この現代のルール [思考・志向・試行]

この世界にはルールがある。それをここ数か月で学んだ。
もちろん、幼少期より学んだこと、それが強固に頭に入り込んでいるために、
新たに学んだルールがどれほど真実であるかは確信がないが、それでも
確かに世界は異なって見えるようになった。
こう書くとやや啓発性を帯びているが、別段そういうわけではない(と信じている。)

現段階までに考えた事を備忘録としてここに記す。

さて、そのルールとは「主体的に生きるな。」というメッセージである。
その対抗方法は「常に疑え。」である。

世界はどういうわけか主体的に生きる者に冷たい。
そして、現状を疑うものを排除する仕組みを持つ。
つまりそこには何かしらの「意思」が感じられるのだ。
多くの陰謀論のように特定グループによる支配という考えもあるが、
個人的には、そのような見えないグループの影響よりもごく普通の人々の持つ、
基盤となる社会意識、社会をどう捉えるかという人生観に潜む闇が問題だと思う。
それは多分に、現状に流されてしまうという人の性から生まれてくる。

ヒトは動物である。この間違えの無い事実からまずは目を逸らしてはいけない。
動物であるからには、三大欲求に応じるように身体は動かされる。つまり、
食欲、排泄欲、睡眠欲である。これらを充足させる行為が何よりの価値を持つ。
現代人は、これらの欲求に何らかの齟齬を持つ。

例えば、多数を占めるサラリーマンを例にとれば、一番犠牲になっているのは
睡眠欲だろう。ぐっすりと眠れている人はどれほどいるだろうか。会社への出勤と
帰宅の移動。それだけで睡眠を減らされている事になる。そこへ残業などが入れば
尚更である。どうしても十分な睡眠をとる事が難しくなってくる。多くの人は
通勤時に寝るのだが、電車は座れないため、立ちながら寝るという技法をあみだす
他ないのだ。当然家にかえる時間が遅くなれば、疲れているし時間もないために、
夫婦生活に支障を来す。つまり排泄欲が抑圧される。したいのに出来ない、ないしは
そもそもしたくならないなどである。これが世界でも有数のセックスレス事情である。
加えて、食欲であるが、この一番重要な欲も犠牲になっている。通勤のために朝飯は
省略され、昼飯はコンビニ弁当や食堂で急いでとり、晩御飯も時にコンビニ弁当や
吉野家・松屋に立ち寄ってどんぶりを食べたりする。手料理を口にする機会は減る
一方である。もちろん、これらの食が悪いわけではないが、やや殺風景な事になる
だろう。こうしてみると、世のサラリーマンたちの悲哀は、三大欲求の犠牲から
スタートしているのだ。では、その抑圧の本質は何だろう?

さらに食に関していえば、その生産方法が問題となってきた。多くの野菜が
遺伝子組み換え作物などから栽培され、それらの野菜が出回る。農薬を減らす努力が
むしろ口にするものの危険性を増加させている。それから売り物は防腐のため
様々な薬品が加えられている。ハムなど加工品だけでなく、パンなどにも加えられて
いる。現状で口にするものにおいて、化学薬品に関わらないものはほとんどないの
かもしれない。毒性が露わになるには超低濃度であるから、ほとんど何も起こらないが
それらによって細菌が繁殖しないなどのメリットがあるという事実から、それらの摂取
が体に良いというわけではない事もわかる。これ以外にもポストハーベスト問題が
あったり、賞味期限偽装問題があったりと、様々な食にまつわる問題が噴出している。
では、農業がこれらの作業をしなければならない動機は何だろう?

