好意の返答性ー女性のアプローチ [恋愛]

仏教の本を読んでいたら、これはひょっとすると恋愛の話にも通ずるのではないかとひらめいた。

それは好意の返答性である。
あたりまえだが、誰かから「いいね!」とされたら、その人物に好感を持つだろう。
その当たり前が、男女の間にも当然現れる。ところが、日本の女性はそこを間違えていると
思うのだ。

よく、男が誘って女性が選ばれるという図式が問題視される。
その割には、相変わらず女性は選ばれる事を目指し、男が能動的になるという規範を
維持している。鳥などをみればよく分かる図式ではある。

雄の鳥は、鳴いてダンスしてなんとか雌の気を引こうとして頑張る。
そうして、ようやく求婚が成立する。確かにそうだ。では、人ではどうなのだろう?

一生懸命求婚することは、悪いことじゃない。
だが、知性をもつ人間は、それだけではどうにもならない事も知っている。

一般にみれば、女性の好みは、造形美から徐々に経済的安定に移る。
よって、繁殖戦略は単純に、若いときはイケメンに走り、歳をとると金持ちに走る。
こういっては身もふたもないけれど、これが統計的に見れば事実なので、それを批判
しても仕方がない。

そうして、現実はその中間的なものになる。つまり、大概はこの亜流に落ち着く。
でなければ、こんなに多くの男女のがパートナーとはなりえないからだ。
どこかで、理想とは異なることを含め、良しとするという事になるのだ。

昨今のパートナーがいない問題は、まずは男女ともに理想から降りられないことにある。
自意識過剰な若者が、理想にだけ恋愛を求めるのは致し方がない。それはつくられた心地よい
偶像を愛することなのだが、それは偶像であるがゆえに、リアル以上の造形が生み出される。
よって、偶像的な恋愛を求める限り、リアルな恋愛にはなり得ないといえる。なにしろ、
現実はもっと下世話だからだ。こうして、オタや腐女子は、理想像にはまり込む。

もちろん彼らも理解している。だからこそ、それはそれ、これはこれと分離可能な
文脈を生きる人達もいる。とはいえ、どこかで偶像崇拝をやめられない。それは
ある意味で健全であるが、結果としては不健全である。かつては現代ほどの偶像を
拝める時代はなかったということであり、現在はとにかく人々の欲望を満たす装置が
発達しすぎたのだろう。

この頭で考えた理想像に振り回されていると恋愛ができないという点はひとまず
クリアーしたとしよう。次に待つのは、実際の出会いと交流である。

今日問題にしたいのは、ここだ。
人々の多くは見栄で生きている。でなければタワーマンションも売れないし、大企業だって
儲からない。何しろ、生活はユニクロや六畳一間でも可能なのだから。残りはただの見栄。
その見栄というのは、承認欲求と考えられている。他者から認められたいのである。

人々はそのために、実に労力をかける。みすぼらしいと思われたくないと。
それがエスカレートしたものを文化と呼んだりする。見えであるという事を誤魔化すためだ。
小さな違いをもって、他者と差異を構築し、その違いに価値を見出そうとする。
そうやって、自分をユニークであると承認してほしいのである。そのような承認欲求を
強く持つほど、見栄をはらなければならない。

さて、この承認欲求が恋愛において発揮されるとどうなるのか。
その一つが、女性の好意的拒否である。

子供はよく、いたずらをする。またときに、親が嫌がることをやる。
それはつまり、承認欲求である。こっちに注目してほしい、寂しいと説明できない子供は、
自分に注目させる術として、悪い子になるのだ。良い子になるだけが親からの注意を得る
手段ではない。ある意味では怒られるということすら、愛情として受け取る。それが子供だ。

女性が男性の誘いを断る。冷たくする。実は好意があるがゆえに、そういう振る舞いに出る。
承認欲求の低い女性は、しばしばやりがちである。自分を高く見せるためとまではいかずとも、
あんまり簡単に誘いに乗るのは、軽く扱われてしまうと思うからだ。そうして、男の本気度を
測ろうとしている。

