ハラスメントの構造と選挙ー近視眼思考ー [思考・志向・試行]

今回、東京都知事はろくに選挙活動もしなかった小池氏が再選となった。
一体、どういうことなのだろう?

宇都宮氏や山本氏はそれなりに人気があったし、票を集めたはずなのだが、
開けてみれば、小池氏が圧勝である。元来、知事選については現職が強いと
わかっているが、今までの都政において何も貢献していない小池氏をどう評価すると
いうのだろう?

ツイッターに流れていたテレビ番組にキャプチャに、
こんなものがある。

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加えて
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都民は、そこまで小池氏を不正確に判断しているわけではない。
だが、なぜか今回も小池氏を選ぶ。その理由はなんだろうか?

公約などまるで果たせていないと理解している。なのに選ぶ。
次に、あからさまだが「弱者への共感のなさ」「将来像を描く力」といった政治家に
必要な要素がかけていても、選ぶ。

評価されている「リーダーシップ」があるや「発信力がある」「決断力がある」について
いえば、大きな誤解である。メディアの露出度が高いという事だけであるし、決断力とは、
豊洲の移転の事でも言ってるのだろうか? それともオリンピックの話をしているのだろうか?
小池氏はただ、長いものに巻かれただけである。それをリーダーシップなどと評価するのは、
妥当だろうか?

ある側面では単なる印象論なのだ。その印象とは「グローバル経済に阿り、弱者を
排斥する」という描像である。つまり自民党的であるという意味だ。経済を回す事優先で、
市中の人々の生活など気にもとめない。そういう人物が首長にふさわしいという異常性が
ここにみてとれる。

これはどういうことか?

第一に、こんかいの選挙が不正ではない事を前提としよう。
民間団体が、出口調査をすると時に、まるで異なる選挙結果を得ることがある。
それは特定の地域の偏りとみなすのか、それとも、サンプルの偏りとみなすのか分からない。
だが、明らかに不自然な偏りがあるケースがある。また、本当かどうか不明だが、同一人物が
書いたかのような投票用紙があるという疑惑もある。さらに集計方法が手作業ではなく機械が
導入された所では、その投票結果の操作など疑惑があり得る。

我々には、まともに選挙をされたかをしるすべがない。今回の都知事選もどれほどマトモに
行われたのか、私は疑義を持つ。0.1%程度の開票率で、当確と打った報道。どうにも胡散臭い。
この選挙のあり方自体が再度、考慮されるべき事であることは間違えないだろう。

さて、ひとまずこの問題は棚上げし、どうして「弱者を養護するような人道的な人物が
選ばれず、金を回す事を第一に考える人間が首長になるのか」を考えたい。


答えはこうだ。主だった投票者は高齢者たちである。50代〜70代。彼らが最大の勢力である
事は明らかである。そして、彼らの目的は現状維持である。現状を維持するためには何をする
べきか。目の前の生活維持のために、長いものに巻かれようとする。それが彼らのスタイル
なのだ。そして、それに一番合致しているのが、自民党政治なのだ。

経済を回して年金を確保する。そのために若者を搾取しても仕方がないと。構造上、
犠牲になるのは、一番利権を持たぬものたちである。金と社会的権力を持つ高齢者層は、
絶えず、彼らの利益を最大優先する。それのどこが悪いのか? 個人の指向性として
悪いとは言わない。だが、その本質は「悪」である。まるでアイヒマンがユダヤ人をゲットーに
送り込んで虐殺したのと同じ構造として「悪」である。

まず前提として、多くの大人は物事を深く考えない。いや、大抵の人は私ほど、深く考えない。
不遜な言い方を許してもらいたい。だが、事実である。それほどに人々は何も考えていない。
考えない人間の強みは、いくらでも他者を搾取できることである。構造的な事を考えられない
ので、目先の事だけに注意を払う。それが普通の大人である。

彼らは自分にとって利益のある事を求める。なぜなら、それが幸福の道と洗脳されたからだ。

もちろん、そうでない人々もいる。いまや絶滅に瀕している。イメージするのは田舎のおばあさん
たちである。彼女らは田畑を耕して生きてきた。地場産業に関わり、一次産業のにないでとして
嫁に入り苦労をしてきた。彼らの願いは基本的に平和な日常である。それは、近所の人々を含む。
そういう共同体における安定性を求めている。逆に言えば、そういう共同体ルールに生きるほかない
という苦労をしている。このような世界は地方で衰退の一途をたどっている。そして、このムラの
息苦しさこそが、若者が都会を目指す要因となっている。地方にうまれた若者は、その将来が
透けて見える。そこに済む限り、あの近所のおじさんが未来の自分であると認識される。そんなの
は嫌だと思う。そして何か変わるのではないかと、都会へと憧れ移動する。だが、都会で何を
感じるのか。

