ヘイト本ー寛容と不寛容 [思考・志向・試行]

ヘイト本に関する本を読んだ。

そこに展開されていたのは、出版業界の仕組みと、出版社の問題だった。
資本主義の論理に翻弄されているために、ヘイト本が必要となる。これが結論だ。

短期的な売上を考えると、ビックリ本をだして話題となった方が良い。
耳目を集める事がそのまま売上につながる。これは大前提として読者側の知性の低さがある。
自分に必要な情報を得ようというより、他者が読んでいるから、どれ俺も読むかという
行動である。まるで主体性がない。そのうえ、扇動されている主体がヘイト本を読めば、
そうだったのか!など無批判に受け入れてしまいそうな事は大いに有り得る。

こうして中身の薄い本を作ることで売上を伸ばそうとする出版社。
結果、売れたヘイト本に類似なものを作り続けることになる。
彼らの言い訳は、両論併記であり、表現の自由である。ヘイトもまた表現だといいたいのだ。
出版業界は、明に暗にこのようなヘイト本も売上という事のために黙認する。
要はアイヒマンと何も違わないのである。凡庸の悪だ。

ヘイトなんかしないよという出版人でも、ヘイト本を作る仕事をする。
その大いなる欺瞞に目を逸らす。自分の主張ではないと前置きをする。
そうやって、不寛容な思想をばらまく手伝いをする。これは批判されるべきことだ。

金のために何でもやる。あっそうですか。という感じである。

それは自分がいきなり殺されても文句を言わないということと同義であろう。
犯罪とは金のために何でもするという事である。それとどう違うというのか。
ヘイト本が悪であるとわかっているが、短期的利益のために出版するなら、
同じ穴の狢である。

こうして中身の薄い本が売れると、その類似本が増え、ますますヘイト本によって
棚が埋まっていく。そして、簡単に扇動されてしまう一部の人々がそれを信じたり、
内面化する。不寛容が蔓延するというわけだ。

ツイッターでも、不寛容な話題がなんどもリツイートされる。
むろん、一人が何度もリツイートしている可能性もあるし、商売の可能性すらあるが、
それでも、それを実行することで何かを訴えようとする人間がいることは確かだ。

その心はなにか。それはひねくれた心情だろう。
不幸なのだ。心があまりにも腐ってしまったために、自分は凄いという枠組みに
入りたくて仕方がないのだ。

いま、ヘイトに加担する人々は2つのグループがある。
一つは40代を中心としたネトウヨ。もう一つは、60代、70代の団塊である。

ヘイト本を買うのはもっぱら老人たちだ。若者が扶助した年金でヘイト本を買っていると
思うと落胆も甚だしいが、彼らはアメリカに抑圧された卑しい根性の人々である。
アメリカに認められたいという浅ましさと、欧米に今度は経済で追いつくのだと仕事だけを
してきた人々である。それがどうだ。かつての日本は単に人口ボーナス期だったに過ぎない。
かつてのピークをまだ引きずっている。それが今の日本だ。

ヘイト本の購入者は、テレビの視聴者でもある。
テレビはどんどんと日本礼賛番組を増やしている。オリンピックなど張り子のトラのような
イベントもまた、そのような思想を蔓延化する。その元凶として安倍政権がある。

自分たちは凄いんだという幼児的自己愛感情。すごくなくてはならないという強迫観念。
このような心境が内面化されていたがゆえに、経済活動だけに没頭する人間たちが生まれた。
そして社会をあげて、そのような行為を是認していた。だが、もうフェーズが変わったのだ。

現実と自己イメージ乖離。これを老人たちは埋めようとする。それを埋めてくれる言葉に
すがろうとする。それがヘイト本であり、自己自慢なのだ。地元から有名スポーツ選手が
出てくれば、あたかも以前から応援していたかのように、まるで知り合いかのように振る舞う。
そういう安易な自己同一化が、高度成長期には役に立った。だが、現代はそういう思想は
むしろ害である。

