冷奴、いや冷たい奴だ。 [思考・志向・試行]

もうご存知かもしれないが、私は冷たい人間である。
別に自虐でもなんでもない、そしてそれを別段問題とも思っていない。

というか、自分がどう思われるかについて、年々どうでも良くなっている。
こういう所が、歳をとるメリットかも知れない。若い頃の自意識過剰さは
日増しに減るものだ。

ところが、世間では冷たいと思われるのが嫌だとか、
冷たいという事で「損」をするのが嫌だという人は少なくない。

他者の視線によって、行動を変えるというのは
人が群れで生きてきた証拠であり、もっとも大事な活動の一つである。
だからこそ、SNSなどで他人の動向を気にして一喜一憂する。

他人のまねをする事で、生き延びる率を上げる。
これはかなり正しい行動で、マネッコはちゃんと生き延びる。
がしかし、マネッコは大して得も損もしないというデメリットが有る。
何も起こらない、それが真似っ子の人生である。

とはいえ、波風がよいわけでもない。
私みたいに波風を立てて、ごちゃごちゃいうのは限られた人間だけに出来ることである。
そして、それはそもそもやる必要もないことである。


冷たい人間の私から見て、マネッコの方がよっぽど冷たいと思う。
もてはやされた人々がいる時に、彼らを目一杯真似したのに、BOOMがされば、
どうでも良いと離れていく。大いに冷たいではないか。

他人の真似をして、何かを得ようという人間は、根本が冷たいのである。

何かを成し遂げるために真似をするのは良い事だ。
だが、何かの評判を得るためにする行為に着目して真似をするのは駄目なことだ。
この違いはかなり大きい。


世間の常識からいえば、冷たい人間は損をする。
つまり、私は損をしている。だが、実害はない。

得られると予想される事が得られない。
しかし、そもそも得られると思っていなければ、損にもならない。
損に気が付かない。そういうことになる。

むしろ、温かい人間として見られるために、自分を偽り、
義務的行為にふける方が、損をしているだろう。そのために自分の心情を
歪める事になる。それは実に労力が大きい。

人々はこのような小さな心の労力にかかるコストをあまりに小さく見積もっている。
しかし、そのようなコストで得られる人脈や実際的な得があれば、良いという人もいる。
私にはそこまでして群れる理由を持たない。

端的に、冷たい人間であることで、得られることもある。
それは不要な心的なコストを減らせるという事である。
他者に惑わされずに済む。

他者の間で生きる事は、ヒトにとってとても重要だ。なぜならそのように
ヒトは出来上がっているからである。だから、多くの人の行動は最もである。

だが、私には他人が期待する事をする義理はない。
それを果たさないことで、損をすることを引き受けている。

他者が大事にしている人間関係を、私はどうにも信用していない。
おそらくは、幼少期の人間関係が影響を及ぼしているのだろう。

私には信頼に足る、年上の男性という像が存在しない。
基本的に、年上の男性というのは自分を利用しようと試みる人間である。
故に、私は距離をとる。利害関係の無い年上の大人に対してのみ心を開く。

よって、身の回りの連中は私を扱いづらいと思っているだろう。
つまり私をよく知る人間たちは、私を冷たい人間として認知している。
親しくなるという事が、他者に無遠慮になるというのが日本人のコミュニケーション
なのだが、私はそれを許さないからである。なぜ、そんなに無礼なのだろうと
常に思うのだが、日本の男どもは甘やかされているせいか全く理解できない。

一方で、私をよく知らない人たちは、私を良き人として受け入れてくれる。
私を利用する方法を持たぬ人々に、私はニュートラルに接するがゆえに、
私は文字通り、友好的な関係をとる。

我々に必要なのは、おそらく後者の関係性であろう。
前者の関係性とは、とどのつまり「家族」ないし「ムラ」のやり方である。

私が冷たい人間を甘んじて受け入れるのは、立場や状況によって
発生する行為にすら、疑義を挟むからである。

私は、役目を果たしている人々をみて、大変だなと思う。
そこには、ポジティブな評価はない。なぜなら、そうしなければならない理由など
皆無だからだ。そうしたくなければ、やめればいい。

だが、大抵の人は、特定の状況下での振る舞いを、コピーして再生する。
それを”成長”と呼ぶ。社会的な振る舞いは、結局、マネでしかない。

人間的成長という言葉は、最高に嫌いである。
生物がなんたるかをまるで知らぬ無知な人間だけがそんなことをいう。

そんなものを求めずとも、人間は勝手に歳をとり死んでいく。
それができようが、できまいが、五十歩百歩である。
結局、人間的成長とは、「特定の他者にとって利用価値のある学習効果」である。

立派な人間がいるという事もまた、おかしなことである。
立派さは、生存率を向上させるという生物学的な視点により、
価値は中立化する。

とかく無学な人間のみが、人間的成長などというのである。
では、私が礼を利用するのはなぜか。

それは偉さではない。それは生き延びるためである。

社会的常識を用いる事で、難を逃れる。
それ以上でも以下でもない。

多くの人間もまた、自己を守るために礼を利用する。
それが、いつの間にか、自己の利益を守るために行動するという誤解につながった。

挨拶をする。それは身を守る手段である。
挨拶をしない。別にそれでも良い。しかし、それで身の危険は増大する。
そういう事なのだ。

危険でもよければ、人間的成長などどうでも良いのである。

ラディカルに聞こえるかもしれない。
実際、ラディカルなのだと思う。

とはいえ、少しは、どうでも良いことに力を注ぐのはやめたらどうだろうか。
日本社会の息苦しさは、何事にも「正解」を求め、その「正解」をやらぬ人間を叩く事だ。
その正解がどれほど正しいというのか、そういう問は愚問として滅される。
そうして、物事は停滞し、まともな疑問も出てこなくなる。

そりゃ日本社会が停滞するはずである。

みんなが私のように冷たくなる必要はない。しかし、社会的順応だけが価値ではないと
知るべきなのだ。
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