多少はそういう行為も意味があろう。誰で彼でも声をかけるような男から距離をとるには
いいかもしれない。しかし、もっと実直な男にも、同じ事をするのであれば、間違えが起こる。

勇気を振り絞って声をかけたけれど、女性があっけなく袖にする。
およそ真面目な男ほど、大いに傷つくだろう。女性はそれくらいでくじけるなんて、
私に対して興味はなかったのだろうと解釈する。実に勝手な論理である。

相手を見ればわかるではないか。相手がどれほど真剣なのか。
それを誰かの恋愛や、恋愛物語などと比較し、その男の行動自体をちゃんとみないがために、
本気の男を簡単に袖にする。たった一度でも、そこに込めた思いが本気かどうかは、
女性にだってわかるはずである。それが分からないのはボンクラとしか言えない。

もちろん、その男が駄目なら、それしか手段がない。むしろ、相手が本気であれば
きちんと振るのが礼儀というものだろう。誠意をもってお断りをするべきだ。

ところが、女性の中には質が悪い人がいる。相手の本気を知りながら、相手を自分の
承認欲求を満たすために利用する人である。そういう女性は、男の好意を便利に使う。
かつてはアッシーとかメッシーとか言われたが、そういう取り巻きとして男を利用する。
そこまでいかなくても、自分がモテているという自負のために、本気の男をちゃんと
振らないのだ。俗に言うキープである。

世のストーカー事件には2つのパターンがあり得る。一つは、全くの勘違い。
およそ話したこともない相手から付きまとわれること。おそらくは、一度挨拶した
とかいう程度の関わりでだ。もう一つは上記のキープである。つきまといについては
災難としか言いようがないが、キープのもつれについては、女性が悪い。相手の気持ちを
弄んだという事なのだから。むろん、そういう女性ほど、それを理解しないし、理解する
つもりないのだが。そして、相手のアプローチが強まると、急に被害者ズラをする。
自分は悪くないというためには自分が事実被害を受けていると認識する必要が
ある。それがために、自分の立場が危うくなると、自身で事を隠蔽し、相手の問題で
あるかのように避難するのである。往々にして周りはそれに騙されるのだ。完全なる
自己欺瞞である。


話を少し戻して、もし女性が承認欲求が低いがために、誠実な男からのアプローチを
断るなら、それは考え直してほしいと思う。

相手の真剣度を測るために、そういう駆け引き的な事をしているなら、やめた
方が無難である。誠実な相手にどうして無用な駆け引きに出るのか不思議だ。オッケーなら
ひとまずはデートにでもでかけてみれば良いのである。断りを入れてから、「あのあと
なんにも言ってこないんだよね。」という女性をみるたびに、アホかと言いたくなるのだ。

相手が誠実なら、断りをもって諦めるだろう。それが誠実な男だからだ。
逆に、チャラい男なら、またアプローチするだろう。それがチャラい男だからだ。
つまり、断っているのに何度も誘うしつこい男だけが残るのが、最初の無用な駆け引き
なのだ。女性はわざわざ、まともな男をフィルターして除外していると言える。

そういておいて、しつこさをもった男と付き合って振られる。なぜなら、そういう男
だからこそ、しつこさを発揮できるからである。我が強い男とはそういうものだ。他に
気になる人ができればそちらにも、同様にアプローチするからだ。

要するに、初期のアプローチのしつこさをもって、愛情の強さだと思いこんでいる女性は
むざむざと幸福を捨てている。そんなもので、愛情をはかるのは間違えているのだ。
むしろ、そうやって自分を吊り上げた分だけ、手に入れた男はそこで満足し、愛情が
冷めることだろう。手に入れるまでのゲームになってしまうからだ。

もし、相手をいいなと思うなら、素直に最初から話を進めればいい。話はそれからだ。
相手を知ってからでも、振るのは遅くない。むしろ、良さがわかるかもしれないのだから。

自己承認が弱い女性は、また一方でわがままにもなる。
それは、相手の気持ちが信じられないからだ。子供がいたずらをするのと同じである。
相手に不快なことをして、それでも、自分のことを好きで居てくれるかどうかを試すのだ。
これは、自己承認が低い男もやることである。