衣食住が足りる事で、世が治まるといった偉人がいるが、現代人はこの基盤となる
生活が危うくなっている。基礎体力を奪われた事で、ヒトはストレス耐性に影響を受ける。
始めは風邪などを引きやすいとか頭痛がするなどの症状である。これらは良く休めば回復する
のだが、その余裕がなく次第に慢性化し、気が付くと病名がついてしまう。
一方で、精神的に追い詰められる事もある。社会情勢の悪化が招く業績不振であり、
それを理由に叱咤される状況が増える。精神的な風であるうつ病などになったりする。
そうして日本は毎年3万人あまりが自殺という事態を招いている。

*実際には、もっと多いと考えられている。変死という区分があり、自殺かどうか
断定できない場合はそこに入れられる。変死の半分が自殺であるとすれば、10万程度
の自殺が想定されるらしい。
http://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_soc_tyosa-jikenjisatsu
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20090802#20090802f4

もちろん、全ての人が苦しんで仕事をしているとは限らない。むしろ、
仕事をさぼっていても、給料が入ると言わんばかりの人たちもいるだろう。
その意味でサラリーマンを十把一絡にするのは少々シンプルすぎる。
だが、紛れもなく一部の人が現状喘いでいるのは事実である。
そして今もどこかで首をくくっているのである。
では、これらの悲しい出来事はどうして起こるのだろう?

これらの疑問の答えはこうだ。
それは社会システムの要請であり社会システムがこれらの数々の問題を生んだのだ。
現状の社会ではこういう軋轢を一部の人ないしは全員が引き受ける事になっている。

簡単にいえば社会はクソであるということだ。こういうとタダの煽りに聞こえる
かもしれない。そして別に自分は楽しいこと出来ているし何も問題なんてないという
人もいるかもしれない。そう、自己の半径10メートルだけみるのであれば、とかく
問題がないかのようだ。実際に、自分の周りには問題は無い。だから、
社会システムを憂うという政治的な行為に人は眉をひそめる。それよりも、明日の
デートが、今晩のご飯が、今度のコンサートが、趣味が問題であろう。そして悩みも
どうして旦那はいう事をきかないのか、上司は認めてくれないのか、恋人が出来ない
のかというような事がもっぱらであろう。

ここでは、そのような喜びや楽しみ、苦しみや悩みを否定するものではない。
それはここでいう「社会」ではない。それは「生活」である。社会とは19世紀に出来た
造語である。その意味は実は明確ではない。だから社会人とは意味がない言葉である。
本質の無い言葉には、様々なイメージが集約される。人によっては社会は「生活」であり
「仕事」であり、「仲間」であり、「企業」である。この不明瞭な言葉が生み出すのが
「国」である。恰もそんなものがあるかのように人々はしゃべる。社会つまり国がそこ
かしこに存在するかのように。だが、もともと抽象的であった社会には、どこにも本体が
存在しないのである。そういう幻想をネーションステートと呼ぶ。ここではそれを「社会」
と呼んでおこう。

社会がクソである理由は既に述べた。そして現代の多くの人を不幸に落としめている
のは、社会システムの問題である。社会システムは社会そのものではなく、具体的な
仕組みの事だ。ものすごく具体的である。例えば、あなたが赤信号を無視して見つかると
罰金を要求される。その理由はなんだろうか?それは権力であり、権威であると普通は
考えてしまう。そうではない。社会統治のルールが罰金を要求しているのである。誰かが
罰金を奪っているわけではない。そのルールの施行者が国である。だが国も実態としては
何もない。そこにあるのは役所であり、公務員がいて、その具体的な人間がルール施行を
行うのである。彼らに行動の主体はない。彼らは社会統治ルールを遂行するただの人形
である。それが彼らの仕事なのだ。統治ルールとはつまり法律である。

国は実態として存在しているわけではない。人々の心の中に埋まっている観念である。
恰も国が役所を通じて具現化されているようにみえるが、それはちがう。国はあくまで
人の心の中にある。それを社会と言っても良い。例えば、アメリカ人が来て、長く日本に
住まうとする。その人はアメリカ人だろうか?日本人だろうか?最終的な判断は結局の
ところ本人がどう自己認識しているかである。それは観念であって具体的なものがある
わけではない。具現化されているのは統治ルールの方である。この統治ルールは基本的に
万人にとって良かれと考えられて作られている。問題はこの人々にとって良かれという意味だ。

