絶望的な日本の生活 [思考・志向・試行]

日本では、パターナリズムが跋扈し、その一方で、あらゆる責任逃れのための
努力が行われている。その本質は、決して社会を良くしようと考えての行動ではない。
むしろ、自分が如何に損しないかを勘案しての行動である。

万事が万事そんな風だから、責任のある行動がどんなものか分からなくなってしまった。
責任を取ると言って、大企業の役員や経営者が不正などによって辞任する。これは、
むしろ責任の放棄であって、責任をとっているわけではない。権力があるものは常に、
責任を負わなければならないのだが、この国では責任など取りようがないのである。

そうすると、人々は自分のところにしわ寄せが来ないようにと行動する。
それは雇われ経営者でも同じ事。自分の任期中に何もなく過ごせれば良いのだ。
すると、とにかく形を作りたがる。形式的であっても、何かアリバイがあればいい。
これが強いインセンティブとなり、業績づくりが行われることになる。数字を
いじったり、時にねつ造したり。要は微細な嘘をついて場を取り繕うわけだ。

こうして社会では、とにかく見かけにこだわる人々が増え続ける。
内実は置いといて、書類・プレゼン・広告とにかく見た目が良いものばかり
もてはやされる。そして本質的な問題は見て見ぬふりをする。なぜなら、それを
解決しようものならば、内部的には「面倒な事」をする人と思われるだけでなく、
恰も、その問題を作り出した人のように見られてしまうからだ。

これが会社だけでなく社会全体に反映され、一億層無責任時代が長く続いた。
その結果、あらゆる場面で不正があったのだが、それが見つからずに伝統化して
しまったのである。前任者の不正は、後任者にとっての通常になる。後者は
不幸にして、業務とはそういうものだと学んでしまうのだ。

昨今の不正ブームは要は、発覚である。今までやってきてた事をおかしいと
いう人間が増えたというわけだ。それはそれで正常なのだけど、次から次に
出てくる不正・虚偽。あまりにも不誠実であろう。

現政権のへたくそなやり方もまさに責任逃れで出来ている。嘘ばかりいう事が
バレバレであるが、それを否認し無かったかのように振る舞う。精神的に
異常なのであるが、それすら誰も指摘しない。なぜなら周りもおかしいから
なのだが、それも誰も指摘しない。なぜだ??

それこそが責任逃れシステムへの適応の結果である。指摘したら、自分の立場が
危ういとしたら、誰が指摘するものか。指摘しない上に、指摘出来ないのである。
それを続けている内に、何がおかしいのか分からなくなる。もはや末期なのだ。

この責任逃れシステムは、現代社会の一側面である。これは社会学的にみれば、
シェフ氏の指摘する「嗜癖システム」であろうし、安富氏が指摘する「立場主義」
であろう。社会が正義とみなす思想と、それに呼応する社会活動がある。現に
行われている社会活動は人を幸せにしない。むしろ、何かに没頭させることで、
全体を隠ぺいし、それに依存する事で精神の安定を保とうとする。倒錯した
システムなのだ。

会社での矛盾を孕む活動を無理やり肯定するために精神疲労を伴う会社員は、
そのストレスを精神的・身体的病気として表出する。そこまでいかないように、
酒・たばこ・カフェインがある。朝起きられないために、コーヒーを飲み、
昼間辛くなってきたら、タバコをやり、仕事が終わっても気分が晴れないから、
それを忘れるために酒を飲む。まさに労働者のお手本であろう。そこまでして、
何を体現しているのか?

金を稼いでいるだって?そのためのサービスを生み出しているだって?そうか?
あなたの書類は会社のためであって、顧客のためではない。あなたの労働の大半は
組織の運営のためではないか?それをビジネスだと声にだして言えるのか?

本来、経済活動とは人にとって必要なものを得るための行為である。それは、
生産者であり消費者であるということ。大抵の労働は誰かのためにある。
それがなぜか、組織のための仕事になり、組織維持のための行為に成り下がった。
この時、人は労働に意味を見出せなくなる。そしてそのような労働には責任など
とりたくないのだ。要は、やる価値もない仕事なのだが、そういうものに限って
高給取りなのである。

このような仕事をこなす男たちは要するに仕事に嗜癖しているのである。
仕事をしてさえいれば、免罪されるかのように。そうしてますます仕事にアディクト
するのだ。この仕事癖を社会では「良き社会人」と呼ぶのである。仕事中毒は、
社会が認める中毒なのである。

一方こういう旦那を持つ妻は、この旦那に対応して依存して生きる。それは
中毒者の世話人という事になる。本来、伴侶は中毒を是正しなければならない。
だが、この仕事への嗜癖は日本社会が許容するがために、異常とはみなされず、
むしろ、積極的に採用される思考状態となる。すると、伴侶は共犯者になる。
つまり共依存である。

アルコール依存者の家族は、一見被害者に見える。だが、その内実は、私がいない
とこの人はダメになるという無自覚的な依存があるのだ。つまり、家族がアルコール
依存者である事を望んでいるのだ。歪んでいるが自分の存在を肯定してくれるのが
中毒者の家族なのだ。

これを仕事と置き換えてみる。まるで、日本の良き家庭に見えてこないか。
仕事に勤しむ旦那と、それを生活面からサポートする妻の図式は、アルコール依存
者のいる家族と極めて類似する。つまり、日本社会において良き家庭とは、
仕事中毒者の保存に努めている事と同義なのである。これは社会全体がそのような
エートスに包まれている事を意味する。ならば、もう日本全体が中毒患者となる。
終わったな日本。そう考えるのが普通だろう。

ではなぜ、仕事への嗜癖が収まらないか。それは「立場主義」だからだ。
立場主義とは、現代日本では何らかのポジションを得る必要がある事を意味する。
正社員という立場、資本家という立場、学校での立場、専業主婦という立場、
とにかくなんらかの社会的に肯定された立場に身を置くことが求められている。

このような状況下で、立場から外れると大抵痛い生活が待っている。
それがために、立場を失わないようにと行動する事になる。そして良い立場を
得ようとする。だから受験戦争があるし、大企業へ勤めようとする。それは
良い立場=幸せという信念が流布されているからだ。その背後に拝金主義が
あるのは間違えない。金を多く得るほど、幸せなのだと思っているのだ。

そして、立場を守るためなら、何でもする。それが仕事への嗜癖につながるのだ。
加えて、責任逃れシステムを構築するのである。

このような嗜癖まみれの人々で構成された社会が果たしてうまくいくのか?
否。遅かれ早かれダメになるに決まっているだろう。ならば、我々は先回り
して、立場主義から脱却し、仕事への嗜癖もやめ、共依存的家庭を再構築
しなければならないのだ。

そのための第一歩は、ひとまず自覚する事だろう。
自分の行動は一体何のためかと。


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