アドラーの心理学 [思考・志向・試行]

アドラーの心理学について学んでみた。
以下の命題がポリシーである。

人間の行動には目的がある(目的論)
人間を分割できない全体の立場から捉えなければならない(全体論)
人間は、自分流の主観的な意味づけを通して物事を把握する(認知論)
人間のあらゆる行動は 、対人関係である(対人関係論)
人間は、自分の行動を自分で決められる(自己決定性)
人間の生き方には、その人特有のスタイルがある(ライフ・スタイル)

基本的に我々は、一人ではヒトになれない存在である。
言語にしても、社会性にしても、他者の存在を仮定せねばならない。
逆に言えば、他者の存在は、自己の存在基盤でもある。よって、他者とは環境の
一部でありつつ、自己の一部でもある。

アドラーの心理学の際立った特徴は、その目的論にある。
フロイトらの唱えた原因論ではない。現代科学の枠組みでは、
通常、原因があるから結果があると考える。逆に、結果があれば、
原因があると考えてしまう。実は原因を生み出せば結果(原因→結果)は、
因果関係を検証可能であるが、結果から原因を導く(結果→原因)のは困難である。
なぜなら、原因となる要素が単一とは限らないし、その原因が生み出された要因
自体が時空を超えて無限大に存在するからである。

原因論とは、限られた我々の思考の内にとどまる類推にすぎず、常に間違えにさらされている。
だからこそオッカムの剃刀のように、なるべく関連事象を狭くとり、検証を繰り返す必要がある。
これはとどのつまり、科学主義である。科学は実験による検証を仮定している。

この事実は実は、我々において十分に理解しているとは言い難い。
大抵の人は、結果から原因を類推できると思い込んでいるし、原因は1つと思っている。
それがために多くの場合において、状況理解の齟齬が発生し、争いが生じたりする。

フロイトらはヒトの行動原理の内に、原因を探した。その主な原因とはリビドーである。
ヒトの存在意義を生物学的繁殖とみなすならば、人はその欲を最大限に発揮しようとする。
これを前提とすると、ヒトの行為には全て原因を見つけなければならなくなる。

例えば、破壊衝動などである。なぜ戦争は起こるのか。それはヒトの中に争いの本能が
あるからだと解く。これがフロイトらのいう原因論である。つまり、本能という機能に
争いの原因を見出すわけだ。だが、果たしてそれは正しいのか?また本能というラベル
はそんなに強固だろうか?

仮にすべての人の行動に原因を求めると、ヒトは自由意志を失う事になる。
なぜなら、行動が状況と過去の来歴によって定まることになるからだ。つまり、
生れてから今までのあなたは、決められたルートを通ってきたという解釈になる。
そして、これからも決められたルートを通る事になる。それは我々の直観とは
異なるであろう。

我々が求めるものはとかく原因であるが、それは説明のための方便に過ぎない。
特定の行為を起すのは、少なくともそこに意志決定が生じたからではないのか?
そして、意思決定しているのは我々自身ではないのか?これがアドラーの主旨である。

目的論とは、我々は常に目的に沿う行動をとるという意味である。
悪事をなす場合でも、その個人にとっては、その行為を選び取ったという意味において、
目的的行動になる。目的とは、つまりこうなるはずだを具体的に体現することである。

アドラーは意思決定に関して無意識を認めない。その意味は、全てが意識下であると
いうことではない。意識が少なからず目的を決めるという意味だ。そして、意思決定には
その個人のライフスタイルが影響する。ライフスタイルとは性格と呼んでも良いが、
そのような静的プロパティではなく、能動的な行為としての性格というニュアンスを含む。

とある人が、風呂後にビールを飲む。それはどこかでビールを飲む行為を知った事、
風呂の後にそれを実行する事が必要である。この行為は最初はとてもニュートラルな
価値であったであろう。それを実際に行って始めて、その行為はその人に吸収される。
つまり、それがライフスタイルである。我々はあらゆる行為をどこかで学び、実践し、
その行為を反復してきたのである。

逆に言えば、あらゆる行動は、どこかでその個人が「選択」したこととなる。
これがアドラーの言う目的論である。とある行為をするということは、それが無意識に
引き起こされるほどに習慣化されると我々が俗にいう性格となるわけだ。

アドラーの主張の核は、我々は主体的であるということだ。
私の理解では、ここに根拠はない。アドラーはそのように我々の心理を捉えるという事だ。
では主体的であるとどうなるのか?

