内的自己ー外的自己ー葛藤 [思考・志向・試行]

絞り出しーものぐさ精神分析を読んだ。

岸田秀氏の著作である。毎度、この人の著作には独特の面白さがあり、
非常に感心するのだが、今回の本は書き下ろしの寄せ集めとなっていて、
全体としてはややまとまりに欠ける。だが、その面白さは健在である。

何が面白いかといえば、昨今の思想主義に対する懐疑を、文化の方から説明しようとする
試みにある。理系的知性から言えば、身体はDNAという情報媒体を基盤にしてアミノ酸から
なるたんぱく質の集まりとして記述される。その素朴な仕組みをつぶさにみてゆくと、
我々の意思などちっぽけなものであり、如何に我々が「生かされている」かを知ることになる。
勢い、意思など大して重要なものには思えず、ただシステムに従って動く機械を想定しがちになる。

ところが岸田氏は違う。むしろ我々のそのちっぽけな意識こそが話題の中心となる。
彼の哲学は一言でいえば、「本能なき動物の有様」ということに尽きる。
我々、人間は当然生物学的な本能を備えている。一方で、相当なサポートがないとまともな
人間に育たないことも知っている。つまり、文化がないと人は成長しえないのだ。この人と
してどう生きるか?について岸田氏は洞察を与えるのである。それは幻想であると。

岸田氏がいう本能の定義は明確さを欠くが、基本的に我々が素朴に「意思」と呼ぶべきもの
の逆をさす。我々の行動には、つねに意思による理由付けがなされるのだが、その機能性を
逆向きに呼べば、「本能を失っている」と解釈できるということだ。その意味は狭義ではある
がその意味合いを理解できよう。

科学的な文脈でいう本能とはとどのつまり、身体性のことである。我々は3大欲求を持つ。
性欲、食欲、睡眠欲である。これらのどれがかけても我々は調子を崩す。食欲は当然ながら
体を維持するための材料の確保である。そして活動のためのエネルギーの摂取である。睡眠
欲は、かなり近年生まれた行動である。脳を持つあらゆる動物は睡眠を必要とする。これは
脳の特徴であり、例外はない。脳は機能を保ち続けるためには、一度使用を抑えてメンテナンスを
必要とするのである。それは避けて通れない構造的なものである。

そして性欲。岸田氏がとりわけ問題とするのはこの性欲である。岸田氏の主な主張はこの欲にある。
性欲に関してはどういうわけか、行動までが本能で規定されなかった。食欲にしても何が食べら
れて、何が食べられないのか。これも実は我々は生まれながらに知らない。唯一例外は睡眠で
あろう。もちろん、欲求衝動についてここでは語ってはいない。そのような衝動の存在は当然
本能に帰属するものである。岸田氏のいう本能とは行動のことである。

さて性欲を満たそうにも、その解消法は食欲同様、やり方を知らない。そこで我々は文化に
よってその性欲の満たし方をサポートするようになった。ここが岸田氏の主張の根幹である。
そして本能を失ったために、その代わりが必要となる。これをもって彼のいうところの唯幻
論となる。人はその繁殖に文化を必要とするという考察である。

おそらくこれに関して多くの人が同意するだろう。我々は感じている性欲をどう晴らすのか、
具体的なことを知らないのである。そこで、様々な幻想が生まれた。この幻想こそが、性欲
を体現する。よって文化が違えば、その表現方法や形式が異なるわけであり、結婚など性欲
の社会的容認の有様も様々になるわけだ。

フロイトの流れを汲む岸田氏は、本書において、いくつかのキーワードをちりばめた。
自閉的共同体、内的・外的自己、自己欺瞞と嫉妬などである。とりわけ社会性に関して
言えば、我々は幻想に生きるということを主張している。

幻想にいきるとはどういうことか。それは我々が信じている自己の有様は幻想であると
いう意味である。幻想とは幻で真のところは存在しないという意味ではない。ここでの
幻想というのは真の有様など存在しないという意味である。我々は生れ落ちると必ず
どこかで物心をつく。その意味は、自我に目覚めるということだ。つまり本能で規定
された人生から「落伍し」、幻想世界に入ってゆく。

日常的経験が、その彼の人格なり人柄を生み出してゆく。もちろん元々の気質もあろう。
だがその上に我々はOSを書き込んでゆくのである。OSなのでそこはある程度自由度があり
バージョンもある。だが一度インストールした人格は基本的にそこに残るわけだ。これが
自己が幻想であるという意味である。

さて、そうすると自己が幻想であるため、常に不安定である。よって自我の安定のために
我々は何かの寄りかかろうとする。金かもしれないし、名誉かもしれない。女かもしれない
し酒かも知れない。そういうものに支えられてようやく我々は立っていられる。