国自体が幻想であるとして、どうして全ての人々に良かれという法律が作れるだろうか?
そこで想定されてしまうのは、実にローカルな法律を策定する人々が持つ社会観である。
その彼らがどれほど現状認識に長けているのかは不明だが、どれほど常識を重んじても、
ルールは不明瞭に決定されざるを得ない。そうして一部の人間における良心に基いて
統治ルールが生み出される。その妥当性は国会で審議される。その審議がざるであるのは
もはや明白である。多くの統治ルールはその背後にいる公務員たちによって策定される。

誰しも人は自分が可愛い。そしてネポチズムに従い、身近な人を優遇する。これはヒトが
動物であるという証拠であり、その性質がために自己保全を図る。公務員たちの一つ一つ
の取り組みは良心に基いているかもしれないが、そこに自分たちの利益享受はないという
のは有得る事だろうか?ごく当たり前だが、自分たちに不利になる仕組みは作らないもの
だろう。そのようにして出来上がった統治ルールがどこか歪んでいても不思議はない。

赤信号を無視すると罰金を払う。これはみんなにとって望むべきルールだろうか?
そもそも信号はなぜつけるのか?みんな安全に道路を渡れるようにであるが、では車が
一台もいないのであれば、赤信号で待つ理由は何だ?どうしてあなたはそこで止まる?
仮に無視したとして何もなかったとしよう。どうして罰金が必要だろうか?事故が起こった
のであれば、それは償いをすべきである。それは了解可能だ。でも罰金はなぜ必要か?

注意をしてもまたルールを破るという人間観が統治ルールの思考である。だからこそ、
罰則が与えられる。つまり、この国は性悪説を前提として社会統治ルールを策定している。
誰かに暴行されたとしよう。動物であれば、そこで実力行為に出る。当たり前だが喧嘩を
する。身を守るにしても、何かを行使する。その動物としての当たり前を我々は当たり前
にしていない。うっかり相手をやっつけてしまうと、正当防衛化どうかが審議され、時に
刑務所へと追いやられてしまう。抵抗するのに十分な状況であったとしてもだ。これは
我々にとって有効な仕組みなのだろうか?統治ルールは誰のためにあるのか?社会秩序
それがこのような統治ルールで守られているとみんな本気で思っているのだろうか?

喧嘩をする時に「ああそういえば、ここでやっつけてしまうと法律的に不利だ」とか
考えてるはずがない。事件は起こる時に起こるものである。その時にどういう対応をするか、
それをケースバイケースで審議するのが司法である。だが、それも本質的には統治ルール
である。司法は法律の施行者である。事前にルールを知らないものが、突如、統治ルールに
よって裁かれるのが裁判である。ならばこのルールはなんだろうか?みんなにとって快適な
生活を保つためにルールがあるのであれば、なぜルールを事前に知らせない?
もし、ルールによって社会を規定したいのならば、なぜ法律を小学生に本気で教えないのだ?

我々は統治ルールではなく、むしろ「道徳」という観念によって自己行動を規定している。
どうして喧嘩をしないのか。それは相手が苦しむ姿が自己の苦しみに跳ね返るからであって、
決して罰金を払いたくないからではない。罰金が苦しみを受けた人間をすくうのか?否、
罰金が救済に当てられるわけでもない。道徳が我々の「生活」を規定している。それは親に
教わった生活のためのルールである。つまり、我々が従っているのは生活ルールであって、
統治ルールではないのだ。生活ルールを逸脱した時に、突如統治ルールが顔を出すのが我々
の社会システムなのだ。

さて統治ルールは、社会における我々のあらゆる行動を規定する。
その根幹は、金を如何に接収するか?である。これが「この世のルール」である。
道徳ルールの上に乗っかるかのように罰金が存在する場合が多い。うっかりすると
我々はそれを当たり前だと思いがちだが、別に罰金が本質的に必要なわけがない。
ルールを破ってしまう事と、罰金を払う事は等価であるはずがない。それを国という
幻想の元、市民から堂々と奪う。それが国という社会システムなのだ。

