夢の実現性 [思考・志向・試行]

人生のスパンという単位において
人類が解決できることなど、ごくわずかだろう。
結局、物事は100年や200年という単位で動いている。

逆に言えば、そのくらい経てば、世界はガラリと変わる。
とりわけ、この数十年で物事はだいぶ変わったようにかんじる。
私の子供の頃を考えてみても、今のような世界になるとはあまり思っていなかった。

そういえば、子供の頃感じていたのは、自分の在り方が固定化されてない不安だった。
大人たちに将来の夢は?と聞かれ、返答に困っていた。なぜなら、将来の夢など、
あまりにも非現実的すぎるからだ。現実的な回答は、親と同等のことをするのだろう
という事だ。そして、それの何が悪いのか不明だった。

私は夢に「サラリーマン」と書いた。
そしたら、これでは駄目だというのである。
おかしな話である。大抵の日本人はサラリーマンになるというのに。
そこで友達に頼んでみたら、だれも書かない「総理大臣」になった。
まあ、なんでもいいや。そう思った記憶がある。

自分が不服だったのは、サラリーマンにしろ、何をするのが仕事なのか
全く不明なのに、特定の仕事を志向しろという考えだった。
実の親父がやっている仕事ですら、いまいちよく分からなかったのである。
ましてや、他人の企業に努めている親たちなど、全くの異世界だ。

大人たちは、勉強をすることを奨励した。
その事自体は悪いことではない。が、その目的が問題だった。
勉強すると、良い大学へ入り、良い企業へいき、良い家族をもち、ということに
つながるらしいことは分かったが、自分がそれに組み込まれることがどうしても
うまくイメージできなかった。

引き寄せの法則など、信じてはいないが、人の志向性の影響力は分かる。
人は、自分がする事を、自分で決めてしまう。リアルにイメージできる事だけが
実現していく。それ以外のことは、どうしても億劫になってしまったり、
二の足を踏んでしまうものなのだ。今となってはよく分かる。

だから、こうしたいと思うものがあれば、それについて具体的に想像をする事を
おすすめする。突拍子もない事でもいい。想像したからといってそうなるとは
限らないが、そうなるように、近づくように自分の行動が誘導されるのは間違えない。

例えば、カレーが食べたいと願う。それも、カツカレーが食べたいと願う。
それを頭の中でリアルに想像する。もっといえば、どの店のカツカレーかもリアルに
想像する。そして食べた時の満足感や味や印象なども可能な限り想像する。いくらなのかも
含めてだ。その実現のためには、数日間おこずかいを節約することで、資金が貯まる事も
考える。

するとどうだろう、なんだか、それは可能なことに思えてくる。
およそ、チャンスが巡ってきた時に、躊躇なくカツカレーを食べに行くだろう。

このような事は、もっと不可能に近いことでも起こり得る。
ただし、具体的な想像がつくものという点がポイントなのだ。そして、具体性があがるほど
実現可能性は増えていく。それが現時点で全くなくてもだ。

それは、自分のセンサーをその方向に向ける事になり、情報や機会などが手に入りやすく
なるからなのだ。また、実現することが自然に思えるからだ。ここが最重要なのかもしれない。

例えば、宇宙に行きたい。そのような願いは全く不可能だとは言えない。
事実、宇宙飛行士は外ででかけていく。宇宙飛行士になるにはどうしたらいいのか。
そのためにはどんな場所に自分を置かなければならないのか。それが具体的であるほど、
実現可能性はあがる。

むしろ、これは必要条件である。何かを実現する時には具体性が必要なのである。
具体的と言っても、わからないことがたくさんあるだろう。だからこそ、そのぼんやりとした
イメージをくっきりさせるために、行動を起こす必要がある。イメージが曖昧なところに
フォーカスして、それを調べる、経験する。その事で、初めてリアルに行動出来る。

加えて、知るほどに興味がわき、好きになる。そして、その気持が実現性をあげていく。

もし、具体的イメージにおいて、能力的な壁があるかもしれない。
宇宙飛行士になるには、大学院はでなくはならないとか、英語が出来なければならないとか。
そうなったら、それが出来るようになるように自分を鍛えるしか無い。

ここで肝心なのは、それは出来るようになると具体的にイメージすることだ。
練習して出来るようになる。じゃあ、どうやって練習すると良いのかと考えることになる。

一方で、いやあ、自分にはそれは無理と思ったとしよう。その瞬間から、
その願いは、本当にただの願いになる。仮想現実になってしまう。自分のありえる行動を
自分によって、規制してしまったのだ。


