現代社会構造ー過去と現在ー [思考・志向・試行]

経済史を紐解くと、多くの事柄がエネルギーつまり資源の確保と食料の確保に依存している
事が明らかになる。この資源と食料こそが人々の行動を規定し続けてきた本丸である。

狩猟採集民時には自然は恵みをもたらす存在として崇められてきた。
そして、日々と必要な分の食料を手に入れていた。そこには多人数による手分けをした
採集があり、その採集の成果物はみんなで分割された。そうでなければ、飢えてしまう
からである。つまり食料確保は皆の力でなしえる作業であった。しかしながら、このような
生活では人口維持に制約がある。よってこの生活スタイルは文明度を上げる事はなかった。

ところが、狩猟採集以外に、農耕や牧畜つまり野生動物の家畜化がすすむにつれ、
余剰人員を維持できるようになる。余剰人員は、資源を見つける事に寄与し、村落を守ったり
交渉事を行うようになる。それは統治機構や軍隊を成す。つまり、食料供給の過多が人に
文化を形成させたのである。十分に食料があれば、人はそのために集中しなくてよい。
そこでは、退屈が発生した事だろう。生活を効率化するための知恵を使いだすきっかけになる。
つまり職人の発生である。彼らはエンターティナーというだけでなく、実際の生活を変革する
力を持った。

時代が流れてゆくと、人々は資源を求めて争いを起すようになる。争いの根本的理由の一つは
やはり食料である。人口が増えた村落では食料確保のために広い土地を必要とする。更なる
食料確保のためには新たな土地が必要となる。すると他の地域との争いが発生する事になる。
更に資源の確保も重要である。初期においては木材や石であったことだろう。これらの活用が
進み、金属の発見が行われた。金属はより強力な武器を生み出す。加えて生活における道具も
堅牢なものとなる。ここに文化が発生する。装飾は日を追うごとに華美になってゆく。その
ことが商業発展につながるわけだ。

初期段階では交易だけであった交わりが、人口増加による資源と食料の枯渇から、
他地域への移住もしくは侵略という事を誘発するようになった。人は生きるか死ぬかの
選択を与えられると、狂気を露わにする。こうして争いのための道具も進化する。

交易においては金の概念が発達する。貨幣の授受がいつしか主流となり、貨幣の仕組みが
できあがってゆく。この金という概念もまた社会構造を変革した。食料は朽ち果ててしまう。
その意味で十分な価値とは言い難かったわけだが、金は腐らない。このことにより、あらゆる
交易において金が用いられるようになる。そして金は退蔵出来る。自己の購買力を高めてくれる
のが金である。

金の保持は個人においては至上命題になった。かつては食料はある程度自家製が当たり前で
あった。それもそれほど昔ではない。たかだか100年ほどの話である。だがその農家も金が
必要となった。その原因は現代の物質文明における構造と税金のシステムだろう。米を納めれば
税を納めた事になった時代は終わってしまったのである。

すると食料生産にあたる人々は減り、金で食料を購買する人間が爆発的に増える。
金が余剰にある事で、人口が確保されるようになったわけだ。すると人々の関心は金を
如何に手にいれるかになる。農家では食を賄う事は出来るが金は必ずしも確保できない。
そこで、兼業農家もしくは商売を始めることになる。つまり努めるわけだ。

国という概念が如何に発達してきたのかはさだかではない。だが、余剰人員を余剰な生産物
で養うという事に同意した時から、人は組織をまとめるものの存在を認め、そこに税を納めた。
そこに介在したのは武力かもしれないが、その非対称性は現代まで続いている。統治機構は、
様々な形態があったに違いない。今日知られている統治手法は、中国の秦の方法による。
貴族や王族といった権力や武力を背景に土地を納めるというよりも、法を定め、人々をして
権力によりルールに従わせるという中央集権国家を築いた。この手法により始皇帝は中国
統一を果たしたわけであるが、この時に官僚というものが発生したわけである。つまり、
現代の政府の有り様はこの秦における統治法を基盤としているのだ。これを日本では
大和時代に大陸から導入された。蘇我の入鹿ら、続く中臣鎌足や中大兄皇子らによる
大化の改新によって、税が作られ統治機構が集約されてくるわけだ。