このような事は社会システムの一端に過ぎない。
我々が社会に生まれて生きているだけで、国は税金を納めさせようとする。
なぜなら、それが統治システムの存在理由であり、仕事なのだから。官僚とは
本質的にそのためにいる。決して、みんなに良かれと思う統治ルールを策定する
だけではない。統治ルール策定の裏側に金の接収がある。でなければ、彼らの食い扶持が
なくなってしまうのである。有得ないと思うのは、彼ら自身がルール策定者であるという
事実である。決してルールは、空から降ってくるわけではない。

ではなぜ統治システムは金を必要としているのか?
実はここからが本題である。国という幻想システムが金を必要とするのは、
それが権力になり得るという事だけではない。金を必要とするのは足りないと思っているからだ。
何故足りないのか?根本は収支バランスがおかしいということ、国の財政が国債という借金に
負うているという事である。これが根本的な問題を産んでいるのだ。

国債を発行せざるを得ないのは社会問題という事になっている。
例えば高齢化による福祉拡充などだ。年金問題も大きい。だが、果たしてそれだけなのか?
国債は利子のついた借金である。利回りがあるために、国内の銀行がこれを買うのである。
銀行は国債の利子を見込んで投資する。その元金は実はみんなの預金である。そして
信用創造によって生み出された金で買っているのだ。中身としては、国の借金のために、
我々の預金が使われ、その利息分を銀行が儲けるという仕組みである。利息は年々増える。
それを返すためにさらに国債が売られる。この不可解な運動が繰り返されるのだ。
http://www.zaisei.mof.go.jp/num/detail/cd/3/

すると社会システムの元凶の一つは「利子」であろう。利息という仕組みには実は
正当な理由がない。そもそも金は腐らない。だから本人以外が使っても、金自体は擦り減らない。
何も減らないのに、なぜ利子が必要なのか?利子のもっともな理屈は機会費用の喪失であるが
ならば、貸さなければ良いのであって、それが理由にはならない。そして利子ではなくても、
手数料を課すことで投資先から金銭バックが可能である。利子と手数料の違いは何か?それは
時間との関わりである。利子は返すのが遅れるほどに増える。手数料は初期に決めればよい。
つまり利子と手数料の大きな違いは、時間方向における増加があるかないかである。そして
利子が利子を生む複利が最大の問題である。

複利的な利子は全てアコギな契約と言ってよい。なぜならば、誰にも返せないほどの借金を
生み出す要因になるからだ。どんなに種が小さくとも、指数関数的に爆発的に利子が増大する。
その利子が増える以上の速さで、事業者は利益を生み出さなければならない。出なければ、
銀行に返済できずにつぶれてしまうからだ。ではなぜ、借りるのか?
実は銀行は不思議なもので、十分資金もあって儲かっている所に資金を出したがる。なぜなら
確実に回収できるからだ。一方で、返済可能性に不透明さが残る小さい会社には金を貸し渋る。
すると資金を調達できないとまず企業は複利でも手を出すわけだ。そういう事情があるのだ。

金を借りるといくらでも借金が増えてゆく。だが、その借金は常に任意である。
誰の義務でもない。だが、借りるには利息を払うべきとみんなが思い込んでいるために、
なぜだか借金をしてしまうのだ。それは税制上にも問題がある。保険や家などを買うと
税制上有利になる仕組みになっている。事業者は、経費として落とす事で、税金をセーブ
出来る。だから、借金という形にして利益を相殺し、それで稼いだお金を使うのである。
国という統治システムは巧妙でこのようなシステムに関して、肯定的なのだ。
みんなのための統治ルールを策定するはずが、なぜかこの金に関する部分に関しては、
みんなを不幸にする可能性を残したままにするのである。事業がうまく行っている時は
問題がない。だが、一旦、赤字が生まれると大変である。その赤字分の補てんをするため
銀行に更なる融資を求めると、赤字を理由に断られる。そうして複利の借金に手を出すこと
になる。一度は乗り切った波も、何度か繰り返されると、借金がかさむことがある。これで
借金が残った形で、経営が息づまるのだ。