都市部では、まるで様相が違う。家族以外の他者は基本的にどうでも良い存在である。
友人ですら、利用できる時は有効に活用するが、いざとなれば、切り捨てる。
そういう関係性が主なものである。このような世界観において、共同体ルールは、成り立たない。

そして、頼れるものは金だけになった。資本主義社会はあらゆるものに値段をつける。友人や
彼女にすら値段をつける。そういう時代になってしまった。今まで気軽に行ってきた行動、
つまり親切やコミュニケーションといった無償の行為が、シチュエーションによっては
金になると分かった途端に、自分の行為をケチるようになったというわけだ。なんでタダで
それをやらなきゃならないの?と。

キャバクラやガールズバーが成り立つのは、お姉さんと話をするという事自体が価値があると
表明しているのと同じである。じゃあ、若い子が会社のおじさんと話をする時に何が起こっている
のか。彼女らは仕事以外に、コミュニケーションという仕事をしている事になる。会社の飲み会で
酒をつぐということは果たして、なんなのか? タダでやる事なのか? 当然そういう考えになる。

一方で、家庭でも同じ事だ。炊事や家事を代行するサービスはある。それらが売れると分かった
時、専業主婦は何を考えるのか。私の行為が経済的に対価を生むとして、なぜこれをやるのか。
家族だから? 子供はともかく旦那は他人じゃないかと。その対価を望むのは当然じゃないかと
思い始める。

彼氏とデートに出かける。その時に、おしゃれをして愛想を振りまく。そういう事が金になる
と知った時、それほど嬉しくもないデートに行くなら、対価がほしいと思う。そういう気持ちを
生じるようになるのはさほど不思議ではない。対価がないなら、わざわざ出かける必要がある
だろうか?

これらのことは極端な事だ。ここまで合理的な人はそうそうにいないだろう。自発的な行為は
存在しているし、対価を求めない行動もそこにちゃんとある。だが、対価という概念が浸透する
ほどに、なんで自分がそれをやらねばならない?と考えるようにはなるだろう。

共同体維持はなんのためか。それは巡り巡って自分のためである。それは自分の行為が地域の
共同体へ貢献するという実感と、実際にその思いが他者と共有されるという事実から生じる。
その条件として、同じ人がそこの場に居続けるという前提がある。田舎とは人間関係が固定化
される場所なのだ。だからこそ、共同体へのコミットに正の意味が生じる。

一方で、都会では、何のためにその行為を行うのか。コンビニに来た客は、自分の生活に関わる
だろうか? 常連になったとして、コンビニの売上以外の共同性は発生するだろうか。同じく、
道行く人々は、自分にとってどういう存在なのか。ただのモブキャラじゃないだろうか。こうして
共同体へのコミットは単なる無駄に思えてくる。親切にする事に何にも意義がないとしたら、
どうして親切にするだろうか? 客と店という関係の部分だけ、BtoBの部分だけに親切は集中
されればいいのであって、地域という共同体に関係する理由があるだろうか?

また、都会では職場と生活の場が離れている。離れているがゆえに、職場周辺の人間関係は
ほとんど希薄である。同じテナントビルの人々を一体何人知っているのだろう? 顔以外に
何を理解しているというのだろう? 四六時中同じような場所で過ごしていていながら、全く
そこに存在していないかのようにお互いが扱うのだ。そして、生活を過ごす場所では、休日
以外には存在していない。だから、子供が唯一の窓口になる。子供をつれてあるくこと、子供
が作り出すコミュニティーにのっかることでなんとか近所の共同体が駆動する。もっぱら母親
の役割になっている昨今、オヤジたちは、生活の場において共同を作り出すことは自助努力と
なってしまった。

さあ、もうおわかりだろう。地方ではもう、若者は土地の生活を引き継がない。だからこそ
地方の共同体は金を必要としている。地方税としての人口を必要としている。仕事を回すための
人手を必要としている。それらはもう夢のようなもの。唯一の希望は、金をつかって人に来てもらう
事だ。衰退していく共同体。自分の分身のようなものとしての共同体。それが無くなる事は自分の
存在意義を左右する。だから、その存続を願い、地方に金を回してくれる事を願う。