こうして官僚制が定着すると、その組織が膨張してくる。統治機構は人を集い、
更なる統治が進むことになる。後から生まれた人々は、生まれた時から統治される立場にあり、
統治している人々は生まれた時から、統治する側に立った。これを俗に貴族という。
このような社会体制において、庶民が統治側に立つには、試験という制度を利用するか、
統治側の人間に組み入れてもらうしかなかった。国としてはもともと力のある豪族・貴族ら
を集約して国づくりをした日本では能力による採用つまり試験が根付かない時代が長かった。

資源や財を国家が集約して管理する体制。これが成り立った後から、時代が流れてゆくと、
戦乱の世を迎える事になる。豪族たちは中央に指示される事を嫌い、時に離反してゆく。
政治が花開くわけだ。多くの豪族・貴族は統治機構の反転を狙う事になる。これが我々が
ならう歴史である。つまり我々の頭の中に叩き込まれる歴史は、かつての中央集権国家の
有り様と、その系譜として自分たちが存在するというアイデンティティである。

現代では武力闘争による権力奪還を狙うものは少ない。なぜならば、あまりにも強大化した
官僚制に対抗する事は事実上不可能だからだ。軍事政権が勃興するのは、武力という一点
突破の力による有無を言わさぬ統治法である。もし現在の自衛隊がある種の思想性をもって
日本を統治しようとするならば、軍事クーデターは可能かもしれない。だが、そんなことは
企図されないであろう。いやむしろ、現在は軍事部隊そのものが官僚制に組み込まれており、
既に統治側に立つ。ならばあえてクーデターを画策する必然性はないのだろう。

一方で、庶民たちはどうか。統治側からみれば戸籍によって人頭を確認され、税を収めさせる
人員として世に生まれてくる。まるでマトリックスである。統治機構からはこういうメッセージ
が流れる。学問が出来る奴はこちら側にいれてやると。東大や京大など旧帝大卒は官僚として
重宝されるのだ。彼らの事務処理能力と課題遂行能力は実に役立つからである。権力側に
組み込むのは反体制が生まれる事を防ぐという意味もある。優秀なピッチャーは敵にいるより
味方にいる方が良いだろう。

歴史教育は現代の統治機構が如何に必然であり、その中での庶民の役割とは何かを説く。
かつて農家であった今の老人もしくは新しくサラリーマンになった初老の人々は、その子供
らにこういう。勉強して学歴を上げ、この現在の統治機構の少しでもましな所に入れと。
なぜなら、それがこの国では幸福度をあげる手段になり得るからだ。幸福度は、現代において
相当にマシになっている。なぜならこれらの組織に入ったものたちは、その賢いはずの頭脳を
用いる事をやめ、統治機構にとって良いと思われる行動をとる事を強要され、志向させられる
のである。それでいて、自分はまだマシという発想を持たされるのだ。むろん、それを理解
した上で所属するものもいるだろうが、多くは生活に忙殺される。そして自分の有り様を
省みる事など、年に何度もないのだろう。

大企業について述べる必要性がある。大企業は私企業であるために、恰も庶民側にあると
思われるだろうが、実態は「官僚」だと思った方が事実に即している。学歴社会をくぐりぬけた
優秀な人々が、大企業へ就職する。大企業の役割は本来的には社会貢献であるが、現状では、
既得権益の保持と自らの発展が目的視される「官僚」である。彼らは実質上税金を納めない。
なぜそれで良いかと言えば、庶民でないからだ。国は大企業に対して優遇政策を行う。つまり
統治機構の一部なのである。それはかつての朝廷が諸国の豪族の支配権を確保し、代わりに
朝廷側につくようにとした事と何も変わりはない。大企業は中央集権国家である官僚機構に
利権を確保してもらう代わりに、彼らの手先となるわけだ。そもそも大企業は元をただせば、
財閥系である。財閥つまりかつての貴族らだ。貴族らは官僚として従事する以外に、大企業
として日本に君臨している。

