存在論的安心感 [雑学]

現代社会は、存在論的安心感を人々が求める時代である。

この存在論的安心感とは、言うなれば、他者に必要とされる自分という自己認識である。
本質的に必要とされる必要性はないのだが、少なくとも本人が他者から存在を認められる事、
そこに多くの人の関心がある。

かつては共同体に絡め取られ、そこで生きる事を強いられたために、
このような存在論的不安を抱える事はなかった。一方で、現代は個人主義という名の下に、
自らが存在論的な意義を自らに見出さなければならなくなった。これはかつてより遥かに
困難になっている。

少し前までは、定職に就き、家族を築けばそこに自動的な形で存在論的意義を見出すことができた。
ところが今日は、定職に就き、家族がいてもなお、自己の存在が認められるかが別と成っている。
この承認欲求が過大であれば、人は承認を得ようと七転八倒することになる。

感情体験産業、つまりメイドカフェやボランティアなどが流行りとなる理由の一端はここにある。
人々は、強い共同体ないしは、人間的関わり合いを渇望する。そのくせに、個人的な独立性を保持
しようと努める。この矛盾する感情の中で、人々はとかく折り合いをつけようとする。

昨今では、人との関わりを金銭で買おうとするケースも少なくない。それはかつて、
人望はないが金はあるボンボンが友達の気をひくために、新しいおもちゃを友達に自慢することに
似ている。メイドカフェにおける関わり合いも、かつては自然と行われた関わりなのだが、
それが自然と行われなくなって久しいわけだ。

その理由として、やはり資本主義経済を考えねばならない。現代のような社会制度の元では、
利潤を生まない活動は無駄であると認定されやすい。その最もたるものが、人間関係における
感情のやり取りだろう。現代日本では、感情のやり取り自体が商売になる。このことが広まると
一斉に、感情のやり取りを出し惜しみするようになった。

人間関係の間に利害が生まれ、生の相手を信頼できるかどうかわからなくなってきたのである。
その結果、どうなったか。人は一番信頼しているものを駆使する。つまり金である。金を駆使する
ことで人間関係をつなごうとするわけだ。

その結果はとても満足がいくものではなかった。人々は本当の関わりに飢えている。けれども、
それを生のまま提供してくれる他者はごく少数になってしまった。無論、まだそのような関係性を
提供しあえる状況の人々は沢山いる。一方で、都市に取り残された人々は、関係性の枠からはみ出して
しまった。

現代は過渡期である。結婚というものが新しい宗教によって色付けされた時、我々は、家族の関係性
を考え直さなければならなかった。だが、それをサボっていたために、現代は混乱を極めている。
かつての結婚は第一義的に生活のためであり、好き嫌いといった愛情の問題ではなかった。よって、
結婚するということは、その他者と共同体を張るという意味であった。そこに感情の余地はなかった。

だが、新しい思考、つまり結婚とは愛情の連結であるという概念が入り込んできたために、
話は一変する。愛情があるうちは良い。だが、人は特定の個人に入れ込みつづけるようには出来て
いない。繰り返す。人は、特定の相手のみに執着できる動物ではない。よって、もし結婚という
社会制度を根幹に据えるのであれば、その結婚において愛情が消失した場合には、関係を解消する
ということになる。これが、現代の離婚の増加であり、現代人の常識となった。

しかし一方で、誰もがいつかは誰かの世話にならなければならない。その誰かとは、かつては家族
であった。だが、現代はその解釈が変わってしまった。家族とは愛情で結合しなければならない
共同体という重荷を背負ってしまった。これが現代の社会問題の本質である。

愛情による共同体など、一定時期を過ぎれば崩壊するに決まっている。よって現実に少なくない家庭が
崩壊を迎えている。家族とは、好き嫌いという感情抜きに、関わり合うことを義務付けられた存在で
あって、愛情の有無など問題ではなかったはず。そしてその定義によって成り立つ社会制度によって
今日はことが進んでいる。ならば、その根幹となる家族が崩壊するにあたって、社会制度が齟齬を
来すのは当然であろう。

人々が家族を否定することによって、そこに新しい商売が生まれる。感情体験産業であり、
承認を金で買おうとする行為である。何しろ、現代人は消費者として優れている。そのため、
自らがサービスの遂行者となることをすっかりと忘れ去ってしまった。無論、そのことが自らを
不幸にしている。存在論的不安とは、この他者へのサービスを負荷と感じることからくる。

古今東西の文献はいう。人の幸せとは他者のための行為であると。おそらくこれは事実である。
より正確に言えば、利己的な利他的行動である。ならば、なぜ他者の承認をしてあげないのだろう?
誰もが出し惜しみをするのだろう?

少なくともこの社会では、他者への承認をできるほどの大人がもういないという事実がある。
子供がそのまま大人になったような人々で世界はあふれている。少なくとも今の中高年は、
子供のままだ。自らの過ちに未だに気がつかずにいる。そして、同じような行為を子供達に
押し付けようとする。それを破壊したのは、紛れもない自分達であるのに。

小さい頃から、他者と競争を余儀なくされた子供たちは、少なからず他者への承認を損だと見切る
だろう。これは感情体験のナッシュ均衡とでも言おうか。他者承認における囚人のジレンマである。
自分が他者を承認しても、他者は自分を承認してくれるかはわからない。ならば、相手が承認して
くれるまでは、傍観しよう。こうして、二人とも懲役2年を食らうというジレンマ状態なのだ。

他者を競争相手と認識しろというのは、この現代社会全体を覆う最大の欺瞞であり、欠陥思想である。
どこの社会に、他者すべてを敵に回す愚か者がいるだろうか。共同体を自らが崩壊させてゆく原動力
を幼い子供達の脳裏に焼き付けている。それが現代である。とりわけ都市部ではそのような子供が
育つ。そのような子供らが大人になれば、どうなるか一目瞭然であろう。自己のことしか考えない
共同体への非適応者になるだけだ。その結果が、現代である。競争する土壌があるなら平等であろう
などと口にして、運悪くうまくいかなかった者たちを自己責任と言い募るのは、このような輩である。

資本主義社会、そして予定調和の物語が幅を利かす社会では、ドロップアウトを許さない一義的思想
に陥らざるをえない。そして、そのような社会での勝者は、決して社会を良くしようとはしない。
このごく当たり前が現在進行しているのである。弱者に自分がいつなるかもわからないのに。

このような日本を好きになれというのは、土台無理であろう。それに染まる連中は愚かだ。
一方で、このような日本でも、日本で生きる必要がある人々がいる。このアホらしい思想から逃れる
には、現代の制度、生き方、考え方を放棄するしかない。それは決して楽なことではない。

存在論的不安が生じる最大の要因は、自分を自分で生きる事を放棄しているからだ。
価値観は自ら作り上げることができる。少なくとも、既存の借り物はいつでも捨てられる。
多くの人は、それに気がついていない。まさにいけるロボットである。

運よくこのブログを眺めたあなたに言いたい。あなたは知らずにこのクソのような社会に適応して
生きるのか、それとも、知って目覚めるのか、どちらを選択するのか。

我々がすぐにでもできること。それは他者を仲間とみなすこと、そのために他者への承認を出し惜しみ
しないことである。とかく周りの人たちに愛情を注ぐこと。これだけで社会は変わる。
人々が欲しがっているのは、ただそれだけのことであって、金持ちになるとか、そんなことは、
人生にとってどうでも良いことなのだ。

存在論的安心感を金で買っていると思った人は、どうすれば金で買わずに済むのか、
その苦労を知ってほしい。そこにしか、本質的な解決策はないのだから。

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