その彼らの願いを叶えるのは、かつての自民党である。今でも地方には田中角栄時代の流れに
よって作られた金移動の仕組みがある。それをせめて維持しようと自民党に票をいれるのだ。
もしくは、それに準じたものに票をいれるのである。地域を守るために。

都会では、他人に対して自分の分け前を与える事は、自分にとって殆ど無意味な行為である。
うまく行かない他人は、都会では努力不足とみなされる。なぜなら、自分がうまく行ってるの
は共同体のおかげではなく、自分の実力のためだと思いこんでいるからだ。そんな見知らぬ他者
に金を配るような人ではなく、自分らの利益のために行動してくれる人を選びたい。自分にとって
大事なのは、自分の会社の持続である。

自分の会社が持続するとは、日本経済が回ること。日本経済は4割程度、国の金で回っている。
だから、どんな民間会社にいようとも、国の金が巡ることは自分にとっての利益になる。ましてや
大企業が揃っている都会なら尚更だ。国の金がふってくる業界は多数存在する。結果として、
経済を回そうとする人間を求めるのだ。

そう、こうして、都会に済むものも地方に住むものも自民党的な政策を支持する事になるのだ。
近視眼的にしか物事をみない人達は、つねに現状維持を望む。現状維持こそが最低の選択肢に
なる可能性に目を向けることはない。それほどの思考もない。考えたくないし、考えることも
しないのだ。ましてや、自分の利益を減らして他者に貢献しようなどとはこれっぽっちも考えない。

もし考えてるのなら、安売りバーゲンに飛びつくような真似はしないだろう。
安売りバーゲンとは誰かが労働力のピンハネにあっているという事なのだから。
ようするに、自分たちの労働を自分たちで搾取しているのが、現代日本なのだ。

小池氏が当選するのは既定路線であった。それは仕方がない事でもある。


ここで、啓蒙主義的にもっと長期的視点で政治家を選べといったとして、誰が聞くのか。
経済とは弱者をどれほどケア出来るかで良質さが図られる。弱者を切り捨てるような経済は、
長い目でみれば、客を失い、売上をうしない、自分たちの首を締める。労働者が儲かれば、
消費者が増えるという当たり前の事実に誰も気が付かない。だから、売上を伸ばすためだけに、
労働者の賃金が切り下げられてきた。企業が潰れないようにである。そして、老人たちが死なない
ようにである。結果として、消費の少ない老人たちに金が集中し、経済は停滞した。

答えは分かっている。減税するなり、労働者の賃金をあげるなりして、消費を増やすことだ。
既存の産業を維持していくにはそういう方法しかない。一方で、国の関与を減らすことだ。
国が動かす金の4割で生きている人間というものを減らして、民間のまっとうな競争の中で、
経済をうごかせばいい。そうしたら、どうなるか、基本的には今までの既得権益者は貧乏に
なる。一方で、低賃金で過ごしてきた人々の給与は増えるだろう。不当な値付けが是正される。
私にはその方が良いと思うのだかどうだろうか。


自分が短期的に損になっても、長期的に社会が安定し、自分の存在が確かに共同体に
貢献するという社会のほうが、生きがいがあって良いと思うのだが、どうも現代日本では
そういう価値観は流行らない。ホリエモンのごとく、前澤氏のごとく、金をかせいだ人間の
価値みたいになっている。それは都会の論理に過ぎない。


では、どうしてこういう社会なのか。その一つの理由がハラスメント社会だからだろう。
日本全体がハラスメントで構成されている。ここでいうハラスメントとは安富氏の定義を
つかう。詳しくは、安富歩著「複雑さを生きる」を参照されたい。

親は善意によって、子供をハラスメントする。会社で当然のように社員にハラスメントを
行う。何をいっているのかわからないかもしれない。普通の人は、親や上司が小言をいうのは
当然だとおもっているし、そうやって躾けなければ、人生はまともにならないと思っている
からだ。もちろん、それは嘘だし、欺瞞に満ちているのだが、自分がそういう目にあっている
ために、それを否定できはしない。否定する事は自分の過去を否定する事になるためである。

子供の可能性を潰すのは基本的に親たちである。現代社会にフィットするためだけに、親は
子供を操作しようとする。自分の求めているように振る舞うように仕向ける。子供らは、
その結果として、「親が望まないように考えたり、行動したり、感じたりする事は悪なんだ」と
学ぶ。つまり自己嫌悪である。そういう感情が芽生えたら、自己嫌悪するように仕向けられて
しまうのだ。そして、親の言いなりになってしまう。親が望まないことをすることを恐れる
人間の誕生である。