官僚機構に所属したいのは誰しも山々なのだが、そこへ行くためのルートは長い。
その上、所属してもそのうま味が徐々に減っていることもわかってきた。大企業に勤めても
必ずしも幸せかどうかは定かではないのである。すると何をするようになるか。短絡的に
金を求めるようになるのだ。長い努力の対価が危ういならば、博打に出ようという心理が
働く。こうして博打は全盛を迎える。現代の博打は株や為替であろう。よく株や為替は投資
であってギャンブルとは違うと言われる。確かにその通りだ。だが、行為としては良く似ている。
自助努力によって価格が変動する事がないという意味において、それは賭博と類似する。
また、起業も同様だろう。努力の短絡をしたい人、官僚機構への貢献が無駄に思える人は、
起業をする。だが、これもギャンブル性の高い行動である。

巨大になった官僚(国家公務員、地方公務員、自衛隊、公社、公団、(大企業))へ
貢ぐのは、庶民である。庶民の給料を下げ、彼らの給料を上げるというのが今日進行中の
経済政策である。むろん、意図的かどうかはわからないが現にそうなっているという事実がある。
こうしてかつて、租として導入された税は、形を変えて庶民を縛り続けているのである。
それを許容するのは、「そうあるのが当然だ」という現状認識以上でも以下でもない。
誰もそこに疑問を持たないのは、当たり前過ぎると認識しているからなのだ。

これに準じるものとして「利子」がある。利子の存在はこの世界を更に発展させた。
現代社会においてもっとも強く効いているルールの一つが「利子」である。これは
金が自動的に増えるという意味である。本来金は消えてなくならない。そして食べる事も
出来ない。それなのに貸す事で金を増やす事が可能である。なぜか?それは皆が、
金を借りたら利子をつけて返すものと了解しているからに過ぎない。当たり前すぎる
だろうか?否、金を借りると利子がつくのは実は理由が存在しない。事後的な説明として
機会費用と見なされる事がある。だが、それならば貸さずに自分で使えばよろしい。
決して機会費用が利子の本質には成り得ないのである。それ以外にも、貸す際のリスク料金
であるなどと説明される。だが、利子自体は貸す側の裁量で変更されるものであり、
無利子にすることも可能である。ならば、利子は貸す側の論理であろう。

さて突如として利子の話をしたのは、現在政治がこの利子を抜きに語れないからである。
社会構造は政治と経済に強く依存する。政治とは統治機構の事であり、経済とは生活の
基盤である。今日ではこの政治は経済と固く結ばれている。統治機構の内部にあるのは、
金の授受である。庶民から集めた税、つまり金をどう使うのか。我々は税金はみんなのために
なる事に使われると漠然と習う。だが、そのやり方が如何に偏りをもっているかを知らない。
加えて、経済は政治に圧力を加える。官僚機構は財界からの影響を受ける。財界もまた
官僚機構から影響を受ける。ここに利害が存在するわけだ。

現在、日本が抱える国債はおよそ1000兆円。国債には利子が存在する。なぜなら、
国が金を借りているからだ。誰に?それは民間銀行など、国債を買う人々からである。
借りているので毎年利子を支払う。それは誰が払うのか?国である。国ということは、
税金であって、元を正せば国民の財産である。単純に言えば国民は利子という制度を
通じて金を銀行にあげているわけだ。国は営利企業ではない。だから、拡大再生産の
ように必ずしも営業利益が増加してゆくわけではない。よって、一度、国債を発行すれば
あとは落ちてゆくだけである。論理的に言えば、国が借金を出来るということ自体が
謎である。

(追記:ちなみに国には資産もある。よって1000兆円の借金は実際には
もっと減ると見た方が良い。財務省による意図的な見せかけである。)

仮に借金をしたことで、それを資金種にして公共事業などによって事業を生み出し、
税収を増やせば、利子を払える算段が経つわけだが、そのプロセスは私企業とはあまりにも
違う。そして、肝心の税収であるが、大企業はほとんど税金を納めない。よって、税収は
あがらず借金返済を画策する事はそもそも不可能であろう。そのくせ、大企業にたいする
減税を試みようとしている。