怒りについて考えてみよう。
とある喫茶店で、うっかりウェイトレスが水をこぼしたとしよう。そこであなたは
思わず叫ぶ「なんてことするんだ!」と、そして怒りを表出するだろう。弁償をもらうための
交渉をするために「店長をよべ」などともいうかもしれない。

この場合通常の我々は、原因=ウェイトレスの粗相、結果=あなたの怒りと理解する。
原因論的には、この見方がシンプルである。だが、アドラーはそう捉えない。なぜなら、
我々は主体的にそれを選択しているのだ。だからこの場合にアドラーは、
「あなたは怒りたいから、怒りを表出することを選んだ」と解釈する。

オートマチックな情動反応を否定するわけではない。だが、そこから生み出される行動は
原因となるには結果にレパートリーが多い。とある人は、水をこぼしても「大丈夫」と
いうかもしれない。それは、原因とみなされた出来事が必ずしも怒りを誘発する
わけではないということである。つまり、そこに我々の「選択」が存在するのである。

何度も繰り返され、あまりにも習慣化した行動には、「選択」など存在せず、
本能的な行動として理解されるかもしれない。だが我々にとっての本能とは反射行動のみだ。
火に手が触れると、本人の意思に関わらず手が引っ込められる。その意味は、完全に本能的
である。目の前に突然何かが飛び出してくると動きが固まる。これも本能的行動である。
だが、ウェイトレスが水をこぼすのと、それに対して非難の声を上げるのは本能ではない。
その個人は、習慣的に被害を受けたら怒りを表出するように訓練されたのである。
それを我々は性格と呼んでいるに過ぎないとアドラーは説く。

よって性格とは他者からみたその個人の蓋然性の高い行為の集積であり、変え得るものと
なる。また行為の習慣化は過去を反映しているわけだが、その瞬間の行為に関しては
常に未来に向かって開かれている。よって、アドラーは過去など関係ないといい、
トラウマなど存在しないというのだ。

過去に特定の経験をしたら、必ずPTSDになるとすれば、それはそのような原因論が成り立ちうる。
だが、こと人の心においてはそうはいかない。人はもっと柔軟な行動をとる事が可能である。
だとすれば、人は自らPTSDという状態を「選んでいる」ことになる。つまり、PTSDという
思考状態でいることが、彼にとって有益だと判断されているという事だ。

ニートなど引きこもりについても、アドラーは、それは彼らの選択なのだという。
多くの引きこもりは、社会における不安を説明し、社会での行動を否定しようとする。
つまり、実社会での経験が彼を引きこもりにしたという原因論を採用しようとする。
だが、アドラーはそれをばっさりと切り捨てる。彼らは、引きこもりたいのであって、
理由はでっちあげなのだと。彼らのもつ不安感というものも、彼らの内部に生み出された
選択された感情であると説明する。

これらは非常に厳しい事をいっているのがわかる。アドラーの心理学は、存外に手厳しい。
なぜなら、行為の主体を認めるからであり、その行為は全てあなたの選択にかかっている
と主張するからだ。よって誰にとってもアドラーの心理学は手厳しくなる。言い訳は
本当に言い訳に過ぎないと解釈されるのである。

では、目的論を採用すると何が良いのか?それは、主体的に生きることが可能になるという
意味だ。過去はこれからの生き方に関係ないとすれば、そこに希望が存在しえる。
そして、どのような行動も、自己の良心に従って行えばそれで良い事になる。

アドラーはいう。他者に干渉するなと。他者の感情を分離すればよい。
他社は他者であり、彼が感情的になっていることは、自分には関係がないと考える。
これが健全な対人関係であるという。確かに、誰かがどう反応するかは、自分の責任
ではない。なぜならどうしようもないからだ。だから誰かにおびえて行動することは
不要であるし、他者の感情を気にしすぎても仕方がないのである。

目的論に立脚したアドラー。その考えはシンプルだ。いちまつの不安は、
個人が他者に対してなすがままにふるまったら、困るのではないか?ということである。
だが、それもアドラーはいう。幸福とは、他者を信頼する事から生まれると。
あらゆる人生の悩みの根本は対人関係にあるとアドラーはいう。
対人関係を良くする唯一の方法は、他者を信頼するということだ。他者を疑えば、
自己も疑われる。そうして社会には「敵」が溢れ、生きづらくなる。これを覆すには、
他者を信用するという方法である。他者を信用する事は、世界を信用する事になり、
それは自己の居場所を確保するために重要となる。

騙す人間は少なからずいる。そして信頼すれば、騙されてしまう事もある。
だが、それで行動の仕方を変えてはならない。騙された相手は短期的にみれば、
得をしたかのように見える。だが、長期的にみれば、果たして得なのだろうか?
騙すような信頼のおけない人間であると表明してしまった以上、再度の信頼を勝ち取るには
多大な努力を要することになる。ならば、始めから、他者を信頼するのがコストが小さい。
そのような俗的な心的作用こそが、アドラーの考えの核となる。決して、きれいごとや
理想論ではないのだ。

原因を探る。それも実は我々の習慣である。雨が降るのは、雨乞いのせいではなくて、
大気のせいであると科学は明らかにした。これは物理的事象に対する観測として正しい。
だが、同じことを人の行動原理に導入するのは違うのではないか?それがアドラーの考えである。

人は、その個人において益にならないと判断した事は行為を行わない。
どこかで、その行為に価値を感じたということが行為の発露であり、
その特定の傾向がライフスタイル(性格)である。

アドラーは問いかける。だから、あなたは変われる。変わってよりよい生き方を選択できる。
だから、それを行ってはどうかと。

自らを自らの状況に貶めるのではなく、自己の有り様を自己で変えてゆく。
それがアドラーの心理学の要諦なのである。





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