同様に学校や、会社でも同じ事が起こる。会社の内部では、おかしなことが繰り広げられる。
そして、このようなハラスメント受けた子どもたちと、上司たちの間においてのみ成り立つ
関係の上に仕事推し進められる。このような人間たちの主たる行動パターンは、流行に流されろ
であり、長いものに巻かれろであり、それ以外の事は批判されるべきだという信念である。

これが昨今の不倫報道への過剰なまでのバッシングであり、ネット上の暴言の源泉である。
自分が異常であるとは、理解できないのも、このハラスメント社会が存続する要因である。

今回の選挙で、桜井氏がほどほどの得票を得た。その意味は、弱者たちの支持である。
ハラスメントを受けた子どもたちは、なぜか、極右的なものに染まる。ハラスメントの極地
のような思想に親和性があるためだ。ハラスメントの結果として、世間が是とするものを
絶対視するという愚かな考えを持つに至る。パターナリズムに陥るのである。自分の考えを
持つ事が、彼らにとっては罪なのだ。だから、自分で物事を考えてる人間を敵視する。
なぜなら、自分で考えて行動することを親からバツとして教え込まれたからだ。

彼らは日本という単位に意味を見出そうとする。それについては誰も批判出来ないことを
知っているからである。自分が日本人であるという事に唯一の価値を見出す。田舎でも
都会でも、自分の立ち位置を確保できなかった人間が、心の拠り所に、日本という概念を
選んだわけだ。

弱者は明らかに、日本社会から排斥されている。少なくとも歓迎されていない。
ハラスメントを受けているという点において、排斥を感じている。一方で、自分を歓迎して
くれる共同体を求めている。その共同体に何の努力もなしに入れるのが、日本という単位
である。これを利用してのさばっているのが、大阪維新であり、ネトウヨである。このような
思想性に染まる人々はごく一部なので、さほど心配していなかったのだが、どうも危険を感じる。

これはネトウヨといった少数だけの問題じゃない。
ハラスメントは、一般的な人々全体に及んでいる。

日本社会がハラスメントなのだろう。私は世間が押し付ける規範に脅威を感じている。
まっとうに物事を考える人間ならば、日本社会に適応するのは困難であろう。どう考えても
不自然な社会なのだから。

人の本質は他者との共同である。それなのに対立を煽る。わざわざ他人と対立することをやらせて、
それでいて他者と協力するというのは、単純な人々にとっては無理難題である。結局、対立し
競争に勝ったと思うことで、利益を自分の手にするという単純なストーリーに身を委ねるのだ。
まったく下らないのだが、それを誇る人間で日本社会は溢れている。そして、やぶれた者共は
その元々のスタートラインの不公平さや、そもそも対立することに無意味さは考えもせず、
自分が勝てるフィールドを見つけて、自分より弱いものをいじめることだけを考える。

こんなふうな世界観で、まともな子供が変にならないほうがおかしい。
苦しむ若者がいるのは当然至極である。そうならないのは、競争に勝てるだけの能力をもって
生まれた人間たちと、そういう人間たちが構築した不公平な社会に阿る事で生き延びる人々
だからだ。

子供は協力しようとし、共同しようとする。なぜなら、それが人間だから。だが、それを
阻害される。阻害された結果として、恨みをもつ。これがハラスメントの源泉である。
多かれ少なかれ、日本人は世間からハラスメントを受けている。

その結果として、長いものには巻かれろという事大主義が蔓延する。自分がなにか物事を変えられる
と信じられないがために、ならば自分に有利なものを選ぶ、有利になる立場を選ぶ。

そういう事の結果としての選挙結果なのだ。地方の欲求と、都会の欲求の兼ね合いが、
小池なのだ。

その近視眼的な選択により、状況はさらなる悪化を招くだろう。
コロナによって、経済的体力のない人々が失業していく。社会はそれをサポートせざるを得ない。
自助努力という名の見捨てが横行するだろう。社会が不安定になれば、犯罪も増えるだろう。
その反動で、社会的な行動制約が増えるだろう。この行く末は、中国共産主義的な政治体制
である。

まったく民主主義が聞いて呆れる。私には選挙のたびにそう思うのだが、誰も深く考えない。
それがもっとも怖いことなのだ。

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