これはとどのつまり、国にが銀行から借金をし、その金を大企業に渡して事業を行わせる。
そこで生まれた利益の内部留保分を差し引いたごくわずかだけを税収として戻すということ
を行っているわけだ。一方で、官僚達は毎年、予算を使い切り、使い切った以上の予算を
政府に請求する。こうして、財政負担は増大の一歩をたどってきた。

その負担を誰が強いられているか。それは膨大な数の庶民である。我々に課された所得税、
消費税がそれらの財政負担を補うのである。銀行は国からの借金を引き受ける代わりに
国債を保持し、利子を受け取る。その利子は当然配当されるはずだが、低金利のため、
預金者はカスのような利子しか得られない。こうして、銀行は国から金をせしめている。
その大元は我々の血税である。その血税が銀行というフィルターを通って、ごくわずかに
我々の手元に返ってきているのである。はっきりいおう。これは詐欺的行為だろう。

国な借金をし、銀行に利子の支払いをする。それの一部が庶民に返る。ならば、
始めから、国民からとらなければ良いだけである。金を巻き上げておいて、元に戻すまでに
手数料を取られているのが現状の経済の仕組みである。

こうして、我々は更なる借金を抱える。官僚は金をふんだくることだけを考え、
銀行は楽して儲ける事だけを考える。国民はその仕組みを知りながらも、指をくわえて
搾取されるがままになっている。現状では、誰もこの仕組みから逃れられないのだ。

だいぶ話が脱線をした。だが我々は、統治されている。その中でわずかに儲けただの
損しただのと生きている。金があれば少なくとも不幸せから脱出できる。だが、金は
所詮金である。金は必ずしも人を幸せにしない事はもはや明白である。

現状の国は、常に庶民から財を巻き上げるように仕組みを生み出す。なぜなら
それが彼らの仕事だからだ。矛盾しているのだが、彼らをそもそも養ったのは、余剰な
食料があったからだ。そして彼らが村落をまとめる役割を得たからであった。その背景には
武力が存在する。簡単に言えば、みかじめ料である。我々の税金はいまだにみかじめ料から
発展していないのである。時にみかじめ料は自分たちの首を絞めることになる。
何しろ始めると、終わりがないのがこの手の献上物なのである。

さてミクロに我々の心理を理解しよう。世界は金という媒体で動いている。
どのような利権も必ず金が背景にある。なぜなら現代人は金がないと生きられないと
いう幻想をあまりにも強く刷り込まれてしまうからだ。なぜ援助交際する女子高生がいるのか?
それは幻想に依拠しているからだ。だが最新の科学は理解している。幸福度は金だけでは
決まらないと。

他者のために金を使うと幸せになれる。少なくとも満足度が大きい。それは明確な事実である。
よって、人々は自己の元に大いなる金を集めて散在するのが良い。だが、それはなされない。
なぜなら、誤解をした人が社会を回していて、誤解をした人々が統治機構にいるからだ。

一定量の金を得たら、それ以上は幸福度に貢献しないのである。
だが世界はそうは教えない。金は常に稼がなくてはならないと訴えてくる。
そして、そのためには努力をしなくはならないとも。

はて、おかしなことに気が付く。もし、多くの人がアルバイトを完全にやめたらどうなるか。
おそらくすべての企業において経営が成り立たなくなるだろう。非正規社員はどうか。
同様である。では彼らの給料は適正なのか?誰もこの難問題の答えを知らないのである。

需要と供給の関係がある。個人が許容するバイト代であれば、いくらでも良い。
もちろん、最低賃金が法的に規定されているためにその限りではないのだが。
会社は労働者の賃金を可能な限り低くする。低くすれば、利益を投資に回せるからだ。
拡大再生産もやりやすくなる。そうして投資をして商品やサービスを生み出す。
だが、そうして所で、誰が買うのだろうか?

