがままをいう
事ではない。この大きな違いをまた理解している人は皆無である。

自己主張とは「あなたを受け入れます」という態度の事である。
これは決して、あなたの言いなりになりますということではない。むしろ、あなたの存在性
を肯定するという意味だ。互いにそれを繰り返せば、人々は自分の立場を得る。それは決して
金や権力といった下らない価値観に依拠したものではない。相手の存在自体を認める価値観
こそが、文化の神髄であり、それ以外に重要なものは存在しないと言っても過言でない。

現代人は、この立場を得るために、日々過ごしている。もちろん、やり方は大抵間違っている。
だから、間違った形でしか人と関われない。そして今日もうまくいかなかったと嘆く。
キリストは愛と呼んだ。仏陀は中道と言った。我々はもう答えを知っている。だが、
身体運動はこれに追い付かずに2000年もの時が流れた。そろそろ目を覚ましたらどうか。

立場とは心理学的に言えば、承認である。他者承認を得たものこそが生きられる。
他者を金や権力で操って、承認を得ても、それはまがい物である。まがい物はまがい物の
感情しか生まない。それでも人は騙される。そうして今日もみんな騙されて生きてゆく。
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