意識とアルゴリズム [思考・志向・試行]

ジルドゥルーズはいった、「思考は外部からやってくる」と。

その心は、悩みは外部状況変化によって生じるという事だ。
少なくとも我々が思考と一般的にいうものは、外部への適応のためといっても過言ではない。

あなたはなぜ考えるのか?それは状況にうまく対処するためである。
多くの動物たちは思考をほとんどしないかのように見える。とりわけ単純な動物になるほど、
周りの影響のみによって行動を支えている。一方で人は、単純な入力と出力関係では結べない
程度に複雑な反応をする。これを一般に<思考>ないしは<悩み>と呼ぶのである。

決断とは、この思考の結果至った結論を実行する事である。
よって決断にはある種の”ため”が存在する。それが思考である。

デカルトが意識していたオートマトンは、この”ため”を想定できなかった。
そのため、あれほどに生物=機械論を論じたデカルトも、意識の源泉を魂に求めざるを得なかった
わけだ。だが現代では、この裏側にある情報処理プロセスの存在性が明らかになっている。
つまり、我々には既に意識が物理的性質によって発生しているのだという概念を受け入れている
のである。つまり、意識もまた機械の機能に過ぎないという事である。

多くの人は、このような事を書くと、主観的な体験などを持ち出し、そこに立ち現れる
クオリアの唯一性を説こうとする。だが、実際的な観察からいえば、我々は物理的装置に過ぎない
わけで、ならば、主観的体験自体は個別的であろうとも、主観を体感するという原理は共通で
あるということが推察できるであろう。

そのメカニズムもじわじわと明らかになっている。少なくとも、主観的体験を脳活動が支えている
というのは紛れもない事実となっている。磁気・電気刺激によって脳活動に影響を与える事が
でき、それによって人の認知も変わることが知られている。少なくとも、我々は薬を飲む。いや
酒でもよい。このような物質を体内に入れると、酩酊することはみなさん体験があろう。
これは、我々の意識が物質で支えられているという最もたる証拠である。

現段階で言える事は、脳の特定の部位には、我々の主観性と相関する活動が見られ、残りの部分は
外界との相互作用が強いという事実である。つまり、外部からの刺激に対して応答する部位と、
「内部」的な活動によって外部とは間接的に関わる領域が存在するということであり、このことは
まさに意識の内部性、つまり主観的体験の唯一性を担保するだろう。

では、その仕組みとは?残念ながらまだ仮説に過ぎないが、少なくとも、特定部位が意識を
支えるのに必要であり、それらの部位間の情報のやり取り自体が我々の主観性を構築するらしい。
統一感のある主観性。これを体現するための現象はいまだ不明である。例えば脳波を観察すると
経ち現れるいくつかの周波数帯の波は、意識的体験を支える脳活動の結果なのかもしれない。

むろん、物理現象と主観的体感の間には大きな隔たりを感じずにはいられない。
この部分を埋めるべく、日夜研究に励んでいるわけだ。

システム論を持ち出すと素朴な疑問が浮かんでくる。
脳の物理化学的な処理のやり取りで情報が処理されるのであれば、その情報をワイヤード
つまり物理回路に落とし込んだらどうなるかという問題である。おそらくは、物理化学的な
枠組みから言えば、そこで起っている事と同等の情報処理がなされた時、その物体は意識を
持つ事になる。つまり主体を持ったマシーンが出来上がるということだ。

もちろん、現実にはそれは無理である。同じ事を別の事柄で説明できる。
例えば、鳥は空を飛ぶ。この鳥と同じ原理を使えば、空を飛べる事はわかる。
実際に、鳥を解剖して、筋肉や神経系の役割を調べれば、それに準じたものを作成できるだろう。
だが、生物はあまりにも効率的なために、我々の技術では今の所、同等の部品を用意できない。
そこで、飛行機はどうするかといえば、その最も重要な原理、つまり翼の物理的性質を応用した。
結果として、我々は飛行機に乗る事ができ、空を移動できることになった。もちろん、鳥とは
本質的に異なってはいる。

これと同様な事を脳で行う時、我々は同じ問題にぶつかるだろう。よって我々が知りたいのは、
脳そのものの物理現象ではあるものの、そこに芽生える意識などの演算プロセスである。
それがわかれば、我々はその部分を応用し、脳を模したものを生み出せるに違いない。
これをチューリングはコンピュータに見出した。万能チューリングマシンは、計算可能な
演算器であり、情報処理を体現している。ならば、この原理から、人の思考もまた生み出せるの
ではないかと考えるのはごく自然であろう。

残念ながら、現在知られている神経細胞の原理は非常にシンプルである。
その組み合わせだけで、現実的な意識や主体性を生み出せるという気がまるでしないのが
現在までのお話である。

だが時が流れ、もっとクリティカルな発見等がなされた時、我々はマシーンに意識を宿す事に
成功するのかもしれない。

現在存在する人工知能にはその兆しがあるか?これが昨今の最も大きな関心事かもしれない。
我々には不可能な膨大な情報を一字一句間違えることなく貯蔵し、利用できる。それがために、
そこに意味を見出す事が困難であった。抽象化とはとどのつまり、<意味化>である。膨大な
事象の記憶は、ただの記憶に過ぎない。我々が手にしたいのはそこから思考を紡ぎ、現実への
対処を生み出す事である。

これらを実現できる技術は現在存在しない。だが、その萌芽がある。例えば、
ベイズ推定は、現実を程よく整理し、将来的予測を生み出す事が出来る。ならば、それは
既に思考と呼べるのかもしれない。鳥と飛行機の関係である。マシーンが行う推論と、
我々が行う推論はまるで原理が違うかもしれない。だが、同じく飛べることがまずは重要だ。
ならば、マシーンの推論にも意味があると考えるべきであろう。

かつてと大きく違うのは、大量なデータを保存できるようになってきたことだ。
生物はその存在からして、大量なデータを常に自身に取り込み、捨て去る。情報のエントロピー
である。そして生き物としての負のエントロピーの取り込みである。一方で、マシーンは
捨て去る原理を持たない。だから、データは保持され続ける。保持されたデータは、
常にただのデータに過ぎない。そこで、ベイズ推定等を含む、アルゴリズムによって、
そこに構造、意味を見出すように仕組むわけだ。

未だに、人工知能は、その構造・意味をヒトに向けて処理するように設計されている。
もし彼らに自律性が芽生えたとしたら、人工知能が認識した意味や構造は、ヒトにとって
不可解でも良いだろう。そのような構造意味をもって、人工知能が自己存在の増殖を望んだ
時、映画ターミネーターのような事が起こるのかもしれない。だが、現実的には、マシーンは
人々に無関心になるだけであろう。いや、そもそも増殖自体が無意味であろう。
何しろ、その存在性はアルゴリズムにしかない。ならば、自己は不滅であって、増殖は無駄だ。

将来的に人は、人智を超えた存在としてのマシーンを神とあがめるのかもしれない。

我々が思うほど、マシーンは脅威ではない。むしろ、我々は常に、他の人類と競合関係にある。
生き残りをかけた争いは、マシーンを有効に活用できた人々によるのだろう。それこそが
我々の目指す所となる。

人は所詮、動物である。生きて死ぬ。ただそれだけである。ならば、日々を充実させること、
良い人生を模索すること、そのこと以外に何が価値を持つのだろう?

良い人生とは何か。永遠のテーマでもあり、案外簡単な事なのかもしれない。

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