女ごころーサマセットモーム [恋愛]

女ごころは、男にはなかなかわからない物と相場が決まっている。
だが、このサマセットモームの小説はどうだろうか?
もし女性が共感できるのであれば、モームは女性心理の一旦を理解しているといえる。

以下、ネタばれを含むので、邦題「女ごころ」(Up at the Villa)を読む場合は留意されたい。







さて、本題の小説のあらすじは、とある英国出身の美しい未亡人がフィレンツェで暮らして
いるのだが、彼女がダンディな年上のイギリス人行政官に結婚を申し込まれる
所から、話はスタートする。この年上のダンディは父親の友人で、彼女は小さい頃から
何かと可愛がられてきた経緯があった。そんなダンディも彼女が未亡人となると、
いよいよ彼女に求婚したのであった。ところが彼女は彼を好きではあるものの、
結婚となると年齢的にも躊躇するものがあった。そこで彼が出張するという数日間
返事を保留することにした。

そこに遊び人が現れる。二人目の男だ。遊び人といっても、決してハンサムではないが、
どことなく女性を安心させる魅力を持つ男であって、数度の結婚・離婚歴があるという
設定である。彼は同世代であるが、彼の軽い感じが好ましくなく、彼女はこれといって
興味を持っていなかった。むろん彼はその気がある。ダンディにプロポーズされたことを
聞き出した彼は、彼女に同じくプロポーズを試みるが、まったく見向きもされないのであった。

そんな時、友人の夕食会に出ていった彼女は、一人の年下の青年と出会う。彼はヴァイオリン
弾きなのだが、決してうまいわけではなく日銭を稼ぐため無理にやっている演者だった。
実は彼は亡命者であって、戦火から逃れて海外で生活を送っているのであった。
その夕食会でもあまりうまくないヴァイオリンを弾いて帰って行った。

同じ夕食会に出ていた遊び人を車で送ったのち、寄り道をしたところで、ばったりと先ほどの
青年と出会う。そして「気まぐれ」によって彼女は青年を家に呼び、事に至ってしまう。
彼女の気まぐれは母性の発露だったのか、それとも本能であったのか、ともかく彼女は、
青年に対してある種の恵みを与えた気でいたのだった。そうして、青年に夢を与えたのだが、
彼女は非情にも言う。「もうあなたとは会わないでしょう。」なぜなら、ダンディと結婚し
インドに赴任するのについていくつもりなのだった。

所が、もう会えないと知った青年は、急転直下、天国から地獄に落とされたような気分になった。
なぜこんなことをしたのだと彼女に詰め寄る。そうして、もめているうちに彼は決意する。
彼女と居られないのであればと、彼女の持っていた拳銃で、自殺をしてしまうのだった。

これに動転した彼女は、ダンディには連絡が出来ないため、ふと思いついて遊び人に助けを
求める。遊び人は事態を把握したうえで、二人で協力して、青年の亡骸をなんとか山中へ
捨てる事に成功したのだった。遊び人はこのことは話すなと忠告して、去っていった。

出張から帰ったダンディに、彼女は罪の意識から、この数日の事の顛末を洗いざらい話した
のだった。そのダンディは彼女の話を受けて、ならばインド赴任を止めてリタイヤして
あなたと暮らすと提案した。公職に就く彼には彼女の行為を隠蔽したまま、職務を全う出来ない
と考えたからだ。

その途端、彼女は悟ってしまった。ああ、私はダンディと結婚したいのではないと。
彼女はダンディのプロポーズを断るのだった。そうして、遊び人の元へといくのであった。

これが女ごころのあらすじである。


簡単に言えば、美しい未亡人がいて、3人の異なるタイプの男性に迫られるという話である。
そうして、一番有得ないと感じていた遊び人の彼の元に収まるという筋である。
まあ、ありきたりのようであり、示唆に富んでいる話であろう。女心の不可思議さを
表しているという事なのだろうか。

女性の心理をどうこう言うつもりはない。それは私が男だからであって、如何に想像力を
働かせようとも、私には女性の真の気持ちは分からない。ただ、それでもわかることはある。
一つには女性は自分の行為を自己決定したという認識に乏しいものだという観念である。