高度経済成長が可能であったのは、良き消費者の存在があったからだ。猫も杓子も、
現代生活に必要なものを買いあさった。今の中国と同じである。現代生活の道具なりを
手に入れるために働いた。需要があれば会社もモノを作りうることが出来る。潜在的な
需要はきりがなく続いた。よって給料以上に、働いて会社に貢献し、会社は拡大を続けた。
そうして給料は増大し続けた。だから更に消費を行う。消費があるとわかれば企業は
サービスを提供する。この循環が高度成長期である。

だが、はたと気が付く。既に大部分のものは手に入った。周りともそれほど給料差はなく、
ほどほどの生活をしている。ならば、多くを無理に買う事もない。それにこれから定年を
迎えるならば、金をためておかねばならない。こうして消費者として経済をけん引してきた
働き手たちは市場から退散しはじめた。そして彼らの子どもがこれに続くはずだった。

ところが、経済がおかしくなる。景気が良かったために、過剰な金が増えた。
増えた金は更なる利益を求めて市場をうろつく。その結果利率の高い投資、つまり不動産に
行き着く。誰しもが金を土地に投下した。なぜなら、土地は資産価値を増加させ続けていた
からである。ところが、その化けの皮がはがれる。一度はがれた張りぼてからは不良債権
という焦げ付いた借金が生み出された。この処理のため、多くの資金が投入された。

続く20年間は不景気である。無謀な消費は収まった。なぜなら、そもそもそれほどモノが
貴重でなくなっていたし、給料も上がらなくなったからだ。給料が増える見通しがなければ、
当然高額のものは買わなくなる。買わなければ、作ってもしょうがない。こうしてぼちぼちの
生活が続いた。デフレである。このデフレの間に、企業は給料を抑制し続けた。なぜならば、
今までと同様の給与体系を維持する必要があったからだ。新規採用を絞り、若者の給与は
据え置きにした。

(追記:20年の不景気とは本当は正しくない。2002年から2008年までは実はGDPは
 伸びを見せており、景気は上向いていた。だが企業が雇用を押さえ、給料を出し惜
 しんだというのが実態である。)

結果どうなかったか。若者は希望を失い、社会に対する疎外感を持つにいたる。
働いている若者も将来性がないために、働くことに疑問を感じる。給料が上がるわけではない
ために、多額なものは買い控えが起こる。特に、身近なものは節約になる。食料、衣類、
酒、レジャー、どれをとっても無駄なものは買わないようになった。そこでデフレ商品が
出回る。どうしても買わなければならないのなら、なるべく安く済まそうとする。その
心理が格安なものへの希求となった。そうしてますます企業は儲からなくなる。

結果、起業は倒産が相次ぎ、不景気が続いた。当たり前だが、良き消費者を失った今日、
好景気になる方がどうかしているのである。若者たちは結婚せず、子供も作らない。
こうして日本は経済力を落としてゆく。逆の見方をすれば、社会が無理やり維持してきた
余分な贅肉を落としてきたとも言える。つまり、過度に消費することに興味がなくなったのだ。

ブランド品が欲しいわけでもない。一等地に家が欲しいわけでもない。内心ではわからないが
そのように価値観が動いている。そして無形財産に興味の比重を増やす。つまり親や友達で
ある。人とのつながりに価値を見出すというベクトルは消費が出来ない事の裏返しの形で
発達した。もちろん、企業にとってはそれでは困るだが。

さて、ではこの間企業はどうしていたのか。物のサービスが儲からないならば、ソフトや
サービスだという事で、多角経営をする。一方で、金融に手を伸ばす。特に変わったのは、
株主に対する意識である。この20年間に急激に株主の地位が向上した。つまり社会がアメリカ
化したのである。経営者は株主に対する責任をもち、目標に至らなければ、解任も辞さない
わけだ。かつてはここに総会屋がいて、発言を妨げていたが、今日ではそれはむしろマイナス
となる。すると企業は株価上昇のための手段を講じることになる。配当だけでなく利益を
増加させなければならないため短期的な戦略をとるようになる。

短期的な収益改善のためのもっともな方法はリストラである。人間が一番コストがかかる。
50も過ぎれば、経営の傾いた企業において肩たたきは珍しい事ではなくなったのだ。
リストラによってV字回復など、企業において最も恥ずべき行為であろう。だが、
それをさせる圧力が株主にはあるのだ。それはアメリカの圧力による。

富者たちはこの間に、様々な財テクを駆使した。とりわけ株主になり、企業にプレッシャーを
与える一方で、不景気における給料抑制を通じた役員報酬増加をもくろんだ。結果として、
20年で、富者と貧者の間には大きな格差が生まれたのだ。