自分という個人において中身がないために、他者の努力や運の結果にすがろうとする。
浅ましいとしか言いようがない。自分を自分の行動で肯定できない人間たち。それがヘイト本
を購入する老人たちの心境である。他者を貶めて、自分をもちあげる。まさに足の引っ張りあいだ。
その典型は安倍政権であるし、まさにそのような老人たちである。不幸な人々である。
自分たちが努力し、より良い生活、社会を作り出そうというより、他者をけなすほうが安易に
自分たちを肯定できるからだ。

一方で、40代あたりのネトウヨたち。彼らの内訳は2種類だ。一方には若年の高学歴ネトウヨ。
一方には、無教養・無知性の持たざるネトウヨだ。

高学歴ネトウヨの論理はごくごく単純で
「自分は努力した。だから今の現状がある。弱者は努力不足である。」という思想である。
受験勉強という競争を強いられた人間は心が歪む。歪んだ心に入り込むのが、見下しという
事柄だ。自分は勝った人間だという傲慢さと、たかが20程度の頃の学力が、人生を決めると
思い込むだけの愚かさがある。努力した人間が相応の対応を受けるのは当然だと思うがために、
弱者に対して容赦がない。アリはキリギリスをいじめるという図式である。

他者に洗脳された「受験戦争」という事実に気がついていないあたりに、頭の悪さを感じるし、
それを内面化したという事実にも気がついていない。このような人たちは組織に属すると、
相変わらず、競争を始めようとする。実社会は当然、受験とは違う。個人の能力だけじゃない。
人のトータルの有りようが評価される。だから、会社への貢献など以外に人当たりの良さとか
他者と協力的かなどの異なるファクターが優先される。だが、受験勝者はそれを許容できない。
自分のほうが仕事ができるのに、なぜ評価されない?と愚痴る。それは人間的魅力が足りない
のだが、単一の度量衡で人生を生きてきた彼らは不公平だと文句を言う。

加えて、自分たちの能力は自分たちの利益にのみ貢献すると勘違いしている。受験競争を勝ち抜く
技量は自分への投資であり、その投資の見返りは自分にまずは返されるべきだと強く信じている。
このような人々が組織に増えると、損得人間だらけになる。大企業は、高学歴者ばかりを採用した。
その結果どうなったか。損得勘定ばかりの人間組織に、創造的なことなどできるはずがない。
度量衡で測れるのは、正解がある場合だけだからだ。新しいことを評価する軸などありはしない。
そうやって、保守的な人間だらけになっていく。それが巨大な組織の官僚化である。

彼らの一部は弱者に対し批判的である。そして、その弱者が彼らが身分不相応の利益を得ている
と聞くと、聞き捨てならないと思うのだ。在日の話や在日の特権、生活保護などに強く否定的な
態度をとることになる。それは、自分たちの存在否定だからである。ましてや自分たちが努力に
相応の対価を得ていないと思っていたら、尚更だ。弱者とみなす人々が不当に利益を得ていると
感じる人間は、逆に言えば、自分が努力したのに対価を得ていないと思っているわけだ。そして、
自分の努力が否定されたように感じるがために、弱者の状態を避難しようとする。それが高学歴
ネトウヨの実態である。実に浅ましい。

心が歪んでいるがために、他者を同じ仲間だと認識できない。むしろ他者はリソースだと
すら思っている。そういう人々がヘイトを肯定する。サッカーチームがあって、敵と戦うとき、
味方がミスしたら、困るだろう。ところが、ヘイトな人々はそれを喜ぶのだ。アホらしい思想
である。仲間を仲間だと思えない点に最大の問題がある。しかし、それは洗脳されてしまっていて
なかなか解きほぐす事ができない。加えていえば、自分が異常なのだとすら気が付かないのだ。
周りがみんな異常だからである。

このような不寛容な人間たちの思想。社会という場においては、不寛容は寛容できない。
それを寛容することは、表現の自由ではない。誰かを攻撃することを表現とよべるのか?
私がこうしてネトウヨ批判をするとき、これ自体がヘイトではないかと批判されるのか?

駄目なものは駄目。私の良心からみて、公然と他者を貶めるヘイトはありえない愚行である。

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