自分の行為の主体が自己決定とどこか(男から見ると)不自然に乖離しているのだ。
頭で考えた事と行動がバラバラと言っても良い。もしくは言っている事とやっている事が
論理的に統一を見ないという事だ。

あの人は嫌な人。というような言明がどこまで徹頭徹尾、額面通りなのかは男は疑うべき
なのだろう。彼を嫌な人とすることで、自己を守っているのかもしれず、その言葉は
おそらく男ほどには重くないのである。そうしてそれに付随する義理人情というものに
それほど気を払わない。彼女らの行動原理は「自己が如何に快適な状態を保つか」である。
よって、さっきまで嫌っていた人物が、自己にとって有利な状況をこさえてくれると
わかった所で、急に態度が変更されるのだ。そして、彼女らにとって、男とはその手段で
あって、決して目的ではないのである。女性が惚れるとは、現状を指すのであって、
決して、それが決意であるとか守るべき信条とかに昇華されるわけではないのだ。

だからこそ、様々なシーンにおいて、彼女らは迷いを見せる。服を買う時、食事を選ぶとき、
その時の気持ちによって物事を決めようとする。決定する事で生まれてくる責任や行為の
主体感覚を避けようとするのだ。

女ごころの主人公であるメアリーも同様に、主体性を保持しない。だからこそ、ダンディへの
気持ちも、遊び人への気持ちも、青年への気持ちも、釈然としない。そうして、一番自分に
とって快適さをもたらす相手(遊び人)を受け入れるのである。なぜなら、それが彼女に
とって一番責任をとらない楽な選択肢だからである。

この物語の名前を女ごころにしたのは、なるほど、この女性の主体感覚の不可思議さを
表したかったのかもしれない。決して、フェミニストが起こるようなステレオタイプの
「女性ってこんなもんだよね」という意味合いではない。むしろ、こういうことが
起る不可思議さをモームは描写したかったかのだろう。
遊び人は彼女の責任をさらってくれた。その意味において魅力的なのだった。

自己決定に対する執拗なまでの回避はどこからくるのだろう?
自己決定に対する回避心理は、女性好みのものにも如実に表れる。
因果性を強く規定しない世界で生きる彼女らにとって、世界とは、流れるものであって、
自己が介入すべきものとして映っていないのではないか。ましてや行為によって事態が
好転すると信じてはいないのかもしれない。または、自己が介入することによって事態が
変わる事が恐ろしい事として感じられるのかもしれない。

希望はある。こうして欲しいやこうしたいという。ただ、それを自らが掴み取るという
行為には出られない。それを広義に社会性と呼ぶことが可能だろう。自己の主張を出す
という行為に対して徹底的に抑制がかけられているのが子女なのかもしれない。
そして、その希望とは心情や思想に基かないために、行為を一貫出来ないのだろう。
例えば、小さな損をして大きな得をとるというような行為は、彼女らの眼中にない。
なぜなら、小さな事象こそが彼女らの大事であって、小さな事象で得をしなければ
ならぬと信じているのである。それは行為を思索するにあたって、指針がまるで
変わってしまうであろう。だからこそ、目のまえの食事のどちらを選ぶかが一大事で
あり、その上で矛盾するかのように決定を回避したいのだから、決まるのに骨が
折れるというものだ。

流れとしての世界認識は、たとえば、占い好きが女性に多い事もその証拠となろう。
占いというのは、自己の決定に無関係に向こうからやってくるものである。大きな
物事の流れは受け入れるしかないとしたら、せめてそれが良い物かどうかを知りたくなる。
その心理が女性の占い好きにつながるのだろう。それは自己決定の影響を恐れる心理が
そうさせるのだろう。

実際に、世の中は自己決定する事で自体が大きく変化することは少ない。
むしろ男はその自分の無力さに絶望する側面を持つ。一方で、女性は自己決定という事を
過剰に見積もっている。だから、責任を回避したいし、それを肩代わりしてくれる人を
求める。それが彼女らにとっての社会性なのだろう。目の前にある食べ物を独り占めしたら
その後彼女は群れに居られなくなるだろう。そのような協力体制を強いられてきた霊長類
のメスにとって、自己決定的行為とは、両刃の剣になってしまうのだ。自己主張は
命とりであると遺伝子が叫んでいるのかもしれない。

