文化と人ー潜在的な行為とはー

人は、もっぱら狩猟採集の動物の末裔である。
これが現代、生物学の一つの回答だ。これを踏まえて以下の議論を行う。

我々は残念ながら動物である。この意味は、誰しもが当たり前だと考えるかもしれないが、
多くの人は、どこかで自分を動物だと思っていないふしがあることに気が付いていない。
この動物であるという意味は、我々の意志や思想に関わらず、生かされており、その大部分の
機能は自分の求める所とは別の所からやってくるということだ。

生き物には、三大欲求がある。食欲、睡眠欲、排泄欲である。
これはあまりにもべた過ぎて、多くの人にとって、有意な意味を持つと考えられていない。
だが、人はこれらの欲求が満たされない時に、問題を招く。

例えば、食欲は非常に大きな力を持つ。人がなぜ争うのか?その根本は、リソースの分配である。
飢饉になった村では、食事を得る事がどれほどか強く望まれるであろうか。その食い扶持が、
すぐ隣村に存在するとしたら、ひとまずは、少し譲ってもらえぬかと懇願しにいくだろう。
当初は良くても、枯渇してくると話が変わってくる。それはとどのつまり争いの始まりである。
これを理性によって収めるのはほとんど不可能である。

同様に現代では、食欲とは金と結びつく。金を得るという事が食事を安定的に手に入れる事と
通じている。この根本から、社会的なステータスというものが萌芽するのである。
よって、金を得るために争いを引き越すというのもまた人の在り様なのだ。

排泄欲とは、性的な事はもちろん、子供を作る事も同様である。
子供の生成は、女性がもつ能力に依存しており、それは一端に排泄欲のなせる業である。
現代において、生理が問題となっているが、かつては、ほとんど常に子育てをしていた。
これは、女性とは常に、子供を産み続ける存在であったということだ。これはある種の
排泄行為である。(フェミニストにおいてはこれらの言明に苦言を呈するかもしれないが
予めご了承頂きたい。)

睡眠欲だけが、外部的な争いを起さないものに思われるが、実際には睡眠が不足すると、
その個体は衰弱死し、まともな行動を起せなくなる。つまり生命維持に問題をきたす。
その一点だけとっても、睡眠の重要性は明らかであろう。現代科学では、睡眠は脳が
要請する身体状況と考えられている。それはひいては「我々自身」の存続につながっている。

さて、このような欲求だけではない。ヒトには高度な知性や感情も存在する。
これらの気分をコントロールするという意味において、文化や形式が生まれてくる。
多くの人は、根本に他者との比較を強いられている。それが恥の文化や、流行を生み出す。
このような比較思考もまたヒトの生物学的要件である。

文化人類学を紐解けば、もっと多くの共通項が見られるであろう。
それは、つまりヒトが如何に動物であるかということであり、サルの末裔であるという
意味である。

現代の病理、例えば、肥満や高血圧などは、食事を多くとることから生まれているが、
それは、かつて長らく食料は慢性的に不足していたという時代への適応から引きこされる
病である。我々は、好物があれば、好きなだけそれを食べるという行為に走るよう設計
されているのである。

同様に、多くの欲求はかつての道において、そのような振る舞いをする個体が生き延びる
ために必要な形式であったはずなのだ。それはいざとなれば、他者を殺す事など反社会的
な行為も含まれる。かつてそれらは、反社会的でもなんでもなく、ただの生存のための機能
であったに違いないからだ。

狩猟採集動物として適応した身体をベースに少しずつ変化をしてきたのが現代である。
それが、コーカソイドやモンゴロイド、ニグロイドなどの人種を生み出してきた。
ダーウィンが唱えた適者生存の法則である。暑い地域では体は小さく黒くなり、寒い所では
身体は大きくなり白くなる。それが環境が求める適応的な体の戦略だからだ。それらは、
遺伝子のきまぐれと、環境による個体制御によって、徐々に生み出されてきたものだ。

このような状況が、あとどれくらい続くと、我々同士が交配不可能なゾーンに突入するのかは
未だ知られていない。だが、環境的隔離が数百万年単位でおこれば、必然的に種が分岐し、
交配不可能となってゆく。我々が知覚できる時間があまりにも短いために、その変化が理解
出来ないという事がダーウィンらの主張が仮説としてしか存在できない理由である。

現代の多くの問題はこの狩猟採集生活から、農耕社会へと移行し、都市文化を形成した事に
よって生まれてきた。都市が生れて便利になったことはすなわち、身体の不適応を引き起こす
という意味である。身体は、残念ながらこの数万年はこれといって変化がない。せいぜい
栄養状態の安定化による身体拡張が主な点であろう。身体は相変わらず狩猟採集自体のスペック
なのである。

現代という都市環境にこのまま人が数百万年の単位で暮らし続ければ、
当然ヒトは変わる。その時は、ヒトは今の人ではなくなっているだろう。
それは交配不能ないしは、孫がうまれない状況になっているだろう。
むろん逆の意味では、環境的な隔離とその環境下における交雑によって
種の分化を図ることは可能なのかもしれないが、現実的には非人道的であろう。

狩猟採集の動物が無理に設定している事のいくつかが、理想や道徳、宗教である。
これらの多くのは、ヒトが本来もつ行為を限定させる働きを持つ。そして、行為に
努力目標が含まれている。その努力目標の逆として、欲求の制御が規定される。
三大欲求のうち、睡眠における既定はほとんどないが、(これも不思議な点)
食欲と排泄欲に関していえば、多くの既定がある。

不思議な事だが、このような欲の制御が文化を生成する。
その一方で、いまだに戦争が存在するように人の欲求は、ほとんど元のままである。
人が形而上的に理解した事柄も、いざ飢えたりすれば、そんなものはどこかへ
吹き飛んでしまう。それがヒトが生き物であるという道理なのだ。

行為の潜在性に留意してみる。これがここで述べたいことである。
ヒトの行為には、どこかに起源がある。それは生物学的な要請であることが多い。
攻撃とは、とどのつまり防衛である。他者を威嚇することで、自己を守っているのである。
それは生き物すべての特質なのだ。それを邪悪であると一掃するわけにはいかない。

誰かが何かをする。それはどこかで、生き物らしさの反映である。
残念ながら、ヒトはそれ以外の事が出来ないからである。
そして、狩猟採集民族であるという身体的既定はかなり強力であると思った方が良い。
浮気をするのも、痴漢をするのも、ヒトの本性に依存しているからだ。むしろ、
そういう性質をもつ個体が生き延びてきたという事実は直視されなければならない。

現代は、そのような欲に対するダイレクトな希求を嫌悪する社会となっている。
このひねくれた状況下では、ヒトは頭がおかしくなっても不思議ではない。
もっともな欲求を否定するのは、それが文化であるためだが、多くの人にとって
不愉快な思いを催させる。そのストレスを取り除くための装置としての、酒タバコ、
そして、多くの娯楽である。それはつまり文化である。

欲の否定とは、文化の萌芽を意味する。この逆理によって、我々は大いに惑わされている。
武士はくわねど、高楊枝とは良くいったものだが、大脳肥大もそこそこにしないと、
我々は滅んでしまうのではないか?とも思う。

現代はこのバランスが事、ITの出現によって崩れようとしている。
ここにその警鐘を鳴らすものとしたい。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0