文化とはなにか。 [思考・志向・試行]

『ダライ・ラマに恋して』たかのてるこ著を読んでいる。

本には出版が平成19年とある。つまり2007年だ。
そんなに古くないなと思ったが、今、2022年であった。
つまり、15年前の本である。自分が年月に無自覚なのは問題だなと思った。

さて、内容は当然ながら、チベットの話題なのだが、
たかのさんは行動力のある人で、チベットやラダックに実際に出向いて
色々と旅をしてくるという話である。ダライ・ラマに会いたい。だから、
彼らの文化を知りたい、実際に行ってみたいという事なのだ。好奇心が
順当でとても、素直な人だなあと思う。

話が進むと、色々と分かってくる。とりわけ、チベットは今では中国に併合されようと
している事。ダライ・ラマはインドに亡命しているという事。その2つの地域での
生活の有り様の違いなど。いつの時代も政治とは各も人々を混乱に陥れるものだ。

感銘を受けたのは、チベットやラダックで住む人々の写真である。
まず目が違う。子どもたちの目が違うのは明らかなのだが、大人たちの目も違うのだ。
チベット仏教を信仰しているというバックグランドがあるだろうが、
それにもまして、何を日々の頼りにしているのかという点が、生活を強く規定する。

かの地には、日本人がすっかり忘れてしまった、人々との交流がある。
人が確かに生きている。そして、人々は他者のために祈っている。
それは我々が考えるような豊かさではないけれど、全く質の違う豊かさの人生がある。
そして、私にはやはり、そのような在り方が人類にとって幸福の道なのではないかと
さえ思われるのだ。

日本のムラにもかつてはあったと思う。だが、様々な富が生まれてくると、
損得という形で行動が形成されていく。それはムラでも同じである。
みんながやりたくないことを、我慢を強いてやるというような態度がそこにはある。

ラダックの人たちの雰囲気は違う。自分ができる事をやる。
みんなで色々やる。それは他者への貸し借りのようなものではなく、
望んでやるような事なのだ。ここには、良い人が、つまり良心を持って生きる人が
幸せになれる構造がある気がするのだ。

一方で日本はどうだろう。
他者を騙したり、蹴落としたり、そこまでいかなくても、得な事は身内だけで確保し、
損なことは誰かにやらせるように仕組む。資本主義社会はたしかに弱者を搾取するのだが、
それを自覚させない仕組みになっていて、それが社会が駆動する原動力すらなっている。

子どもたちは「ああはなりたくない」と思い、損得社会に適応する。その一方で、
適応できない子どもたちの一部はこの世から立ち去ることを実行する。
卑しい人間が生き延びて、良心ある人々が苦しみに生きる。日本はそんな風になってはいないか?

努力すれば良いという考えは、どこか歪んでいるのだ。
苦労するのが人生。それはそうだろう。だが、損得に生きろというのはあまりにも
くだらないではないか。そんな社会をどうして肯定するのだろうか。

俺にも人生がある。家族がいる。子供がいる。だから、損得を優先して
自己の良心は二の次さんの次。人間性を発揮する事が、自分の仕事の評価を下げるなら、
非人間的な行為をも必要悪として行う。そういう日本人は多くなってしまったのではないか。
家族を守るという大義名分のために、社会を毀損しても良いというのは、あまりにも
おかしい。そのおかしさすら、分からないような下らない人間たちが増えたのではないか。

異常な価値観の内にあるという事を、この本は間接的に教えてくれている。

チベット文化に生きる彼らと、文明に生きる先進国の人々。
本当に人生を生きているのはどちらだろうか?

日本人がいま留学すべきは、人間性を生きることが肯定される社会ではないか。
ヨーロッパやアメリカのような暴力社会から一体、何が学べるというのか。

私は若かりし頃、インドネシアを旅したことがある。
この本はその時の感覚を蘇らせてくれる。
当時のインドネシアは、いまよりもずっと後進国の様子であった。
だが、そこには人がいた。人間がいた。

果たして今の日本には誰がいるのだろう?
人ではなく、機械にも似たような人の形をした何かばかりになってしまった。

日本は、人間になるべきではないか。
ここからやってくる大不況・ハイパーインフレ社会において、金ほど利用価値のないものはない。
我々が頼れるのは他者であり、人間的良心である。そういうものを最重要視する社会に
立ち戻る必要があるのだ。
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