さて、女ごころに戻ろう。彼女は最終的に遊び人を選んだ。おそらくスペック言えば、
ダンディを選ぶのが答えだろう。だが、女心にもプライドがある。彼女のとった行為に
対して仕事を放棄するという言明は、彼女に責任を強く押し付ける行為である。むろん、
男がそのような意図は皆無であるのだけど、彼女にそう映るのだ。そして、彼女は、
ダンディが自分に対して無垢な子女という側面において愛していたことを理解する。
彼女は、ダンディが求める人ではなくなったという事実と、自己が欲するのは、まさに
今の私を受け入れてくれる人であるべきという思いが交錯した時、ダンディを選ぶ
理由は霧散した。

女性特有の同情がある。それは母性につながる重要な感情だろう。可哀そうなものに手を
差し伸べるとは、その行為がもたらす幸福感と自己の効力感を大きくさせるのだろう。
時にどうしようもない男を養う女性がいる。つまりヒモであるが、その存在を実現させる
のは「母性」なのだろう。この人は私がいないとダメだという気持ちである。

逆の見方をすれば、この同情は非常に利己的である。考えても見ればよい。
その人を助けるのは誰でも良いのだ。あなたである必要は全くない。どうして、そのような
意識を抱くかと言えば、容易い自己決定で在り得るからである。ヒトはどこかで、コントロール
したい、支配したいという欲があるようだ。人助けという行為は、大義を名分を持つ。
その大義名分によって、相手をどうにかするというのは、さぞ気持ちが良かろう。
そして、その建て前によって、本質である自己が他者に影響を与えるという部分を
カモフラージュできるのである。

つまり、女性の同情を額面通りヒューマニティとして理解してはならぬということである。
女性の行動原理は、「自己の状態を快適に保つ」であった。少なくとも同情という行為は、
社会的な肯定がある。そして、自己に快楽を与えてくれる行為となる。自己決定しても、
それを咎められることは稀である。つまり責任回避可能な行為の一つなのである。
ならば、進んで行うであろう。それも、自己決定に関して抑圧の強い状況下におかれている
女性であれば、なおさらである。

この感情は、実は有益である。とりわけ子育てにおいて有益なのだ。子育てとは、同情的
行為の延長にある。子供が問答無動で可愛いということもあろう。だが、子育てにおける
心理的中核は、自己が無尽蔵に頼られるという自己効力感の増大でもある。つまり、自己に
責任はない。なぜなら、他者が求めるからであると、大手を振って言えるのだ。それでいて
他者をコントロール下に置くことが出来る。それがどれほど快楽であろうか。
もちろん、すぐに子供は自立を求めるようになる。そこに生き物としての駆け引きがある。
母親が偉大なのは、無償の愛であるが、そこに「ミソ」があるのだと主張したい。

青年はなぜ悲劇を迎えたのだろうか。それは女性特有の同情心の発露だったからだろう。
男の気持ちを揺さぶる事がどれほど意味をもつを持っているのかわからぬ女性は多い。
それは女性は、その瞬間の快適さを求めるからである。男は信条を生み出す。それを
ロマンと呼んでも良い。その幻想が性衝動を高めるからである。

このメアリーは、青年の中に信条を作りだしたのだが、それを突然放棄させようとする
わけだ。男の信条は若ければその思い込みは強固である。それを裏切った彼女に対する
復讐としての自殺であった。その自殺が彼女の脳裏に残り続けるという意味において、
復讐なのである。青年がその場で思いつく限りのあがきであったのだろう。
女性はこのシーンにおいて、なぜ自殺をしたのか理解できないかもしれない。
それが男心の中核なのだから。

さて、かくして美しき未亡人メアリーは遊び人を受け入れた。それはある意味で、
メアリーにぴったりとする人物であったろう。なぜなら遊び人は、女性心理に敏い。
それこそが、典型的女性であるメアリにとって男に求めるところだからである。

この結末をもって、男は「やっぱり女性ってこんなもんだよな」とぼやくのであった。
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