映画「マトリックス」 [雑学]

近頃の問題意識である「懐疑」を追及してきて、ふと映画マトリクスを再度観たくなった。
そこで3部作をぶっ続けでみたのでその感想を述べよう。

以下、ネタばれを含むので、映画を見たい方は読まないことをお勧めします。




さて、マトリックス。おそらく第一部が一番メッセージ性が高い世界観をもった
良作で、二作目はかなり実験作であり、続編の3作目は売るための脚本になっていた。
よって初見の人は一部だけ見ればそれでよいと思う。

第一部の主題は「懐疑」と「脱出」である。
映画の世界としてみるのではなく、比喩として映画を観るとなるほど、メッセージの強さを
如何なく発揮した実にSFらしい作品である。主人公のネオが暮らす世界は実は機械が作り出した
幻影であり、そこに暮らす人々は実はマシンにつながれたエネルギー供給体という設定だ。
この幻影世界をマトリックスと読んでいる。マトリックス内は幻想世界なので、目覚めた人に
とっては物理的制約に囚われない行動がとれる。映画のマトリックス内の世界で主人公たちが
縦横無尽に動いているのは、まさにその表現であり、論理上無理がない世界が描かれている。

ネオはすでに目覚めているモーフィアスらに導かれ、マトリックスから脱出する。
仮想から現実に超越したことを理解させるため、ネオを訓練するのである。それがあの
有名な道場のシーンである。やや不明瞭なのは、マトリックス内で死ぬと実態の体も死ぬ
という設定で、心と体はつながっているという少々乱暴なつじつまであるが、この要素がないと
緊迫感がないので仕方ない所だろう。このような設定はあの「アバタ―」にも通じる所がある。

映画上での実世界とマトリックスの関係は、実は我々の現実にも当てはまる。
我々の世界は、我々の目を通してしか感じられないバーチャルなものである。
汎心論のバークリーを出さずとも、世界は直接的に触れられないものとして考えることが
出来る。その上で、世界を脳内にて構築する。こうしていきているのがヒトであり、
その世界は「文化」である。我々は個々の脳内に「マトリックス」を持っていると
言っても良いだろう。

非常に示唆的なのは、我々がこの文化に規定されて生きているという点である。
誰の脳内にも、生まれ育った環境の常識が執拗に刷り込まれている。これを俗に文化と
呼ぶのだが、その文化とはある意味で自由を奪う拘束条件のようなものだ。我々は実は
拘束されているがゆえに、文化的生活を営むことが可能なのだ。

AIとは今流行の人工知能のことだが、かつてAIは「フレーム問題」を持っていた。
これはあらゆる場面において次に起こることの予測を働かせて動いているといつまで
たっても計算が終わらずに、一歩も動けないという問題である。ロボットがある状況下で
考慮すべき事柄は実は膨大に存在する。その組み合わせをすべて計算するわけには
いかない。そこで我々はそのような計算を行わないような仕組みを持っている。それが
経験であり、文化である。肉体的・状況的・文化的に我々は適切な行動というものを
身に着けているわけだ。これにより「フレーム問題」にはまることなく生きる事が出来る。

一方で、その能力は現状における適応には有効であるが、それがために現状に対して盲目になる。
社会的な文脈で紐解けば、それは文化の「奴隷」ということである。あなたが行動する時、
それは自由に決めていると考えているかもしれないが、多くは習慣によるものである。
その意味で、我々は映画と同様に「マトリックス」に閉じ込められているのだ。
この映画ではその閉じ込められているという現状を認識させ、そこからの飛躍を示唆する。
ここがこの映画の一番のポイントだろう。

個人的には、マトリックスを社会の縮図として眺めてしまう。
我々は労働という形で社会を「充電」する。その上で、誰かが生み出した<バーチャル>な生活を
送っている。それは恰も、マトリックス内で予め決められた生活をさせられて満足している
というように見える。つまり我々もマトリックス内における「奴隷」と見なせるだろう。

映画は進む。それも奴隷からの脱出である。ネオは脱出後にマトリクス内における行動に
特異能力を発揮するようになる。それが彼が救世主と呼ばれるゆえんなのだ。だが、
我々も、同様に奴隷から脱出できる。奴隷とはとどのつまり、自己による思考を放棄する
という事である。自分で考えないという事は如何にも怠慢で誰かの術中にはまることを意味する。
映画ではマトリックス内の方が、悲惨な現実よりも良かったのではないか?という疑問が
投げかけられる。これも多くの人が現代のルールで生きているために、そのルールを逸脱する
よりも、そのルール内の方が幸せであると望むことがあろう。それと同じなのだ。

我々は社会の奴隷である。だが奴隷であっても別段不幸なわけではない。
多くの人は、誰かが仕組んだ世界の枠組みの中で、働かせられ、そこからはみ出ると
虐げられるという恐怖感を刷りこまされている。なぜあなたは朝起きて会社に向かうのか?
風邪を少しくらい引いていても会社に向かうのは、そこにしか居場所がないと脅されている
からに過ぎない。実は世界はもっとリッチであって、あなたほどに勤勉でなくても、
自由に生きている人々はたくさんいる。つまりあなたの世界の外側が存在し、あなたの
「マトリックス」から逃れる事も可能だという事である。

