人は弱い。

かつて、参議院議員に中村敦夫氏がいた。

彼は、国の政治のあり方について多くの疑義を訴えた。
「最高裁は違憲状態である。」
「統一教会と自民党の議員の関わり」
「裁判官は行政に出向し癒着している」
「官僚たちは自ら天下り先になる特殊法人など作り出している」
「国の税金を高値で公共事業にばらまいている」
「厚生省は年金を事業に融資して赤字経営で溶かしている」
「官僚と財界には癒着がある」
などなどだ。

本質的には、どれもこれも構造的に起こりうる汚職や不正だろう。
それもこれも中央に金が集まるという仕組みが問題だ。
だからこそ、地方主権、民主権の政治体制を中村氏は説く。

権力が集まれば、そこに様々な癒着が生じる。
そして、権力の継続を求める強い力が働く。
こうして、徐々に権力は腐敗し、瓦解する。


結局、権力とは、自然ではない形に状況を歪めるという際に力を発揮する。
つまり、権力が発揮されたという事は、何か自然ではないことを引き起こしたという事なのだ。
そして、それは崩壊の始まりになる。なぜなら、その行為は物事を歪めたからだ。
物事は歪められると、もとに戻ろうとする。実際的に戻らなくても、ねじれたものは、
その応力によって、形を必ず変えるものなのだ。


なぜ行政がこのようになるかといえば、それは歪めたい事柄があるせいだ。
目的のために、権力を駆使するのである。しばしばそれは白を黒という事になる。
その無理は、どこかで破裂するのだ。

今回の殺傷事件は、歪んた社会が引き起こしたものだ。その遠縁は、
紛れもなく政治的な問題であった。文鮮明という人物を日本に入れたことだろう。

アメリカで脱税で捕まった文鮮明は、本来日本に入国することは難しかった。
逮捕歴のある人物は、入管法5条によって拒否することになっているからだ。

ところが、これを12条による例外として入国を認めている。
その理由の1つが、刑確定後7年経っているということ。
もう一つが、国会議員と意見交換をするためというものだ。1992年のことである。

「北東アジアの平和を考える国会議員の会」というものを
5名の国会議員と一人の元議員がでっち上げて、文鮮明を日本に特例で入国させたのだ。
この議員たちは、統一協会より秘書を派遣してもらったり、献金を多くもらっていた。
つまり、統一協会と関係のあった議員たちが、犯罪歴のある人物をわざわざ招き入れた
という事なのだ。

この時、法務省への圧力をかけた人物として、金丸信元代議士の名があがっている。

つまり、今になって統一協会と癒着があるわけではないのだ。
1970年代からすでに統一協会と政治家には癒着があったという事なのだ。

統一協会の関連団体「勝共連合」にからみ、1990年の衆議院選挙では、
「勝共議員」が105名出ていることがわかっている。

もうとうの昔から、統一協会と主に自民党の議員たちはズブズブであったという事である。

安倍政権になって、いよいよ、表立って関係をあらわにしただけというのが
今回の事件の背後だったわけだ。

霊感商法などの犯罪性などわかった上で、政治家たちは彼らを利用し、そして
彼らに利用されてきたという事である。

これが単に選挙活動だけならばいざしらず、文鮮明は北朝鮮とも関係がある。
その団体である統一協会が政府与党の議員たちと関係がある。
これでは、政府の情報が北朝鮮に漏れ出ても不思議ではない。その可能性があるわけだ。
ところが、公安は統一協会を安倍政権発足後にマークから外してしまった。

つまり、確信犯なのだ。

ちなみに、自民党の高村議員は弁護士だが、以前は、統一協会の主任弁護士をやっていた。
そういう経歴の人物が大臣などを努めていたわけで、果たして日本のセキュリティは
どうなっているのかと疑わしい。

むしろ、自民党は統一協会を通じて北朝鮮と通じているのではないか。
選挙前や政権に都合が悪いことが起こるとミサイルが飛ぶ。これもあながち
ただの噂とは言い切れないのではないか。そんなふうにすら思わされる。

結局、政治の世界では、統一協会との癒着は当然という事でまかり通っていたのだ。
それが今更、表に出てきただけという認識なのである。

だからこそ、それを常識と思っている大臣や閣僚は、うっかりと、
統一協会からの協力をさも当たり前のように語り、それが何が問題なのかと思うわけなのだ。

こういった政治家たちの自分たちだけが良ければ、それでよいという利己的な考えが、
統一協会をのさばらせ、結果として不幸な状態に陥った国民が出てしまったのである。
そのうちの一人が、山上容疑者ということになる。


一方で、山上容疑者の行為は、否定されるべきである。
どんな悪党でも、私刑は許されない。それが日本のルールだ。
とはいえ、そもそもルールを捻じ曲げて、統一協会を放任した政治家連中の罪も重い。

山上容疑者の心理上に、自分を知らしめたいという概念があったことは間違えないだろう。
置かれている境遇は決して本人の問題だけではない。その彼が、もっとも効果的と思った
行為が今回の殺傷事件である。

私には、これもまた構造的な問題なのだ。

社会に居場所を失った人間は、人知れずこの世を去るか、それとも、自分の存在を知らしめ
ようとする。それが暴力行為であっても。なぜなら、それによって彼らは人々の記憶に
留められることになるのだから。

私は犯罪者とは結局、社会が作りだすものだと思われる。社会が受け入れを拒否した人間が
いきつく先のひとつは、非合法な行動であろう。そうすることで、ようやく自分の場を確保
できる人々がいるのだ。

山上容疑者は日本でもっとも有名な人間を殺すことで、何かを得ようとしたのだと思う。
そして実際にそれを得たのだと思う。そこにはきっと対象に対する大した感情などないはずだ。
だからこそ、躊躇なく実行できたのである。

人を貶める事に躊躇ない人間を育ててしまう。それが今の日本の現状なのだ。
一方では、政治家が自分たちの利益のために、犯罪行為を行っている組織と手を組む。
もう一方では、自分の主義の表現として、人を殺傷する。

どちらも、同じ穴の狢である。

それは人の弱さなのだ。

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