大人たちの欺瞞ー子供らの正義ー [思考・志向・試行]

https://d-blue.blog.ss-blog.jp/2013-03-15

かつて、ゴッドファーザーについて述べたことがあった。
彼らは「仲間」を守ることに関しては、法をも越えていく。
その守備の範囲が、面子にまで及んだ時、彼らの行為は何でもありに変わる。

本来とるべき責任を放棄し他人に押し付ける事や、ルール上本来出来ないことを可能にする事。
マフィア連中は、これらを暴力を後ろ盾にして可能にする。そこに欺瞞があることは
わかった上でやる。なぜなら最優先されるルールは「仲間を守れ」だからだ。そして、
そのルールを逸脱し、社会的ルールを持ち込もうという人間を粛清する。世間の法律など、
くそくらえというわけだ。

「レ・ミゼラブル」という映画を観た。ラジ・リ監督の2020年の作品である。
ビクトル・ユーゴーの有名なミュージカルではないので注意されたい。

この映画は、とある警察官が今のパリ郊外、モンフェルメイユに赴任する所から
スタートする。この地域は移民が多く、貧困層が暮らしている。様々な地域から
人々が集まっている。そのため多くの犯罪が発生し、その犯罪を取り締まる警察官も
その対応に苦労しているのだが、そこに暮らす一人の少年が犯したいたずらから大事になっていく。
そういうストーリーである。

下記、ややネタバレに注意。

事件を解決しようとするなかで警官たちはヘマをやらかす。そして、それを地域のヤサグレども
を通じて隠蔽しようとする。よくある貸し借りである。暴力装置同士は親和性がある。そのような
話はごまんとあるだろう。ヤクザものと警官のもっともたる違いは誰を仲間と呼ぶかの違いに
過ぎないのだ。

大人たちは最終的に子供にその隠蔽を押し付ける。そうして、今回もヘマを隠蔽できたかに
思えた。だが、これが最終的に反発を招く要因となるのだった。

さて映画についてはもう脇に置こう。
大事なポイントはこの欺瞞についてだ。本来であれば、責任をとるべき人間がその責任を
回避し、誰かに負わせる。その強制を暴力ないしは権力を通じて行うこと。これが現代の
社会に大きな影響をもたらしているのではないか、私はそう考える。

大人だって完璧ではない。しばしば間違えを犯す。その時にルールに従い責任を負うべき
なのだが、その責任を逃れるために権力を利用することがある。「自分は悪くない」と
主張するために「誰かを犠牲にする」わけだ。そのお手本のような話がゴッドファーザー
である。そして、レ・ミゼラブルの警官たちである。


本来、責任とは権力とオモテウラの関係にある。権力という言葉がいやならば決定権でも
いい。何かを決める人達は、決める事の責任を果たす必要がある。決めたことで問題が生じたら
その問題解決に対する責務を負うわけだ。だからこそ、長という人々はやみくもに物事を
発動しない。

ところが、上記のように権力者たちは、往々にして持てる権力を振り回しておいて
何か問題が生じると、さらに権力を振りかざすのだ。責任を放棄し、その責務を権力によって
隠蔽しようと試みる。結果として、弱い人間がその犠牲になる。こういう事がしばしば生じる。

この現象の発生原因は、決定するものはたいてい暴力装置の発動者でもある事だ。この2つは
昔からセットである。そして、この2つがセットであるがために、問題もいつもここから生じる。

権威あるもの、時の支配者たちは、つねに物事をうまくなさんとする。
だが、人なのだから失敗する。どうも権威というものはこの失敗をうまく扱うことが出来ない。
失敗を認めないという態度に出る事になる。失敗部分を権威・権力によって
なんとかしようとするわけだ。そして実際的になんとかしてしまう事がある。これが一度
発令されるともう後戻りは出来ない。この責任回避の欺瞞は、次なる問題を生じる。
なぜなら、人々の間に強い違和感をもたらすからだ。それは結局、不審につながる。

互いを不審に思うようなれば、そこに緊張感が生まれる。そのテンションはなにかの
きっかけで暴発する事だろう。その結果、誰にも止められない暴力が連鎖していく事になる。


そう、まさに歴史はこの事を教えてくれている。権威者は失敗をしないという面子問題が、
今までに多くの悲劇を生んできた。そしてその悲劇は恨みを成熟させたのである。

何も歴史に限らない。今の安倍晋三内閣だって、たびたびこの欺瞞を発生させている。
安倍らは権威を発動し、本来あり得ない形でルールを逸脱した。自分の面子のために、
実行させた政策決定。それは「総理大臣である私は行政に関して何でも出来る」という
奢りである。国有の土地を格安で業者に下ろす、本来の規模を越えたパーティーを税金で
主催する等々。今の広島議会への賄賂問題も同根だ。すべて、他人からの要求にいい顔を
しようとする事で生じたのだ。腐った権力者のちっこい尊厳を守るために。