ジャンプテストにおいてネオはビルの谷間に落ちてしまう。
これは人々の意識と同じである。誰しも自分の世界の外側は怖い。そしてそのような思い込みが
ある。ただ一旦思い込みを抜け出せば、ビルを飛び越える事も可能なのかもしれない。

第二部リローテッドでは、スミスの増殖とマトリックスの歴史が語られる。
主題は「選択」だ。我々は自己において何かを選択すると思い込んでいる。だが、
選択自体が既に既定路線であり、ましてや何が選択されるのかが分かってしまっている
事すらあり得る。これは果たして選択なのだろうか?

映画ではトリニティへの愛と世界平和が選択肢として取り上げられた。個人の愛と世界平和
というミクロとマクロが自己矛盾する時、人は何を選択するのかという問いである。

多くの人が煙に巻かれたであろうこの第二部。おそらく何をいってるのかわけがわからない
はずだ。私もかつて映画館で見た時に何のことやらと思った記憶がある。だが今回再度見直して
みると、筋が明らかになった。それはマトリックスの歴史に関してである。マシーンらは
人に対してマトリックスを構築した。だが、理想的な幻想はうまく作動しなかった。ほとんどの
人間が拒否をするようなマトリックス。マシーンはそこで試行錯誤する。多くの人が許容できる
マトリックスとは何かを。白い髭の老人はアーキテクトと呼ばれ、マトリックスを生み出した
存在を象徴している。アーキテクトはネオに説明する。実は救世主と呼ばれる存在が現れたのは
6回目なのだと。つまり今回のマトリックスは既に6回目の試行錯誤中であったのだ。

ここにきて、マトリックスの世界観が一度ひっくり返る。つまりザイオンのように生き延びた
人類たちは、時折生まれるマトリクス内のアノマリーである救世主によってかつて作られ、
それが時間を超えるとまた救世主を生み出してきたのである。アーキテクトはその繰り返しを
何度となく観察してきたのである。つまり救世主もまたマシン側の予想の範囲内ということ
なのだ。救世主は、常に生まれてはソースコードにたどり着き、最後はザイオンのやり直しを
行う。しばらくして救世主がうまれ、またマトリックスの世界に救世主が生まれるのを待つ。
これを5回繰り返したというのが第二部での設定なのだ。

第一部においては、恰も人がマシンに対する抵抗手段を手に入れたかに見えた。
ところが実はそうではなく、その救世主の誕生すらマシンの計算範囲内だと。こうして
絶望した救世主たち。かつての救世主たちは次の可能性を願って、ザイオンのやり直しを
選んできた。だが今回は選択肢がある。個人的な愛とザイオンを救う道という二つである。
六度目の救世主ネオは、かつて来た道から離れる決意をする。トリニティを救う事を優先した。

この選択に我々はどう反応すれば良いのか。それは見た人のまかせるとしよう。
第二部はこの個人の価値観と世界への責任に対する「選択」という主題であったのだ。

第三部。これはもう余力で作った脚本であった。よって中身はヒューマニティがテーマに
なった良くあるハリウッド映画に成り下がってしまった。アメリカの性質が良く表れている。
ピンチになるとみんなで協力しあって、最後は問題が解決される。たとえ犠牲があったと
しても。これはアルマゲドンで用いられたモチーフであろう。内容的にも、単純化すれば
ザイオンvsマシーンの背後にネオとトリニティ二人の戦いがある。全体と個というテーマ
がここにも流れている。

先の部において、ネオは世界平和よりも個人の愛を選んだ。三部はその代償にも見える。
ザイオンは力不足でありマシーンによって駆逐されそうになる。それをしのぐために、
ネオとトリニティーはマシーンシティに向かう。その際にトリニティは亡くなり、ネオは
視力を失う。これが第二部における選択の結果だとすれば、個人の愛は犠牲を伴うとでも
言いたいのだろうか。ネオはマシンとの交渉によりスミスに勝ってその身を犠牲にする。
結局、ネオ自身をささげる事で、マシンにザイオンの存在を認めさせるわけである。

エンディングのネオは果たして死んでいるのかどうか不明であり、マシンに連れて行かれる
描写で終わる。これが意味するところは何か分からない。マトリックスは今後も存続するが
ザイオンが攻撃されることはないのだろう。こうして救世主は確かにザイオンを救った。
そして、始まりがあれば終わりがあるという事実を突きつけたわけである。七度目のマトリックス
再建は行われなかったのだ。マトリックスは次のフェーズへと移行したのである。

さて、このような示唆的な効果、映像の斬新さ、世界観の構築、これらが相まって、
大ヒット映画になったのだと改めて思う。とりわけ第一部には、目を見張るものがある。
映像が持つ訴えかける力に見事にやれてしまった。

マトリックスがグッドエンディングなのかバッドエンディングなのかは、
我々の生き方に依るのだろうと改めて感じたのだった。
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