通常の自己啓発では、そこで諦めるなという文言が現れる。が、私の意見は違う。

それでいいのだと言いたい。諦めることは悪いことではない。
それは自分が志向すべき方向ではなかったのだと考えさせてくれたのである。

どんな事でも出来るとか、何にでもなれるというのは、ただの幻想である。
そして、行為を具体的に思い描けない事は、出来るや出来ないに関わらず、
やらないのである。やらない事は、やる必要がなかったのである。

結局、自分が出来ることをやるのである。この出来ることの中に、今出来ることを
想定する必要はないという事だ。練習や訓練で出来るようになることを空想できる。
それを踏まえて、人は行動を起こす。

その見通しが悪ければ、失敗するだろう。けれど、それはまた違う目標を掲げることが
出来る。やってみなければ、出来るかどうかなど分からないのだ。

大事なことは、できそう と思え、やってみよう と考え、それをどうすれば
出来るのかをちゃんとステップを踏めば良いのである。

具体的に想像できることは、おおよそ実現できる。
しかし、困難そうなことはその困難さの直感に従い、出来ないままなのだ。


もう一歩踏み込んでみる。実をいえば、人はおおまかに自分の過大に見積もっている。
なので、平均よりちょい上の行為は、実現可能だと簡単に信じられる。それは逆に言えば、
自分をそのように行動できるとイメージできるからだ。

これを4つに分類して考える。世知辛いが、能力限界をここで導入しよう。
すると、

1.困難だが、出来る事
2.困難で、出来ない事
3.普通で、出来る事
4.普通だが、出来ない事

本当は2軸の4象限にわかれる話なのだが、これで十分だろう。

世の中には、これくらいの事柄ある。4があまりに多いと暮らしにくい社会であろう。
しかし、そういうことはあまりない。協力してくれる人がいえば、大概はなんとかなる。
なぜなら、それは普通の事だからだ。それが出来る人が周りに沢山いるのだから。

よって考えるのは上3つの事だ。
3番は、ただやれば良いとわかる。やりたくないなら仕方がないけれど。
通常は、これは想像ができるはずだ。自分がそれをやっている姿を。つまり、上記のように
具体的な想像が可能で、それが可能なら実現も可能である。

問題は、1と2である。実を言えば、1なのか2なのかは、本人も他人も区別不能である。

大抵の人にとって困難なことは、自分にも困難であると想定する。
すると、本当は、1と2は、困難とはわかるが、自分ができるかはわからない。
と言い換えられる。

このとき、自分がそれをやっている姿を具体的に想像できるほど、困難感は減る。
つまり、できそうと思えるのである。しかし、想像するほどに出来なそうと思う事柄もある。
それが自分の行動を制約するのである。そこで自分の能力もモチベーションも止まってしまう。

肝心なのは、出来るかわからないという事柄に対して、とりかかって失敗するだけの
価値を認めるかどうかになる。出来るかは不明だけど、やってみるしかないのだ。
その時に、自分がそれをできそうだと直感できるかという事なのだ。

実際にはやってみたら、案外出来たという事も少なくない。
一方で、全然できないという事も少なくない。

それで良いではないか。皆にとっても困難なことなのだから、出来なくても不思議ではないのだ。
恐れることはなにもないのである。

もちろん、始めから絶対できそうもないと思っているのに、やるのは馬鹿げている。
それは挑戦ではない。玉砕に等しい。無謀とも言う。嫌なことをやるのは、
何も生まない。

やるのは、できそうと感じられること。そしてポイントは、
できそうという事柄を、自分で制約するなかれ という事である。

とりわけ、信頼できる他者は案外、正確に実力を見積もっているものだ。
他者から進められた挑戦は、やってみる方が良い。

長くなった。結局、夢とは道標のようなものだ。
それが適っても、叶わなくても、気にすることはない。
一番肝心なのは、それに向っている時に、充実していることだからだ。

夢や目標の意味は、それを目指すことによって、日々が充実することである。
人はどうも、そのような事柄を必要とする。そして、そのような立て付けがなくなると、
人生を無価値に感じてしまうらしい。

人生は無意味である。誰かの言葉だ。
ここでとまってはいけない。

人生は無意味だからこそ、自ら意味を与えるのだ。
私はこう考える。
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