マルチタスクの弊害と効能 [思考・志向・試行]

我々は、ネットによってマルチタスクが促進されている。
それによって、気を散らすことが文化になってしまっている。
そういう警句は様々な所で上がっているのだが、みんなはそれを深刻に受け止めていない。

はっきりとこの傾向は分かる。
あらゆるコンテンツがエンタメ化している。
そして、注意を一瞬間だけでも引き付ければ良いという事になった。

ネット上のコンテンツは、リンクをクリックする事を優先させるように配置され、
デザインされている。グーグルがやるべきは、大量のデータから人々に特定の
広告をクリックさせることである。これに全力を傾けた結果が、今のウェブ検索だ。

本質的には、ネットは広大だ。ところが、グーグルがレコメンドするリンクは
相当に絞られている。これにより特定の情報が流布される傾向を生む。
この傾向が顕著にでてしまったのがFacebookである。Qアノンのような特定の
考え方がクラスター内で繰り返し反響されてしまうのだ。

とにかく、ネットはマルチタスクを「強要する」。これが問題である。


マルチタスクを強要することで人はどうなるか。
当然、脳は変わる。どう変わるのか。それは注意散漫になるという事だ。
ネットの世界は、スキあらばクリックをさせようと迫ってるのだから、
それに人の脳が最適化していく。

人は状況から無関係ではいられないのである。
状況から大いに影響を受ける存在である。特定の場所にいれば、
時に素晴らしい成果をあげる一方で、時に自殺を考えるほどになる。
それくらいに環境の影響は大きいのだ。

脳の変容を強く受けるのは子どもである。これを危惧するからこそ、
IT系の経営者たちは子どもたちにPCやスマホの使用を制限する。
それは危険だと感じているからだ。

ところがコンシューマーにはとことん使わせようとしている。
幼児だろうが関係はない。使かわせれば商売は成功なのだから。

「スマホ脳」とはアンデシュ・ハンセンの本であるが、この本はまさに
マルチタスクの弊害を訴えている。

では、弊害だけなのか?
注意散漫になった人々はどうなるのか?

この世界では運や実力によって決まるものがある。
その時に、思考は非常に重要な地位を占めている。この思考力の低下が
はっきりと起こるのが、マルチタスクである。そしてただただ時間を浪費する。

現代は、他者の時間を奪ったものが金を得るという理屈が通用する。
サービスという名の時間泥棒である。サービスがサービスを受けた人の
思慮や生き方を変えるなら、そこにはまだ意味がある。が、大抵のサービスとは、
実をいえば「現状維持」をしろというメッセージが込められている。

Youtubeで何をみても、大抵のものは行動を変容させない。
ただ、おかしかったり、笑ったり、可愛らしかったりするだけだ。
泣けたり、珍しかったり、驚いたりするだけなのだ。

それが終わった途端に、みんな現実に戻っていく。
その現実こそが、変わらない現実である。

この仕組において誰が得をするのかは明確だろう。
クリックさせている仕組みを運営している人々だ。
そして彼らに投資している人々である。

こうして、あまり考えない人たちは、無料ないしはちょっとした課金による
サービスに時間を使い込んでいる一方で、クリックをさせる側はコツコツと
金を巻き上げていく仕組みが構造化したわけだ。

加えて言えば、かつての世界を生きていた年寄は、
能力の低い若者が増えれば、その分安泰でもある。
ビジネスの分かる若者に資本を投下して、その見返りで巨万の冨を得る。
これがこの30年で行われたことだ。日本はそれをだまってみていた。
だから、現状のままなのだ。

ひろゆきやホリエモンを取り上げている暇があるなら、
まともに物を考えている若者に投資をするべきだろう。


逆さまに考えてみる。加えて、違う可能性も考えてみよう。

1.各人がマルチタスクの弊害を意識して、不用意なクリックをしない社会が
訪れたとする。

すると広告宣伝は効果を半減させるだろう。必要なものだけに時間をかけるようになる。
トータルでみれば、余計なものを買ったり、余計なサービスに浪費する時間を減らせる。
AAAMというサービスは勢いを失い、定常化するだろう。頭打ちをみせることになる。