そうして出来あがった自己を今度は必死の思いで守ろうとする。人に愛されようとし、
認められようとし、財産を増やそうとする。だが、その努力はしばしば阻害される。
時に状況が彼の自我を打ち砕く。女に振られても、仕事を失ったでも、そのようなことが
あると、彼は自我を取り戻すために狂気に走る。これが人をして、文化の動機である。

十分に裕福な人々であっても、他者がそれ以上に稼いでいれば、そこに嫉妬する。
それは自己を不安定にさせる。これを取り戻そうと、ますます仕事に励むことになる。
本能的に自我が形成されない以上、我々はその形成不全に死ぬまで付きまとわれる。

人の嫉妬は、なぜ引き起こされるのか。現在では脳の報酬系が作動する事が知られているが、
そもそも、嫉妬が生まれる要因として他者に立脚した自己という形で自我形成している
ためである。各人は、オートマチックに自己になれない。他者との間において、ようやく
自己を見出す。だから、自己を他者の中に見出すことになる。よって他者は常に自己の
安定性を揺らぐ外因になる。それが自己の本質であると岸田氏は言う。

よって、他者と無関係な安定的な自己形成はかなわず必ず、嫉妬などで自己の安定性を
失う。これを何とか補う為、我々は行動を起こすのである。自己の安定のために自己よりも
低い立場の存在を必要とする。悲しいかな、我々が他者に依存する限りにおいて、その
ような存在を過程せずにはいられない。むろん、劣者とされた人々も黙ってはいない。
すると安定したかに見えた自己は、相変わらず脅威を受け続けるのである。いじめが不滅
なのは、このような性根から来るのだろう。

我々の行動原理は、この自己安定化であるというのが岸田氏のもっぱらの主張である。
少子高齢化などといって子供作りを推奨するかの動きがあるが、これがナンセンスなのは、
我々の性欲は、種の保存などという欲求でもなければ、国のためでもない、ただの自己
安定化のための独占欲から来るからである。男女の行動は、他者への優越、つまり他者が
ほしがるものを得るという動機に由来する。要するにもてる女性、男性が選ばれるのだ。

つまり他者に勝ちたがっているということである。この行動は、個人を超えて集団にも
通じる。国家が他国を攻めるとは、そこに完全なる利害があるわけではない。むしろ、
情緒的不安定があるからこそ、その根源を叩こうとする感情である。大航海時代とは
聞こえが良いが、人類の移動は大抵、居心地が悪いからである。つまり、彼らは自国の
環境に不満があった。それを乗り越えようという作用が大航海への動機なのだ。西欧
諸国は貧乏であった。それが豊かな南国への侵略の動機である。彼ら西洋人は、日本も
含め、赤道付近に住み着いた豊かな社会に嫉妬したのである。

自我が幻想であるために、現実に他者が脅威でなくても、脅威と感じれば、自己を脅かすと
捉えさえすれば、他者を攻撃するということなのだ。そう岸田氏は主張する。

現在まさにこれがなされようとしている。他者に脅威を感じるということは、自己の安定性
に不安を感じているということである。自己の不安定さは、実は自己認識のゆがみかもしれない。
だが、その原因をどこに求めるかについてはその限りではない。とりわけ低俗な自己反省という
視点がない人たちにとっては、その原因を安直に他者に求めることになる。それは肥大した自己
像に対する懐疑がないためである。これが今日の政治問題であることは紛れもないことだ。

他国も、他国を非難する事でしか自己安定化が図れない事態に陥っている。これは由々しき事態
なのだが、その有様は誰も指摘しない。自国の内政問題を他国との外交問題にすり返ることは
しばしば行われてきたことだ。これが生じるのは自閉的共同体として自己認識するからである。

現代は他国と経済的につながっている。だから自分だけ独占する事はいずれかなわなくなる。
それを知っていながら、自己安定化のために他者を虐げたりする。その性根はなくすことは
出来ないだろう。だが、その発露を最小限にとどめることは可能である。我々はその岐路に
いる。今後の情勢において、ルサンチマン解消のため、他国と争うなどばかげていると知るべき
である。

強い動機を持っている人は、その動機が持つ自己不全感に目を向けるべきなのだ。
人は、劣等感なしに、励むことは出来ない。成り上がりの人々はその内部に自己不全感を
強く抱いたのである。しかし経済的成功は自己不全を埋めてはくれない。自己の心をいずれ
見つめなくてはならなくなる。その時に、手遅れにならないように気をつけるべきなのだ。
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