何も自分が悪いだけじゃない場合もある。取引先の経営が傾くと、入るはずの歳入がなくなる。
つまり債権が焦げ付くと、自分たちの資金繰りにいきなり影響を及ぼすのである。本来なら
儲けているはずなのに、取引先が傾けば、自分のところがピンチになるのだ。
これが連鎖的に起これば、不景気から一気に恐慌になってゆく。

現実問題として社会はつながっている。ならば他社の経営安定は自己の利益でもある。
特に取引先になる企業は大事であろう。それなのに、経営を傾ける可能性がある仕組みを
銀行の判断だけにゆだねるというのは、社会統治ルール上ありなのだろうか?銀行はボランティア
ではなく、営利企業である。取引相手がつぶれようが痛くもない。なぜなら、信用創造に
よって金を貸しているから。実際には何度か目の返済で元が取れているのだ。このような
社会を不安定にさせる仕組みがなぜ、取り残されているのか到底不思議である。
民間企業だから国が口を出さないという理屈はまかり通らない。企業の経営に関してあらゆる
方面に統治システムである法律が張り巡らされているからだ。ならば、国はその権威において
金貸しに対して、複利的金利の制限や、連鎖的倒産を招く債権回収などに規制が必要なのでは
ないだろうか。


国は借金を抱えているという。ではなぜ国がお金を刷らないのか?彼らの権限によって、
お金を刷れば、借金が解消しそうなものではないか。これも不思議である。日本には日本銀行
という半官半民の企業が存在する。ここが金を作るのだ。日本銀行が金をするのである。
実際には国債を民間銀行に売りつけることで、資金を調達する。そういう仕組みである。
つまり金は民間銀行からやってくるのだ。そしてそこに利子をつけさせる。

さて、ルートがはっきりしてきた。それは金がどこか生み出されるかである。それは
つまり民間銀行である。この民間銀行の行動が金を生み出す事に関わっているわけだ。
では、この民間企業を取り仕切っているのは誰か?もちろん経営者であるが、経営者の仕事は
銀行が儲かるように運営することである。その民間銀行に外部より影響をあたえられるのは、
日銀と銀行のオーナーである。このオーナーたちがどのような人々であるかは調べてみると
良いかもしれない。

このように書くと陰謀論のように聞こえるだろう。「生活」をしている我々にとっては、
ほとんど無縁の世界。だが、その裏側には何かがあるように見える。少なくとも、
ここまでの論考で、民間銀行の仕組みはどうにも、統治ルール側にいるようにみえるのだ。
そして、みんなを実行支配するための法律の手から逃れているようにみえるのだ。例えば
信用創造。それは金を生み出す機能を持つ。簡単に言えば、手元に金がなくても、金を
貸せる仕組みのことだ。金を持っているふりをして、誰かに金を利子つきで貸せるのである。
それが銀行なのだ。多くの人は、我々の預金を資金運用していると思っているが、それ
以上に金を貸している。そして裏付けは借金する側がとってくれるという仕組みである。
陰謀論など考えずとも、銀行業務が我々の生活に影響を与える事が理解できる。

さて、話を先頭とつなげよう。社会システムによって、我々の一部は身体をむしばまれていた。
究極的には命を絶ってしまう事態にまでなっている。その理由は社会システムであった。
国のルールは、あらゆる範囲に及んでいることは述べた。そして、この現代の社会システムの
中核に民間銀行があることがはっきりした。その民間銀行が持つ能力は、我々が是認しても
いいものかどうか考えるべきではないのかと問うた。さて、ここで逆さまに辿ろう。民間企業は
銀行に資金の借り入れを受ける。そこには利子がある。すると企業はなるべく早いタイミングで
利益をあげようという事になる。なぜならば、返済までの時間が延びれば、損をするからだ。
そこで経営者は、効率化を図る。企業経営としては全うであるが、利益が伸びている時は
いいが、減ってくるとどうか。当然、やれることはやろうとするだろう。儲かるかは不明だが、
新しいプロジェクトを起させる、新しい事業を展開する、だが雇用がそれに合わせて増える
わけではない。営業に行く場所を拡大させる。作業が増えれば事務も増える。つまり、
一人あたりの作業量が増える。だが、その努力に対して、必ずしも同等の成果が得られるわけで
はないし、仕事量が増える事は、つまり生活の質の低下を招く。つまり動物としての我々の
有り様がダメージを受けるというわけだ。

