不幸の始まり [思考・志向・試行]

幸不幸は条件ではない。
ようは、どう感じるのかという現在の状況の事だ。

幸福とは、快楽主義のエピクロスに言わせれば、
苦痛の不在と、魂の静けさである。その題目からみると驚くような主張かもしれない。

では、どうするとこの状況から外れてしまうのか。
そのポイントは、「正当化」にあるというのが私の主張だ。

正当化された物事が増えるほど、不幸になる。
どういうことか。

人々は、仲間を守ることを是とする傾向を持つ。
だからこそ、仲間を作るとも言える。言い方は悪いがえこひいきのことだ。
仲間内と外では扱いが変わる。

問題が発生しがちなのは、まさにこの内と外の関係性である。
特に仲間が犯した問題への対処こそが、不幸を呼び寄せる。

同じように瑕疵があっても、他人と身内では態度が異なるのである。
これをカントは、道徳と真理の転倒と呼んだ。

例えば、身内が万引をしたとする。社会的なルールの逸脱だ。
このとき、あなたが黙っていてほしいと言われたらどうだろうか?
社会正義と、身内の論理の間に立つことになる。

この場合では、どちらの態度もあり得るかもしれない。
黙っていることで、波風が立たないなら、それもありかと思うだろう。
一方で、身内だろうが、社会的にアウトなものはアウトだと反応する場合もあるだろう。

仮に、ここで仲間をかばうとしよう。なぜなら、仲間を「売れば」自分が危ない可能性も
出てくるからである。社会正義よりも、仲間内の結束をとるわけだ。このとき、外部へは
行為の「正当化」が行われる事になる。つまり、社会正義に反している事に対して、
なんらかの言い訳を用意するということである。

実はこのような事が不幸を生み出す。
隠蔽に関与すれば、心は安寧ではいられないはずなのだ。
また、仲間内に何かあれば、同様の対応を迫られる。つまり、二度とある種の社会正義を
肯定できなくなるのである。

これは犯す行為に違いはあれど、どんな場合にも適応されるだろう。
会社において、明らかに業務怠慢や欠陥商品とわかっているものを売りつけたりする場合、
それと指摘することは仲間を裏切る事になる。ならば、発覚しなければ良いだろうと
言われたままに売りつける。このとき、心のなかでは「正当化」の回路が働いてる。
自分は悪くない。悪いのは製品をつくった連中なのだとか、自分は職務を全うした
だけなのだと考えるのだ。

同じく、政治家がうっかり口を滑らした事に対して、隠蔽工作をしなければならないと
なったとき、それは社会正義にそぐわないと意見することは、仲間内からは肯定されない
だろう。仕方がないので、命令通り、書類を改ざん・捏造することで、仲間をかばう必要が
出てきたりする。このとき、内心では社会正義に反すると理解していても、その責務は
自分になかったと「正当化」することだろう。

こうして、正当化した行為は、その場をやり過ごせるかもしれない。
しかし、心のわだかまりは永遠に残る。死ぬまで残るだろう。
それが恐ろしくなると、離脱をはかる人が出てくる。それはときにこの世からの離脱という
形で終わることもある。


別段、社会正義だけではない。

例えば、家庭において、本当は居心地が悪くても、他者にはさとられまいと、
行動し、それでいいんだと自分にいうような、まさに正当化が生じる。
本当は子供がほしくなかったのに、子供を生んだ母親が、これで良かったのだと
納得しようとするような、自分の本心に嘘をつくような正当化もまた、大問題なのである。

条件が良いからと、ちっとも楽しめない仕事をやり続ける。それでいて、自分はまだマシだと
正当化する。

残念ながら、心は正直なものだ。不用意に正当化した事柄は必ず、のちに反動が現れる。
そういう仕組みなのだ。

仲間内をかばうための正当化も、バレれば凋落の憂き目にあう。不正・偽造など
事実を歪めれば、歪めた分がどこかで吹き出してくる。そういうものなのだ。
少なくとも、自分はその事実を知っているということを隠すことはできない。

こういう風に正当化したがゆえに生じるのは、心の歪みである。
そして、この心の歪みこそが「不幸」なのである。

万一にも、何かをしでかしてしまったら、それは責任を果たすべきなのだ。
責務を果たすことではじめて人はその重荷から開放される。

キリスト教では懺悔と、免罪符というものがあった。
神が正当化を許すという愚かで賢い制度である。

自分がおかした事柄が、どうにも取り返しがつかないとき、そして正当化ですら
うまく行かないとき、神が許しを与えてくれる。そういう考えなのだ。

むろん、罪に許しは必要である。だが、正当化した事柄は消えはしない。


うっかりとやってしまった事。その免罪のために「正当化」するのは問題を解決する
どころか、次から次にトラブルに巻き込まれることだろう。

こういうのを不幸というのである。


では、実際的に仲間が何かをしでかしたらどうしたらいいのか。
それは然るべき対応をとるほかないのである。

犯罪めいたことから、非人道的なことまで色々とあろう。組織に強要されるかもしれないが、
それでもなお、自分の心に反することを実行すべきではないのだ。

「家族がいる」といって、非人道的なことをしてもいいわけではない。
命令だからといって、人を傷つけるのは異常な事だ。

私達は、おかしいことはおかしいというべきなのだ。
正当化して自分を守ろうとすると、それは精神にこびりつき、常に人生に暗い影をさすだろう。


とはいえ、人は弱いものだ。
人は仲間から疎外されるくらいなら、正当化して不幸になるという人もいる。
そのくらい人は弱々しい。そして、倫理的なおかしさを指摘できる人は殆ど皆無である
事も知っている。

大抵の人間は、あれ?と思っても、何を言わずスルーをする。
そういう人間こそが、生き延びる時代でもある。

自分にメリット・デメリットがないなら、別に不正でもなんでもいいじゃんと思うのだろう。
そこに良心の呵責もないのかもしれない。言われたからやったまでだというのかもしれない。

私はそれですら、その正当化がその人を不幸にすると考える。
大事なのは、自分に嘘をつかないことである。


とはいえ、嘘をつくことで生き延びることもある。
嘘をつかざるを得ないときもある。

私は自分を棚にあげるつもりはない。私もまた正当化をする人間なのだ。
そして、反省をするのだ。正当化は不幸でしかないと。



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