校内暴力世代 [思考・志向・試行]

別段、リサーチをしたわけではないが、ある種の世代論争というのは常に存在している。
それは、フロイトがいうように、親世代との確執だろう。

社会化というのは父性に関わる。そして、人はこの社会化を経て社会に組み込まれていく。
社会の有り様は、父性に依存するのだ。

どんな社会にするのか。それは個々人では決められない。
なぜなら、すでに社会は先行して存在しているためである。
よって、とある時代に生まれた子どもたちは、その時代の空気によって
育てられるということになる。

日本ではどうか。

敗戦国となった日本では、アメリカの占領という屈辱から逃れていない。
今の90代くらいの人々がもっとも若い人々で戦闘に加わった人たちだ。
つまり、無理やり戦いにいかされ、場合によっては人殺しに加担した。
そういう若者たちがたくさんいたのである。

敗戦後は、負けた国の人間としてプライドが傷つけられ、
日本は猛烈な勢いでアメリカ化していく。日本人である事が毀損された形で、
戦後の子どもたちは育っていく。へんちくりんな欧米コンプレックスが生まれ、
その歪んだ自己像は、社会への反抗として表現されていく。

歪んだ大人たちがみせる惨めさに対し、子どもたちは声を上げていく。
若さとはグレーを生きる事ではなく白黒を生きる事だ。
だから、60年、70年と安保闘争が生じた。

安保闘争とは、戦争に負けた若者たちの子供らが起こした運動である。
要するにヘタレになったオヤジたちをみっともないと反抗したのだ。
アメリカの占領されているという惨めな事態から脱却すべきと考えていたわけだ。

そんな彼らは、闘争に破れた。つまり理想では世界は動かなかったということだ。
何しろ、朝鮮戦争が勃発し、その物資を作ればどんどん売れる。戦争に加担する事で
日本は高度成長の基盤を作り出した。気がつけば、資本主義に巻き込まれていったわけだ。

生活が「豊か」になる。その結果、闘争していた若者たちも社会に組み込まれていく。
そうして、理想は脇において、生活にフォーカスした若者は親となり、子供が育っていく。

この子どもたちが80代に校内暴力をもたらす。いわゆる団塊ジュニアだ。
なぜなら、全く同じ構図なのだ。理想があるくせに、それに背を向けた卑怯な親たち。
彼らは、自分たちが染まった社会に子供らを染めようと試みた。
だが、子どもたちは大人たちの欺瞞をかぎとり、その矛盾を責めた。

むろん、子供は会話が下手だ。だから暴力という形で現れる。
既存社会に歯向かうとして、言葉が使えないなら、体でしかないと。

くだらない大人たちが作り出した社会に、なんで加わる必要があるのか。
若者としての当然に、大人たちは身体的・精神的暴力で応じた。
だからこそ、校内暴力はますますエスカレートし、精神的な暴力は子どもたちを
反抗させた。当然である。悪いのは大人たちなのだ。

この大人はわからない連中という断絶と諦めは、子供のたちの心を虚無にさせた。
訴えても無駄なのだと思わされた。社会に背を向ける子どもたち。それは
小さく抵抗を続ける不良たちと、学校つまり社会を拒絶し引きこもる子どもたちになった。

この子供たちも親になる。今の30代、40代だ。
社会の大人たちは信用ならないと無意識化した親たちは、頼れるのは金であると
思い込んだ。うまく損得をコントロールすることで、社会と距離を置く。自分がよければ
それでいい。そういう価値観なのだ。だからこそ、モンスターペアレント化する。
社会というものを拒絶した世代は、きれいな言い方をすれば個人主義化したことになる。

不良たちはマイルドヤンキーとして地方で生活し、
引きこもりたちは、細々と社会の脇で暮らすようになる。
そして、エリートたちは大人たちの社会に「兵隊」として組み込まれていく。
兵隊になったほうがいささかマシなのだと信仰しているからにほかならない。
そうでも思わなければ、生きられない。

今の子供達は個人主義化した大人たちの子である。親への反抗というものが
消えていく。なぜなら、親は自分の子供を圧倒的に過保護にするからである。

とはいえ、子どもたちは知っている。大人たちが欺瞞に生きている事を。
肌で感じ取っている。金のために生活を犠牲にしているという事実に。
賢い子どもたちは、親たちを責めたりはしない。むしろ自分のために
よくしてくれていると感謝している。

一方で、立場が逆転した。子どもたちが最初に接する先生たち。
子どもたちは、親と同じように振る舞う。親は先生を小馬鹿にする。
なぜなら、金がないからだ。実にシンプルである。権力関係がない相手を
どうして丁寧にする必要があるのか、親たちはわからないからだ。
むしろ、サービスだと思っているがゆえに、損得を最大化するように
振る舞う。

結果、学級は崩壊する。これは健全ではあるがゆえに、
教育の崩壊でもある。それは日本という国が戦後からきてようやく、
兵隊づくりという事に疑問を持ち始めた事でもある。

だが、老人たちはこの流れについていけずにうろたえた。
かつての国家という空想がきれいに消えていこうとしている。
教育がそれを担保する時代ではなくなったのだ。いまや教育とは、
生活のクオリティをあげるための切符を得るための手段になった。

子どもたちは親の価値観に振り回される。
戦後の国家観に生きる人間もいれば、平成の国家感を生きるものたちがいる。
共通言語が急速に失われていく。焦った大人たちは、子供を管理しなければと
考えた。教育に手を入れるようとする。特に自民党系列の価値観では、国家観が
戦後のままなので、実に古臭いのだ。だから「修身」などという概念を持ち出してくる。

むろん、そんなものはうまく機能するはずはない。
個人主義化させたのは、親たちではないか。老人たちではないか。
そういう社会にしたのは、あなた方が子どもたちに与えた欺瞞である。

今の子どもたちの一部は、生活を守られ自由に生きることになる。
一方で、かなり多くの子どもたちは経済困苦の親たちに育てられ、
ますます、金の信奉者になるだろう。社会は世代内で分裂していく。

個々人にこれらの責務はない。
時代には流れがある。つねに、どの時代にも疑問をもつものや、真実を見極めた人々はいた。
だが、多勢に無勢である。大きくは流される他無い。それは諦めとも違う。巨大なシステム
は個々人の頑張りという事ではない論理で動いているというだけのことだ。

そして、そのシステムは、システムが持つ性質に由来して駆動していくだけである。

明確なのは、時代の暴力性は明らかに人々の心に侵入し、人々の行動を縛り付けていく。
そのようにしか生きられない人間を作り出していく。

大きな出来事、例えば、南海トラフ地震などが生じない限りにおいて、
日本という国の流れは、この図式に則っていくのだろう。


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