農業を効率的にこなすためには、農薬散布が行われる。体にあまりよくないとわかっていても、
投資された側としては、利息をなるべく下げたい。それには、一度の収穫量を増大させる
必要がある。そのための方策として他に何があろう。遺伝子組み換え作物を作る。手間と
収穫量が違うために、使用のインセンティブが上昇しているだろう。

身体を悪くした人々は医療を求める。その先には薬がある。製薬会社は多額の投資を受けている。
その回収のためには、薬を多く売る必要がある。それには患者は多い方がいい。その患者とは?
そう企業が提供してくれる、体を悪くした人々である。労働においてダメージを負った身体には
薬が効く。薬の3分の2は保険から支払われる。支払われた保険とはつまり税金だ。病院にかかる
人が増えれば、税金の投入が増える。増えた医療費の支払いのためには、歳入を増やさねばならない。
そこで、国は国債を発行する。

つまり、現代は社会システムによって動いていて、その根幹に金があるのだ。
そしてその金を牛耳るのは、民間銀行である。具体的な実態は利子である。そして信用創造である。
利子や信用創造とは、未来の利益を現代に引き寄せる作用を持つ。つまり、それは今の子供たち
もしくはこれから生まれてくる子供たちに影響が及ぶ作用なのだ。借金とは未来の金の事。それを
現在において使ってしまうということである。

成長がなぜ必要と言われるのか。それは未来を今において使ってしまうせいだ。未来が今よりも
発展してなければ、現時点で使ってしまった未来の金が赤字になってしまう。それを防ぐには、
成長しかない。この「しかない」という言説が如何に危険か知っておこう。人を不安にさせたり、
不快にさせることで、購買や行動を促したりするビジネスがある。その時のうたい文句が「これ
しかない」である。そして危険をあおるのだ。


さて、現代のルールが如何なるものか目星をつけた。そしてその中核に何があるか。
このような現状に対して、我々は何も与しないと思っているだろう。果たしてそうか?
あなたは預金しているだろう。もしくは、給与は振り込みになっているだろう。そう、
その資金は自動的に市場において使用されているのである。あなたの金で、誰かが投資をしている。
ギャンブルをしている場合だってある。その投資に失敗しても、多額であれば、税金が投入される。
どうして、我々がこの上記の事柄に関わっていないと言えようか。

現状を知って何が出来るのか。一つにはとにかく疑う事だ。現状に盲目になっていること自体が
あなたの体を壊す、あなたの家族を苦しめる、あなたの子どもが負債を負うのである。
金が必要な現代では、金があれば、大抵の苦しみを逃れられると思い込んでいる。だが違う。
住宅のために借金をする。それを仕方がないと思っている。だが違う。
頑張れば、努力すれば豊かになれると思い込んでいる。だが違う。
苦しいのはみんなであって、自分だけじゃない。確かにそれは一部真実だ。だが、その苦しみは
みんなで生み出している。現状を追認する行為は、現在のシステムの肯定者である。つまり、
現状で良いという意味だ。その意味でみんなが共犯者である。だから疑うしかない。
何気なくしている事は、本当に自分がしたいと思っている事なのか?それは誰かによって
恥をかかないようにとか、流行っているからとか、テレビで見たからとかに依っていないか?
広告にのる事は、サービスの紹介である一方で、利益を誘導したい人々の戦略だ。それを鵜呑みに
してないか?

まずは、素朴に現状を疑ってみて欲しい。それこそが、社会システムに抵する第一歩である。
誰も得をしないもしくは大多数の人が得をしない制度は無くても良い。単に今まであったから
とその制度を継続させたり、そこに与する必要などないのだ。

もちろん現状に満足している人もいるだろう。私はそれを批判しない。現状のままで良いという
人々もいる。だが火の粉が身に降りかかってきたときに、なぜあの時、考えもしなかったのか
という事は残念ではないかと思う。

希望はある。それはまた次回としよう。

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