これにまつわる商売は不景気になる。モノが売れないわけだ。
この状態を国は放置しないだろう。企業の売上を確保させるために法人税の減税に
動く。補助金のバラマキに走るだろう。これは結局、実質的なサービスの滅亡に
向かう道である。

一方、投資家は投資すべき対象を失う。金があっても、利子を得られなければ、
もしくはテコにして価格変動が生じなければ、不労所得は増えない。

仕方がないので、投資先は軍事へ向かう。戦争や紛争があれば、そこでは必ず
武器の消費が発生する。全く無関係な人々の命を金に変えるためだ。
地域紛争が増え、情勢が悪化する。実際的に悪化すれば、それに不安を覚えた
国民は軍備拡張に賛成するだろう。世界はそういうオプションを常に持つ。

紛争をイデオロギーとしてみるのはあまり的を得ていない。つねに戦争とは金儲け
が主軸である。安全とか安心とかの不毛な議論は、人々の目くらましに過ぎない。

資産家たちが投資をする。その利ざやをがめる。その原資はどこからくるか。
マルクスは労働価値説であった。だが、いまや我々は金のでどころがどこかくるかを
知っている。それは借金である。信用創造(私はこの言葉の欺瞞性が嫌いだ)である。

国が借金をする。これが今の時代だ。国が借金をして、企業の株を買う。
企業の株の値が釣り上がれば、それを持っている資産家たちは資産が増える。
その国の金を誰が補填するのか? 未来の国民の労働である。

だが、そんなものは実際には存在するかどうか不明だ。
国の借金を税負担させるのであれば、まだ分かる。
しかし、借金を借金で賄うというサラ金破産まっしぐらの状態が今だ。

利子をご破産にするか、国債を紙切れにするか、とにかく最後はひどいことになる。
それを先送りする気なわけだ。50年後、100年後へ。

私には、戦争以外にそれが可能なタイミングはない気がするのだが。

つまり、人々が「目覚めて」マルチタスクをやめて、ろくでもないクリックをやめた
として、その先に待つのは、金余り状態における不景気である。
金を基盤とした生活は破綻する他無いのだ。

現代は、だからこそ、人々には騙されててもらって、わずかな労働対価を
じわじわと奪い倒し、それの金で国を維持し、借金を担保するという地獄への
一本道を歩んでいる。その責務をとれる人間など、生存していない。だから、
やり放題なのである。そんな未来の事など、知ったことかというのが国がやっている
事なのだ。

一部の官僚たちは、この現状を憂いて、正義心から、増税を訴える。
今、増税しなければもっとひどいことになるという弁明なのだが、
もはや手遅れであるし、なんならもっと早く崩壊したほうがマシかもしれないのだ。
それがわかってないから、増税論などが出てくる。

ともあれ、背景にあるのは、金は減らないのに、利子が存在するという例のやつだ。
絶対に返済不可能な借金が生じる。だから、絶対に破産する人間が現れる。
当然だろう。ましてや誰かが金を退蔵すれば、絶対的に金が不足する。

金は金を呼び寄せる。利子があるからだ。当たり前の事実だが、そうなっている。
そういう仕組を多くの人は是認しているのだ。

自分は投資家になり、誰かが借金をして金を増やしてくれて、その金を合法的に
受けれれば、それでいい。これが現代の生き方である。先進国は、借金を第三国に
押し付けているのだ。それでもなお、第三国は借金をしたほうがマシという世界である。
どうしたものか。。

人々が状況を理解し、合理的な行動にでたら、経済は破綻へ加速するというわけだ。
残念だが、仕方があるまい。
その後に人々は何が本当に大事なのかを理解するが、そのときはずっと先かもしれない。

2. 現状の適応を超えて

もう一つの可能性は、この状態を延命させていく、現状維持というプロセスだ。
どちらかといえば、こっちでしかないだろう。

多くの人々は何も考えずに目の前にサービスで時間を費やしていく。
金と時間を吸い取られていくのだ。

一方で、これを知った若者の一部は、これを逆手にとっていく。
またマルチタスクを超えて、深く考えられる人間になる可能性すらある。
もしくは、気が散る人間が普通になれば、その人間が求めているサービスを提供できる。
そうして、社会は老人たちを締め出していく。そういう可能性がある。

