セミの潔さー人の醜態ー [思考・志向・試行]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%9F

セミは何年物あいだ土の中で生きて、
成虫になり、ひと月ほど生きて死ぬ。

求愛行動=死

虫たちの求愛行動の結末は案外と死で終わることが多い。
これが哺乳類と大きな違いである。虫たちは生まれくる子どもたちのために
毎年スペースを空けるのである。それは生まれた時から決まったことであり、
かりに求愛に成功しようとしまいが、彼らはそこで運命を終えるのである。

このような潔さを哺乳類は失ってしまった。
本来的には長く生きるものはいつの時代も稀であったし、
稀であったがゆえに、年寄りは重宝されたのである。

今はまるで違う。お年寄りが大量にあふれかえり、その存在がさも当たり前かの
ように言われている。しかし本当はそれは嘘である。これだけ多くなってしまった
老人たちが社会問題を引き起こさないわけがない。

少子高齢化は実は用語として正しくない。本当は「過多高齢化現象」である。
つまり、人がなかなか死なない社会になっただけだ。
これをいうと年寄りに唾を吐くような言説になってしまうのだが、本当の事である。
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/h18/H18_hakusyo/h18/image/i3108000.png
http://www.chusho.meti.go.jp/pamflet/hakusyo/h18/H18_hakusyo/h18/image/i3112000.png

普通、こういうグラフをみたら、問題とするべきは増えていく現象のことだろう。
もし、このグラフがセミであったらどうか?おそらく多くの行政はセミ駆除に乗り出すだろう。
違うのだろうか?我々が今の政治においてやろうとしていることは、むしろセミの増殖である。

ここで述べているのは、事の本質である。つまり日本という国を日本人ではない何かが
観察した場合のことを述べているつもりである。よって単なる老人批判ではないことに
留意してほしい。

昔に比べて、老人が増えてしまった問題点であって、
決して、少子化が問題なのではない。むしろ少子化は受け取れるパイが少ない若者に起こる
生物学的に全くノーマルな現象であると言わざるを得ない。

ここで言いたいことは要するに老人には適切に死んでもらわないと困るということである。

老人がいなくなれば、消費税という「名目的」福祉税を医療費以外に回せるし、
老人がいなければ、雇用の枠が拡大し、正規に働ける若者が増えるだろう。
若者がきちんと働ければ、いずれは結婚もし、家族ができ、子どもが増える。
それによって、社会が健全化するのは間違えない。

つまり、あと20年いや30年すると、上記団塊の世代が次々にいなくなる。
すると、その後にはすっきりとした▽タイプの人口分布図が生まれるだろう。
http://www.holis-net.com/image/pyramid.gif
少なくとも、頭でっかちの予測図から離れることで、かなりの問題が解決するはずである。

医療分野でいえば、ほとんど多くの病気の問題は、60代以降の人間の話である。
・がん・急性心筋梗塞・脳卒中これらは三大疾病と呼ばれているが、たとえば、メインの
がんの発症年齢は50歳から増え始める。つまり、人間の耐久年数が50歳程度に出来上がっている
ことを意味しているのである。http://www.fpcr.or.jp/pdf/statistics/fig14.pdf

あとの部分はほとんどおまけである。ところが、今や30年も死ぬまで残っている。
多くの老人たちは、決して裕福ではない。むしろ現代のように畑仕事や海など一次産業
に関わってこなかった老人たちは、日々の仕事がなく、ただぼーっと過ごすか、
病院を寄合にするか、近所を散歩するかして、漫然と寿命がくるのを待っている。
配偶者がなくなれば、近年の核家族化のせいで、一人家にいることになる。

自分で自分の面倒をみることができなくなった老人ははたしてどうすればいいのか?
もちろん、ぴんぴんと元気で、動き回る初老の方々もいる。

このような老人たちを子どもたち・孫たちが支えるべきというのが今日のテーゼであるが、
そんなことできるとは到底思えない。我々にとっては、老人たちは適当に死んで頂いた方が
ありがたいのだが、そういうわけにはいかないのであろうか。

当然、老人たちもこれほど長生きをして、子どもたちに迷惑をかけるとは思っていなかった
であろう。断言しておくが、年金受給の老人たちは「子供に迷惑をかけている」のである。
さも当たり前の権利のように年金を受け取っているが、それは年金を創出してくれる世代が
いるからである。些末な問題だが、本質的には老人は「サラリーマンに席を譲る」べきだ。
なぜなら、彼らが老人たちを養っているのだから。老人を敬う時代は終わっているのである。
それほどに老人は稀有ではなく、精神的支柱にもなり得ない。そんなこと老人だったわかって
いるはずだ。それにも関わらず、権利だけ主張するのは論理的矛盾である。

誰も老人を悪く言わない。このことが大きな問題である。医療費がかさむ?なら、
人が減ればいい。無駄な治療と考えられるものはやめればいいのだ。
これは多くの医療問題と直結する。ガタが来たらみんな車を廃車にするではないか。
人だけは別だという論理は資本主義では成り立たないはずだろう。

私は別に老人をやっつけたいわけではない。問題の本質は「人が死なない」という点に
あることを指摘したいのである。それによって起こる社会問題ーニート、少子化、失業
これらの問題点は、「遅れてきたもの」の中にあるのではなく、社会構造の中にある
ということを主張したいのである。個人責任などくそくらえである。個人責任がない
わけではない。しかし、個人責任は常に存在してきた。つまり当たり前すぎて何の
根拠にもならないということだ。声高に個人責任を問うのはほとんどの場合、既得権益者
だけである。

セミに話を戻そう。セミはいろいろな声でなく。
彼らは子孫を残すためにひと夏、一生懸命活動する。
そして、静かに息を引き取る。

生物はこのようにして生きてきた。
我々はこれに逆らうかのように生きようとしている。
この現代の問題はほとんどこれに尽きると思う。
つまり、人は欲張りになってしまったんだ。

欲張らずに生きられる世界、欲張りたくない人が生きていける世界。
欲張りたい人によって他者が虐げられずに済む世界。
そのように世界を構築できないものだろうか。

今の日本はあまりに強迫観念に取りつかれている。
セミたちは、今日もそんなことにとらわれず、ただ生きている。
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