日本ではこの格差を当たり前という人々がいるが、それは誰の声を代弁しているのだろう?
大きな企業の重役がいうならばともかく、ただの社員がいうのであればその人はただの能天気
である。そして非人道的な人物でもある。本来であれば末端社員が受け取るはずの給料を
重役たちがろくに企業に貢献せずにかすめとっているのである。それを肯定するのは、いささか
自虐にもほどがあろう。だが、それにはある種の満足があるのだ。大企業で働き、自分の身は
安泰である。ならば、その利権が現在の社会情勢にある以上、現状肯定するのが当然となる
のはごく自然である。つまりそこまで「洗脳」されてしまっているという事だ。

現状は過渡期である。本来的には、もっと正社員を増やし、給料を与える事が不景気から
脱するための手段である。有効需要を増やす事こそが社会全体を潤す。それを根本から
間違う人たちがいる。いや、それをさせまいとする人々がいる。それが統治機構側のもくろみだ。
そうして、正社員になれないのは自助努力が足りないなど他者に責任を押し付けるのである。

どこにももっともな事はない。庶民は金を欲する。なぜなら生活に必要だからだ。
そこで否応なく、バイトもするし、パートにも出る。派遣社員に身を置く。
正社員になり損ねた人々は現状に甘んじる事になる。政治をみても、誰もその現状を変えて
くれそうにない。ならば投票にいくのも無駄である。出来る事は、可能な限り自衛すること
となって、消費を更に抑えようとする。こうしてデフレへ回帰する。

現在は最悪だ。消費税8%になりモノの価格が上がった。だが給料は8%以上増えたわけではない。
ならば、実際的には給料は減給になる。つまり、見かけ上給料が増えたが物価が上がれば意味は
ない。そして現政権は物価を上げる事を目標にしている。

なぜか?それは物価を上げれば、現在もっている貯蓄が目減りするからである。ならば、
消費に回そうと考えるだろう。というのが経済学者の考える事。あほである。
いくら目減りするからといって、ラーメンをいっぱいから3杯にしよう!なんて奴はいない。
ユニクロやめてグッチにしようなんて奴もいない。需要は経済政策によって引き出せないのは
もはや明白である。現状はまさにスタグフレーションである。

あらゆる広告媒体は、需要を喚起しようと躍起になる。我々の生活に食い込もうと頑張る。
だが、そもそも不要なものをなるべく買わないのが近年の消費者である。ましてや、
浮ついた金など、そもそも持っていない。よって次に来るのが脅しである。癌になっても
困らないようにとか、保険が幅を利かせてくる。ダイエットしないと病気になると脅してくる。
脅し商売はいつの時代も有効であるが、それでも人の心はさして動かない。そこで、
価格競争が起こる。こちらの保険に入り直せばもっと保険料がさげられますと。

一方で、打開策が見えない現代では賭博も流行る。てっとりばやく儲けたいのだ。
株やFXなどに投資する人々が増えた。だが儲かるのは一握りである。需要を喚起して、
そこに供給するという古典的な手法はまだまだ有効だが、強い牽引力のある商品など、
この世にはもうないのかもしれない。人々はあらかた満足したというのが現在の日本人の
典型的発想なのだと思う。あとは”贅沢をいえば”という接頭語がつく欲求なのだろう。

さてだいぶ長くなってきたが、まとめようと思う。
現代は古代と変わらず、庶民は統治されているということ。そして統治機構への道は、
長く険しいが、それの有り様は人々に懐疑されている。我々は知らないうちに、社会に
絡め取られていて逃げ場がない事。それでいてその現状に適応し満足している。
現状に満足なややリッチな中間層は、現状維持を望み、富者を更に富ませる。
その一方で、下流層は増大し、派遣やバイトとして労働力を買いたたかれる。
これがミクロな人々の有り様だ。

現在において成長戦略などというのは土台、無理がある。
あと30年たつと団塊たちがいなくなる。この時に日本は再度、成長すれば良い。
それまではぼちぼちで行くのがほど良い。むしろ、現状に耐えられない人々による
戦争の方がよっぽどか脅威だと思う。

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