資本主義とは?ー行き詰まりー [思考・志向・試行]

資本主義を「拡大再生産」と読むのであれば、
それは「安い資源を買い、付加価値をつけて高く売ることで利潤を得る」ということになる。
そして、それには買い手が前提となる。

この安い資源というのが、事の問題である。
早い話が、誰かが誰かを搾取するということである。
資本を持つものが、持たざる者から労働力を安く買い、それに付加価値をつけて
高く売るということである。この図式からすれば、労働者は常に「搾取」に
甘んじることになる。つまり、労働者をやっている限りにおいては五十歩百歩である。
もし、この現在の経済ゲームに勝とうとするのであれば、どこかで人を雇う側に
回らねばならないのだ。

資本主義の建前として、すべての人に平等に機会があり、
努力すれば、それに対する対価がもらえるということになっている。

これは明らかに嘘だ。
多くのマッチョな議論がされており、要領よくふるまえば、貧困するはずもないという
「上から目線」の議論が横行しているが、本質的にはその彼らが貧困するものから
搾取しているという自覚がないだけである。はっきりいって、この手の議論を本気で
述べている経営者や企業家はバカである。いや正確にいえば、非人道的な存在である。
良識ある人間や弱い人間に現状を容認させる方便であり、これらに騙されてはならない。

この裏側にある本音は「俺はお前らよりも優秀なのだから、お前らより幸福であっても良い」
という考え方である。これに反論があるのであれば、唱えてみてほしい。要するに
「弱肉強食」を訴えているだけである。そして、それがたまたま現在、彼らの戦略に
マッチしているに過ぎない。一般に、こういう連中は口で言うほど、大したことはないし、
これらの連中は結局、世の中を良くするわけではない。自分が良ければ良いという人間たち
の発言など、取り上げるだけ無駄である。

経済性を本気考えるならば、できるだけ多くの人が安定的に生活できた方がいいに決まっている。
これは論理的な結論ではない。願望であり希望であり、信念である。人は人の幸福を願うべき
存在である。誰かの犠牲の上に成り立っていることを理解しないものに、本当の幸せはない。

資本主義の行き詰まりは、明らかに制度上のものであり、搾取を基本とするしかない。
つまり我々が、世の中の貧困を作り上げているのである!人々がお金に熱狂している時代
なのである。

昔は、お金などなくても生きていた。つまり食べ物はその辺りから採ってきたわけだ。
今でもそのような人々はいる。残念ながらそれは我々にはもはや不可能であるし、
そのようなことも望んではない。我々はつぶさに生活できることを望んでいるのである。

現代は徐々に、マッチョに生きるか、落ちて生きるかの二択になりつつある。
このような二択を迫られていること自体がおかしいと考えるべきだ。
どちらの道も険しいが、それがなんだというのだ。そんなことを価値基準にすべきではない。

多くの文化において、幸福とは何かが議論される。
その中で、考えられる基準は、その世界の中で幸せにいる人の数という問題だろう。
ブータンの僧侶たちは経済的に貧しいだろうが、はたして不幸せだろうか?

今の日本では、本来であれば十分に幸せだと言える人々が、
社会的な構造の中で、不幸せだと思わされているようにしか思えないのである。
そして幸せになりたければ、もっと働けと言われているように見えるのである。

最初に戻って考えよう。いかに働いたとしても、労働者として働いている限りにおいて、
このループから逃れることは無理である。ループから抜け出すことが本当の幸せを
手に入れる方法なのだろう。

資本主義は結局搾取すべき相手が徐々にいなくなっていることであり、
安い資源を手にいれにくくなってきたことによって、行き詰まりになってきたのである。
このようなキャピタリズムに対する行動的反論がテロであるとすれば、
テロの発現は現代社会において必然的であると言わざるを得ない。
それほどまでに、人々を疲弊させてきているのである。

既に、時代は動いた。
既存の資本主義ではない新しい形の主義が必要なのである。

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