稚拙な首相はおそらく何考えていない。おそらく気心しれた人(正確には利用しようと
群がってくる人々)から要求があったのだけなのだ。「人の良い」安倍首相は、それらを
実現しようとしただけなのかもしれない。軽い気持ちで「土地を安くうってやれ」とか
「地元の世話になっている山口の後援者をたくさんよんでやれ」とか、「あいつ気に食わ
ないから別候補を立てて追い出そう」とか、自分や自分の周りのニーズに、首長権限を
最大に使って応えたわけだ。

本来なら、官僚たちはそんな事はできませんと応えるべきだった。いや多くの官僚たちは
出来ませんと言ったに違いない。そしたら、自己愛性人格障害を抱えている首相連中は
憤怒したのだろう。「自分は首相なんだぞ」とか「大臣なんだぞ」とか腐った連中が考え
そうな事だ。そうして、それならばと内閣の人事権を振りかざすことにしたのだ。

元来形式的なものだったはずが、本当に権力を振り回す。人事をちらつかせ、自分たちに
都合の良い人間を登用し、都合の悪い人間を排除する。これをあらゆる官僚ポストで
繰り返した。あのNHKに対してすら振り回した。こうして、自分たちの都合を押し付ける
事に成功してしまったのだ。官僚にもおバカがいるという事である。

こうして、「首相は偉いんだから、いうことをきけ」という馬鹿げた論理が通ることになり、
その無理を官僚組織が引き受けることになった。だが、当然のようにルールを逸脱する。
ではルールを捻じ曲げるのか? いや官僚にはそこまでの権限はない。ならば、ごまかす
しかないではないか。そうして、数々の誤魔化しが生じたのである。

こっそりとやったはずの数々のワガママ。そのワガママはリークされる。なぜなら、
そこに大いなる欺瞞があるからだ。そしてその欺瞞を背負わされた人々がいるからだ。
背負わされそうになって、抵抗した人物の代表は文科省の前川氏だろう。だが、そんな風に
反発できる強い人はそうめったにいるものではない。みんな生活を人質に取られている。
クビになったり左遷になったりしたくはない。ならば、汚れ仕事もする他無い。

しかしながら、これが発覚するとどうなったか。都合の悪いことをやらせている側は
口裏を合わせ、責任を回避する。そしてその責任を誰かに押し付ける。一体、何人が
死んだのだろう。そして何人が牢屋に入るのだろう。

ヤクザたちは、法を犯す事を前提に行動する。だから、はじめから罪をかぶる人間を決めておく。
そして罪をかぶらせることで、責任を回避する。またかぶった人間を重用する。こうして
仲間内の結束を強めるとともに、足抜けしにくいように仕組む。なかなかうまく出来たルール
である。

安倍とそのお友達は同じ論理を官僚たちに対して行う。官僚たちはその「立場」の安堵のために
指示されたことを行う。だが、社会ルールにより自己欺瞞を生じる。そして、そこには指示をだした
ものへの恨みが生じている。ヤクザと同じ様に役立った者は登用する。一方でヤクザと違うのは
実行部隊は切り捨てる点である。実働の官僚は罪を被せられて排除されるのだ。これに絶望した
官僚は一体どれほどいるのだろう。それとも、いまや、慣れてしまったのだろうか。

自分たちのワガママを権力を使って実現するというだけの事に、日本中の行政がつきあわされて
いる。その一端は「アベノマスク」をみれば明確ではないか。また、持続化給付金の不審な金の
流れをみれば明らかであろう。そこに欺瞞があり、それをやらされている官僚たちには恨みが
生じているはずなのだ。


さて、日本の愚昧さはこの辺にして、視点を再度映画に移そう。
結局、権力を振りかざす人間は人格が陶冶されているべきなのだ。でなければ、ただのご都合
主義になる。責任をとるべき人間たちがそれを回避する事は、大きなモラル・ハザードである。
そのモラル・ハザードが社会全体に浸透した時、社会は不安定化する。レ・ミゼラブルは
まさにそれを表現していた。そうなってしまったら、個別の善悪などどうでも良くなってしまう。

悪と知ってなお、権力者に付き従うならば、アイヒマンとどう違うというのか?
ハーレントが指摘した凡庸の悪とはまさに、そういうことだった。
個人は一体、組織の反社会的行動にどう立ち向かえばいいのか。
結局、誰にもわからないというニヒリズムだけが残るのだろうか。
これについてはもっと熟慮が必要なのである。


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