要するに危惧するほど、若者はばかではないし、マルチタスクでつぶれてしまうほどでもないと。
むしろ、好きなことに没頭できる知識や時間の増大によって、かつての大人よりも
個性を発揮できる可能性すらある。現にそういう子どもたちが一部にいる。

大企業などの老人たちが支配する仕組み、年金や保険など、
これらの負担が増え続ける20年は、急速に日本は衰退する。
仕方があるまい。死んでもらうわけにも、働いてもらうわけにもいかないからだ。

年金をなしという事にしたほうがよっぽどか、フェアな状況なのに、そうなったら、
今の年金受給者はこまってしまうのだ。今すぐ、年金は一律に変更して、
若者からの徴収を少しでも減らさない限り、制度が崩壊する。というか崩壊を
多少とも和らげられる。問題はいつ崩壊が明確化するかだけなのだから。

日本は内需の国だ。なのに、円安誘導で、人々の負荷を増やして苦しめるの国だ。
輸出にたよる団体にいい顔をするための政策である。結局、政治はすでに企業統治
時代である。大きな企業が政治に強い圧力をかけている。

問題は、その大企業が傾くことだ。当たり前だが、労働者が消費者である。
その消費者に金を渡さないなら、金をつかうはずがない。そして、若者から
社会負担をしいれば、若者の消費は下がるに決まっている。

金を保持しない若者は、ますます、ネットのサービスで我慢するようになる。
スマホの依存が増える。一部の人間達はそういう方向へ進むだろう。

一方で、スマホネイティブな子どもたちは、その先にいけるかもしれない。
我々の思いもつかない使用法を思いつく可能性があるのだ。

どちらにしろ、今後20年つまり団塊世代が死んでしまうまで日本は衰退する。
GDP的には。だが、生活の有り様は変わるかも知れない。
かつてのような粗野な人間はすっかりと減るだろう。

つまりハラスメント的人格である。権威性を求めたり、
金を求めたり、心に欠損を抱えた世代が減るのだ。

かつての軍人は、戦後に教師になった。そして軍隊式で生徒をいじめた。
その結果として、企業戦士が誕生した。負けたという心の歪みを内面化した
世代がいた。今の政治家たちである。その世代は、戦後のエートスのなかで
人間としては不毛な社会設定を生きている。その彼らがうみだす制度で
今の若者は生活しなければならない。この不条理が現代である。

心が欠損しているので、その埋め合わせを求める。だからネトウヨになるし、
パヨクにもなる。金や女や社会的地位などを追い求める。その心は欠損である。
ハラスメントの犠牲者が、そういうものを追い求め、それを求めるがゆえ、
その制度が生き延びていく。

エリートと呼ばれる人間こそは、ハラスメントの犠牲者である。
非人間的なパズルゲームの勝者は、結局、社会において現状維持のパーツにしかならない。
そういう人間がもっとも生きやすくなるように制度設計しているので、
社会はそういう人間像を押し付けている。

心に欠損を抱えた世代が、心に欠損をもつように教え込んだのが学校という制度だ。
だから、社会が是認する価値観に迎合するなら、学校では成功するだろう。
そして、落語者というアリバイを作り出す。そもそも人間に上下など無いのにだ。

とはいえ、状況適応性にはえらく差がある。
それ自体を否定はしない。能力に違いがあるのは仕方がないことなのだ。
あとは、それをうまくバランスして配分するという事だけなのだ。
要するに、学力という能力差を示す事で、配分の偏りを正当化するというだけなのだ。

その能力差が昨今では明らかに親の経済力に依存すると明らかになってきた。
要するに学習機会、学習内容へのアクセスなどが影響するということだ。

そもそも能力があるからいって、高給取りになるかは別問題である。
高給取りとは頭が良いのではなく、多くの人が求めるサービスを職にしたという
事に過ぎない。それを多くの人は勘違いしているのだ。

さて、話がそれてきたので、ひとまずこのへんで。

マルチタスクの話であった。その内実は結構重要な問題をはらんでいる。
ネットやスマホを使うときは、本当にそれをしたいのかどうか、一呼吸考えることを
おすすめしたい。
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