乗り越えられない壁ー生活ー [思考・志向・試行]

仕事がいきなりなくなるとなったら、あなたはどうするだろうか?
きっと、開口一番「困る」という事だろう。その理由はひとえに金だ。

金は、金と書くがこれは語弊があるので、カネと言い換えよう。
もはやカネは金ではない。金属であった頃の名残はない。今はただの信用に過ぎず、
妄想的存在である。人々がそれがあると信じるから存在しているもの。それがカネだ。

さて、経済社会では、このカネがものをいう。とにかくこれがないと生活が成り立たない。
そういうふうに社会が組み上がってしまった。すると人々の欲求はこれをどうやって、
手にいれるのかである。

かつてはカネが今ほどいらなかった。モノがさほどなかったからであり、モノが大量に
生産できなかったからである。だが、今は違う。モノはそこかしこに溢れ、カネさえあれば、
手に入る時代になった。そして、カネはモノだけではなく、いろいろな点で利用され始めた。
一つには、優れたものの尺度である。優れたものはカネがかかる、もしくはカネを大きく動かせる。
そういうイメージである。

これによって、人々はますますカネを手に入れようと必死になっている。
ではどうやって手に入れようか。多くの人は労働を売ることで手にいれようとする。
それが一番単純だからだ。しかし、それは従属の世界への入り口でもある。
一度足を踏み入れると、次から次に絡め取られ、身動きが取れなくなる。そういう仕組みだ。

家族をもつと、多くの人はローンを組む。特に家だ。
家族を養うという意味と家のローンを払い続ける。これが一種のワナになっていて、
人々は簡単に仕事を放棄できなくなる。何しろ借金の額が大きい。その一方で、自分の稼ぎは
単調増加もしくは停滞でしかない。それが雇われの限界である。だから人は、できるだけ大きな
額を提示してくれる場所を探すし、そういう場所であると始めからわかっている大企業を目指す
わけだ。その理由はカネである。そして、それに付随する優れたというイメージである。

一方で、社会には倫理というものがある。その倫理は様々な社会的な作用によって生まれている。
もっぱらは、仲間内のルールといったものだ。そのルールにおいて倫理が決まる。他人のものを
奪ってはいけないというのは現代日本のルールの一つである。難しく言えば所有権である。
とりわけ私的所有についてはかなり厳重に守られている。

不思議だとは思わないか。店に陳列しているときは、店のもの、つまり他者のもの。ところが、
一旦、カネをだして交換すると、途端に自分のものに変換される。この所有の感覚こそが、
現代人を支配しているエートスである。この感覚は必ずしも常に発揮されるとは限らない。
とりわけ、持ち運びできないようなものについては。

土地を所有するとか、債権を所有するとか、何を意味するのだろう? 原則的には、土地は
みんなものだ。債権とはみんなの頭の中にある概念だ。どちらも持ちようがない。だが、人は
そこに実在を作り出し、あたかもその権利が存在するかのように振る舞う。誠に不可思議だ。

さて、カネによって所有できるとわかった人間はとにかく欲しい物をカネで買おうとする。
そして、カネを労働によって得ようとする。すると、仕事こそが重要であると思いこむ。

仕事とは本来、誰かの必要という事であった。そこにどれほどの対価があるかは別問題。
誰かがやらなければならない事柄、それが仕事だったのだ。ところが、人が余るようになった
結果、仕事を作り出すようになった。意味がない仕事でも、意味があると思わせるように
言説が酷使された。そうやって仕事をしたかのようにみせ、その結果として、カネを得る
ようになった。高級な仕事とはもはやそんなのばかりである。誰かの役にたつよりも、
仕事をしているかのようにみせる。だからこそ、演出が過剰になり、大量の書類を用いる。
それでも、カネを得られるのだからと、無意味な事を続けていく。

カネに人生を売ってしまった人は、どんなことがあっても仕事をやめられない。
ましてやアリバイ作りのような仕事ばかりしていた人は、よそに移ろうにも何も武器がない。
結果としてますます仕事にしがみつく。仕事は命綱にいつしかなってしまったのだ。

こうして、ブラックだろうがなんだろうが、そこにいる他無い。多少の理不尽いや相当な
理不尽でも、とどまり続けようとする。残業だってする。上司の機嫌取りだって必要ならやる。
そうやって魂を売ることで、カネを確保する。

その何が悪いか? いや何も悪くない。人の好き勝手の事だ。

だが、問題は仕事の性質が変わったときの事だ。自分の組織が会社ぐるみで行う非倫理的行動。
たとえば公害だ。社会的に見れば悪でも、自社からみればそれが善である。これをまともに受け止める
と心が引き裂かれるはずだが、そうならないために、社会的な悪には目をつぶる。東京電力の
福島原発の事故のようなものだ。そして、自社の善のために原発を動かし続けるわけだ。
その心は、カネである。それ以外に社会的に不毛な仕事が続くはずがない。

自分の仕事が悪につながっているとして、それをやらないという選択肢は生殺与奪を
奪われたローンを抱えた労働者には出来ない。そして、悪と知りながらも「仕方ない」と
言い訳をして仕事をし続けるのだ。放射線物質を垂れ流しても、仕事をし続ける東京電力のように。

この状態の人を私は軽蔑する。どこにも良いわけなどありえないからだ。
ましてや、問題事象から目をそらし、批判にあったら、むしろ開き直るような態度。
どこにも酌量の余地はない。ただの悪人である。

そして、大抵の社会悪は、ただの悪人から生じている。つまり、ただの凡人の「仕方がない」
によって生じている。悪とは凡人の現実逃避の蓄積の結果である。そして、自らがカネの
奴隷になったくせに、自由にしている人をみると、嫉妬で怒り狂うのだ。

自ら乗り越えられない壁を構築した。そして、その壁の中からいろいろ叫んでいる。
出られないのは、私のせいではない。だから私は悪くないと。

愚かな群衆とはこのことだ。悪いことをする人間は悪いやつに決まっている。
ただ、そのようなシンプルなことがものすごく軽視されているのが現代なのだ。
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