相手の愛情を試すために、正確にいえば、本人はそれと知らず無意識にだが、相手の
様子を伺うような行為にでる。相手が好意を示すと「なんで?」と聞いたり、約束を
すっぽかしたり、無理な事をいって困らせたりする。要するに嫌がらせである。
その背後には、不安感がある。私のことをどう思っているのか分からないという不安である。
小さい子供も、まるで同じことをする。兄弟が生まれて、自分より下の子に興味が移った
事を理解するや、上の子が赤ちゃん返りをする。嫌がらせを通じて、自分に対する愛情を
推し量っているのだ。

その結果、相手の男や女は嫌になってしまう。要は恋愛するにはまだまだ子供すぎるのだ。
相手がどう思うのかを思いやるだけの余力がない。そして、自分のことしか考えてない
からだ。嫌がらせがあっても、相手と関わり続けようのは歪んだ愛情である。それを共依存
という。メンヘラ女子と自己犠牲の男という組み合わせでしばしばみられるやつだ。依存を
愛情と勘違いしているのである。ときに誠実な男がメンヘラちゃんをかまうことになるのだが、
最後は無理になって破綻する。そりゃそうだ、四六時中他人を考えて暮らせるわけがない。


自尊心が低く、承認を欲する女性にはとある傾向がある。
一つは、誠実な男とは付き合えないという事。
もう一つは、駄目な男に振り回されるという事。

この説明はすでにした。このような女性の言い分は「私って男運がなくて~」である。
違う。まともな男とは恋愛できないという性格上の問題である。
わざわざ駄目な男だけが近づけるように仕組んでいるのに気が付かないのである。

むろん、自分が駄目だと思っているから、駄目な男じゃないと愛せないという事でもある。
立派な人といると、自分が駄目であることが浮き彫りになるからだ。それは辛いことでも
ある。駄目な相手を選ぶのは、相手をバカにすることで自分の弱さから目を逸らせるからでもある。


さて、本題。(いままではなんだったのかって?)

私が思うに、昨今の男を草食系とよび、恋愛が成立しないことを男のせいにしてきた。
だが、私は多分に、女性の問題でもあるといいたいのだ。日本の環境下では、なんらかの
自己承認欲求が満たされない女性が多い気がするからだ。自分を肯定できない女性が
あんまりに多いのではないか? それを問題にしたい。

私の少ない経験からいえば、美形な女性たちはどこか心が歪んでいる。自己のありようを
持て余しているように見える。小さい頃からの周りの扱いによって、同性からのやっかみや
妬みなどを受け、それへの対処法として、小さくなるか、男に紛れようとする。どこか
受け入れられなかったという諦めがあり、それを克服するために、極端にふれている事が
多い。やたら良い子になってみたり、悪女になってみたり、男を使ってみたり、居場所を
同性内にみつけるのが難しいからなのだろう。結果、自己肯定感が下がってしまう。

一方で、適度な女性たちは、あからさまな依怙贔屓や優遇をみつけ、自分がそこに入り込めない
と気がつくと、諦め始める。そして、いじけてしまう事がままある。その心の歪みが外へ
向かうと、いじめや徒党になり、グループを形成し仲間という形で味方を囲い込もうとする。
一方で、内側に向かうと、深い悩みになりオタク的なものに走り始める。およそ不健全で
ある。

ただ、これらはおとなになるに連れバランスが図られ、自分の立ち位置がわかり、
自己を受け入れられるようになる。よって、大人の女性は自分を肯定できる。
ところが若い子たちは、それが難しいために、化粧やファッションなどに凝って、
着飾る事で、コンプレックスを解消したり、そうそうに男と付き合うことで、自己を
周りに認めさせようとする。このあたりで、かなり拗れるのではないかと思う。10代
後半あたりの事だ。

こうして、日本の女性において健全に若い頃をすごし、成人するのはかなり難しい
道なのではないかと思うのだ。どうにかすると、すぐに自己卑下するような自尊心の
低い人になりがちになる。なぜなら、みんなが互いに足を引っ張っているからだ。

