現代社会の欺瞞ー善の顔をした悪 [思考・志向・試行]

メリトクラシーが跋扈している。
そして、努力こそが価値だという世界観がある。

私には、嘘にしか聞こえない。エリートは大抵は愚かであるし、
努力こそが価値というのは、人に何かを強制したい人間らのプロパガンダである。

私も努力してきた。そのまま、生きていく予定であった。
だが、気がついてしまったのである。目を覚ましたのである。

ことを辿れば、テレビを観ないことにした辺りからであろうか。
メディアにあふれる日常的な悪は、事実以上に過剰に扱われ、
それによって世界イメージが構築されていく。

テレビというメディアに侵された老人たちは、世界像が歪んでしまった。
そして、テレビというメディアによって家庭は壊れていく。

人々は自分の生活を振り返ることをあまりしない。
毎日何かしらの仕事を要求され、それが人生の全てを生きる。
そして定年になると放り出されて、右往左往する。

70年代から2000年まではそれが通用していた。
要するに人々は夢を観ていられたのである。
ところが、いまやどうだ、底が割れてきたのだ。
ひとつにはネットの時代の到来である。

ネットは有象無象である。しかし、日常をテレビから切り離した影響力は大きい。

私は5年ほど、テレビを見ない生活をしていた。
結果どうなったか。様々な事が、欺瞞に満ちている事を知る。

その一つは、努力であった。なんのために、自分が努力するのか。
もちろん、その一部は自分のためである。自分のため??
努力して、成果をだしたとして、評価されるとしよう。
その評価によって、次に待ち受けるのは、その次の努力目標である。
では、その目標も努力して達成したとしたら?

努力で何かを手にした人間はこう考える。自分の成果は自分に起因すると。
だから、その対価を懐に収めるのは正当であると。そして、何も手にできない人々、
また、全く努力しない人々が、何かを得ることを嫌悪するようになる。

つまりエリートとは、そういう考えの人々である。努力差別主義者である。
その典型は、DaiGoのような人であろう。彼がそう考えてしまうのは、
そのような考えに染まりきっているという事であり、それを彼個人に帰するのは
フェアではない。簡単にいえば、努力による差別主義は、大手をふって日本に
存在している。日本自体が、一種の優生学的な主義を保持しているのである。

だが、努力主義は必ず負ける事を理解する人は少ない。
次から次にくる努力目標をこなし続ける事ができる人は稀だ。大抵はどこかの
段階で、挫折することになる。挫折が早かったか、遅かったの違いに過ぎない。

学生のうちに挫折すれば、一部は登校拒否になるだろう。
社会人で挫折すれば、引きこもりになるだろう。
当たり前なのだ。努力は背後に競争が付属している。相対的な競争なのだから。
必ず、挫折する人間を排出する。大多数の人間を否定する仕組みが、努力主義である。

そして、努力主義の最終形態は、多数のニヒルな人間の製造である。
「どうせ」や「結局」という態度の人間を生み出す。

一方で、成功者どうか。
大抵は何かが犠牲になっている。

多くの場合は、家庭が犠牲になる。家庭を犠牲にして、努力主義が遂行される。
仕事優先の生活。子供やパートナー、そして地続きの生活圏における人間関係が犠牲になる。

日本社会は、こうして、努力主義を徹底させることによって、全体が疲弊した。

この状況でほくそ笑んでいるのは、資本を牛耳る人間たちである。
彼らのギャンブル欲は、尽きることはない。なぜなら欲望は依存症だからである。

彼らは市場を見渡して、どれが勝ち馬なのかを見ている。走っているのは大衆たちだ。
大衆たちは努力主義という欺瞞を内面化させているので、これといった人参をださなくても
走っていく。むしろ餌が意図的に枯渇させられているので、走るほかない。
そうして、彼らはその中からよく走る馬(人間)にBETするというわけだ。

こうして、資本家が儲かると、その一部は政治家に流れ、政治家は大衆から微々たる利益を
巻き上げる。なぜなら、そうしないと馬が走るのをやめるからだ。

努力主義は、資本家および国家による欺瞞のプロパガンダである。

私はそう気がつくと、様々なことがアホらしくなった。
とりわけ、努力して仕事をする事に対してだ。資本主義とは、共産主義とは違った形の
人民操作術である。努力すると良いことがあるかのようにみせた大いなる欺瞞。

実際に良いことがあるじゃないか? いや、すでに書いているように、
多少の賃金の過多は変わるだろうが、エリートは仕事依存症になり、
大衆は、ニヒリズムに陥るような、不健康な社会のどこが良いというのか。

少しでも、この社会でマシなポジションに付くには、努力する他ないと思い込ませること。
これが国や資本家が求める、最大の「同調圧力」である。

そして、多くの日本人はこの同調圧力に屈した。私はこれを現代社会の欺瞞であると
言いたい。そして、それはやはり悪だと思う。

え、資本主義の努力主義が悪だと? と思うかもしれない。
そう思った人は、手遅れなので、記事を読まなくても良いと思う。
頑張り続けて国家や資本家に人生を捧げてくれれば良い。

じゃあ、どうすれば良いというのかとすぐにいう人もいるだろう。
共産主義にしろというのかなど。そういうすぐに答えを求める態度こそが、
同調主義そのものではないかと思う。

ここから人類がまともになるには、もっと他者を信頼する仕組みが必要になる。
もし、資本主義を続けたいなら、儲けた人は税をもっと収めるべきだろう。
それが当然の事だから。

本来的に、どうならなきゃいけないかはわかっている。
どうすればよいのかなど、たくさんやることはある。だが、みんなそれをするはずがない。
なぜなら、今の生活で満足しているからだ。

大抵の人々は、今のバランスで良いというのだ。
それが自分の人生だったからだ。それを否定された人々は怒り出す。
お前の人生は間違っていると、そんな提言を受け入れる人間はいない。

結局、この社会はどこまでも腐敗する。それしか道はない。
あがくために何かをするほどに、腐敗が進む。そうして、そのような思想を持つ人間たちが
いなくなる頃に、世界は正常化していく。

いつの時代にも叡智はいた。彼らはつねに正しく物事を捉えていた。
だが、それは常に時代の考えによって蹂躙されてきた。

人類とはそういう存在なのである。それ以上を期待してもダメなのだと思う。
振り返って、じゃあ、我々はどう生きるのか。

結局いつものようにここに戻るのだ。資本主義に巻き込まれないように、資本主義を生きる
しか手はない。だが、そんなことが可能なのか?
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