生きることー「希望のしくみ」より [思考・志向・試行]

養老氏とスマナサーラ氏の対談本であり「希望のしくみ」をパラパラめくってみた。

結局、日本人はいつのまにか共同体を失い、居場所をなくしてしまったらしい。
仕方がないのでそれを家族に求め、それで安心する人々で溢れかえってしまった。
自由とは実に不自由なのだ。結局、誰かの真似をする他無い。

人生とは、希望の事だ。
では希望とはなにか。

決して大金が手に入る事じゃない。
むしろ、金が入るということは何かしでかしているわけで、その精神的対価は大きい。

とある小学生が坊さんに聞く。「人生の意味とは?」
その坊さんはいう「まずは自分が楽しみなさい。そして、周りの人を楽しませなさい」と。

およそこれで十分であろう。人生の意味とはそういうものだ。
そして、意味を与えるのは自分の信念ではなく、神でもなく、周りとの関係である。
それがサルとして生まれた我々の本性なのだ。個人で完結する事ではないのだ。

多くの人は行為に見返りを求める。その感性がそもそも可笑しいのだ。
自己犠牲というのは本来的にはあり得ない。自分がやりたいからやっているだけのこと。
他者をなじる人はよく覚えておくことだ。その行為は自己満足に過ぎないのだと。

例えば、子供に勉強しろと強制する親。よくあるのは子供のためという言い訳だ。
そうじゃない。この場合、親の願望を子供に押し付けている。この欺瞞が子供には
気持ち悪い。これは旦那にとっても同じこと。家事をやらせているという事がめぐって、
損得の感情を生み出す。貸しがあるかのように感じた旦那は家庭から遠ざかるだろう。
居心地が悪いのは当たり前だからだ。

自分が犠牲になって良いことなどなにもない。必要なのは他者への貢献感だけだ。
それ以上でも以下でも、おかしなことになる。日本ではすぐに貢献というと生活のあらゆる
面をコミットする事を要求する。それは変だ。個人ができる事をやりさえすれば、それで
十分である。個々人のさける労力で他者へ貢献すればいい。そういう事が希望である。

昨今は、とにかく損得で物事を考える人々が増えた。それは多分に、要求過大だからだ。
これくらいなら、という要求は案外困難である。ところが頼む方は簡単なために、いくらでも
頼もうとするし、それが金さえ与えれば実行されると思っている。むしろ金がいくらあっても、
実行されない事の方が多いというのにだ。

知恵は金では買えないという当たり前の事実を日本人は忘れてしまった。
ましてや、真なるイノベーションには、金など関係ない。むしろ思想こそが重要だ。
それはどう生きるかまでを含む事になる。

日本人はとかく大事なことを他者に預け過ぎているのだ。
そして、世間がいう「正しい生活」を過ごすことで心の安寧を図ろうとする。それが
どれほど悲惨でも、それを維持する事に全力を注ぐ。だがそれは金ではどうにもならない。
ただひたすらに時間をかけてコミュニケーションし、関係を育てていくしか無い。

希望がないと言われて久しい日本。
でも、人々がそのなけなしの良心をほんの少し出して、周りを楽しませたら、
それで十分に豊かな国になるはずなのだ。

それに対して大きな対価を求める人間ばかりになってしまったのが最大の問題なのだが。

結局、世の中なの偏執なまでの不平不満とは、自分への見返りが自分の想定しているものより
小さいところからスタートする。むろん、不正なことや悪についての不平は公にすべきである。
だが、実際の不平不満は大抵、自分の扱いが軽いという事程度の事に過ぎないのだ。
自分をきちんと処遇してもらいたいという感覚。結局、自分の存在を肯定してもらいたい。
ただそれだけなのだ。

ならば、まずは他者に善を施すしか無い。それをすっかり忘れている日本人たちなのだ。
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