全般において、日本女性の自己肯定感が低いとすると、先の恋愛問題につながる。
男子が草食系になったという話の裏側には、女性たちがまともな恋愛ができない状況に
あるとも言えるのではないか。そんな女性たちを脇目にみる男子が、女性たちに幻滅し、
3次元はどうもなあ、という感想を抱くのもあり得ることだろう。一方的に男子の未成熟さを
非難するのはおそらく間違えだ。

かつての日本では、自尊心の低い女性が良かったのだろう。男尊女卑の思想をもつ
オヤジたちが多いことを考えれば、自己肯定感が低く、旦那に付き従うことで生きる
女性が便利だったに違いない。しかし、それは恋愛という行為からみれば、不適当な
心的状況である。

女性が男性の所有物という感性はもはや昔になった。なってほしい。
そして、それに伴って必要なのは、自己肯定感を持つ自己である。それは男女に限らずだ。
とりわけ女性において、必要なのは自己肯定感である。誰かに選ばれなければならない
というような受動的スタンスでいては、いつまでも自己肯定しにくい。むしろ、
自分が選ぶという、自分で自分の事を決めるというスタイルでなければ、健全な恋愛など
できはしないのだ。

いいなとおもった男性からアプローチされてなぜ断る?自意識過剰ではないか?
また、しつこさは決して愛情の深さではない。それは執着であって、愛情ではない。
何度か誘って断られたら、誠実な男は去っていく。それが普通だ。そんなところで、
変な駆け引きをしない女性が増えてほしい。

また、きちんと誠実に振ってほしいと思う。相手が本気であればなおのこと。
そして、男の気持ちを利用しないでほしいと思う。そういう女性がいることで、
男はミソジニストになる。女性に復習しようとする男を生み出してしまう。
女性の自尊心の低さは、女性が被害者ズラするためにあるなら、別にかまわないが、
男を無用に傷つけ、誠実な男を減らすのはやはり加害なのではないか。

「自分を肯定してもいいんだよ」と私は若人に言いたいのだ。


最後に付け加えるとするならば、自己肯定感が低いのはもっと問題をはらむことがある。
ロジカルに言えば、自分のことを好きになったという相手を肯定できない問題である。


どういうことか。自分の事を嫌いだと思う人間は、究極的には誰も愛せないし、
愛されない。なぜか。それは、相手の好意を肯定できないからである。そして、
そんな相手の審美性を疑うからである。

自分が嫌いなものがあるとしよう。それを好きな異性がいたとして、どう思うだろうか。
それが食べ物や趣味なら大丈夫。しかし、それが自分であったらどうだろう。

自分が嫌いな人は、自分を好きになってくれる人の気持ちがわからない事になる。
だって、自分が嫌いなものに好意をむけている相手に賛同ができないからだ。
すると、せっかく自分の事を好きになってくれる人が現れても、原理的に、相手を
拒否することになる。そして、自分は、自分のことを好きになってくれない人を
いいなと思う事になる。

しかし、その相手は自分のことに興味がない。結果として、誰とも恋愛できない。
相手から好意を見せられると、その途端に、相手への興味を失ってしまう。
これが、自己肯定感が低い人間の問題点なのだ。

これは無意識的なものも含む。自分が好きだと言葉で言う人間であっても、
心の中で自分を嫌っていれば、同じことが起こる。

この自分嫌いの女性が、恋愛する場合があるとすれば、極端には2つしか無い。
一つは、相手を嫌いつつ、付き合う。相手の愛情だけが頼りであるが、自分は相手に
興味がないという状況だ。なぜ付き合うのか不明だが。。

もう一つは、一方的に相手に尽くす場合だ。女性性はその意味では役立つ。
男の方はそんなに好きではないが、アプローチされたからいいかくらいで、付き合う。
そういう関係性だ。性を担保に付き合いは持続できるが、満たされることはなかろう。
いずれ捨てられる可能性が高い。

結局、自己肯定感が低いのはやっかいなのだ。自分を卑下するのは、不幸を招き入れる
事である。なるべくなら、やめたほうが良いだろう。
nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。