地頭の良さと偏差値の乖離 [雑学]

どうでも良い事だけれども、人をラベル的にしか見ない人が増えているので苦言を述べる。

昨今のように塾などが存在し、受験勉強のための方法論が洗練化されていると、
地頭の良さとは無関係な学力が示されることがある。
簡単に言えば、コツのようなものをコストをかけて得られるグループと、
それらを知らされないグループに分けられるという事である。

地頭の良さというのは、もって生まれた素質であり、それはいかんともしがたい。
そこに勉強という方法論が当てはまるかは別問題であって、勉強自体に興味がなければ、
その地頭は別の方向へと向くことになる。一方で、地頭の良さがなくても、
方法論を叩き込まれれば、それなりに点を取る事は可能となる。

こうして、学歴というものが「努力の勲章」のようになってゆく。
当然、勉強という七面倒くさい事をやるだけの従順さと、それをやる努力ないしは、
興味があって初めて、学歴がついてくる。よって、学歴自体がその人物の評価につながるのは
別段おかしい事ではない。だが、実態を反映しないケースもまま多いのは事実である。

本来であれば高学歴は、能力の証明として扱われてきた。
だが実際に、それが現実問題に適応される際には別の能力が必要となる。
とりわけ仕事は人を動かす事が多い。そのため企業では俗にいうコミュニケーション能力が
問題とされる。コミュニケーションがとれるバカと、コミュニケーションがとれない天才なら、
仕事の性質上、バカの方が圧倒的にマシになる。こうして、世の中が求める人材から、
圧倒的な学歴保持者ははじかれる事になる。つまりその個性をもって、能力の欠如とみなせる
のである。

近畿大学や明治大学が就職率的に評価されるのは、そのややもすると中途半端な偏差値が
企業が求める人材の方向性と合致しているということになる。

かつてのエリートたちは、社会思想を大学において磨く事に時間を割いていた。
それは世界をどう見るのか、どういう態度で世界に臨むのかという事に直結し、
現実をどう変化させるのかという議論がなされていた。

ところが、現代はそのような政治的な思想に関して話をする機会は皆無に近い。
つまり、目の前にある問題を解くという事以外の、もっとも大事な人生についての思想に
まるで興味がない人材が増えたということである。これが昨今の官僚の劣化や政治家の劣化を
産んでいるわけで、若い時分に十分な批評的思想を身に着けなかった、そのような機会を
求めなかったことが人材としての価値を失わせる結果となった。

もちろん、平和な日本ではそれが必要とも限らない。
ただ目の前の作業を滞りなくこなしてゆくことが求められる資質かもしれない。
それは企業においても同様なのだろう。反発するような人材は不適応のレッテルを貼られる。

その一方で、ないものねだりをする。イノベーションを起す必要があるだとか、
新しい発想が必要だとか、そういう事に躍起になっている。特に企業では新しいものを
生み出すという所に力点をおいている。だが実際に、そのような人材をとらないのは誰か?は
省みられない。そのようなメタ視点が全く欠けているのである。

地頭の良さをもった人材が必ずしも、高学歴とは限らず、高学歴だとしても、
地頭が良いとは言えないというのが時代の流れであり、人事は混乱に陥っているのである。

そもそも地頭が良くても勉強するとは限らないという当たり前の事実にみんなが目を背けている。
また、勉強を志向する人間が必ずしも地頭の良さを保証しない事も忘れている。
更にいえば、新しい事を行うというのは、そもそも地頭の良さということと必ずしもリンクしない。

よって、企業は多様な人間を採用するという方法論でしかイノベーションを生み出せない。
だが現実には、そんな非効率な集団形成はしたくない。そこで、彼らは革新を諦めて、
アウトソーシングに走る。どこかに自分たちの目的に適う事をやっている人々を探し、
彼らの成果を金で買い取るという作業をするのである。一番の根幹になる部分を外から
もってくるために、競争力が欠如し、次第に企業自体の活気が失われる。当たり前なのだが、
なぜかそれを理解しない、出来ないのが日本企業である。

ま、大抵の仕事にはイノベーションなど不要である。だから、そこに工夫はいらないし、
工夫が評価される仕組みもない。人の創造力をなめているのだけれど、それが評価につながらない
以上、多くの人は改善を行わない。そんな事柄に世は溢れている。

地頭の良さをどうにかする方法は今の所、不明である。おそらく遺伝が大きなウェイトを
しめているのだろう。勉強に対する志向性は周りの影響だろう。この二つがそろうと、
優秀なエリートが出来あがる。

かつての記憶をたどると、中学生時代の友人たちが現在どういう形で働いているかは、
その予想を上回る事がない。つまり、学歴はそもそも人物に触れれば、正直な所あまり意味がない。
ほとんど誤差程度にしか結果が違わないのである。よって、人を効率的に活用したいのであれば、
無駄な知識の押し込みである大学受験など無駄で、中学高校時の成績でおよそ入試の代わりにし、
大学で決定的に教え込んで、ダメならやめてもらうという形が勉学に限って言えば、有効に作用する
だろう。

本来、地頭が悪くても、大学や企業において生き残る人々がいる。彼らは頭が悪いからこそ、
組織という中において有効に活動できる。それは現政権をみれば明らかであろう。その意味で、
適当な無教養や無能さは、目的行動が適切であるならば、さして問題ではなくむしろプラスに
働く事もある。むろん、今回のマイナスは明らかだが。

早い話が、適材適所にしろということであり、それがスムーズに進む枠組みを構築する事が
社会にとって最適な手法である。一見すると周りに道に見える事も、10年スパンでみれば、
成功につながるのだろうと予測できる。

我々は単純に、職業や学歴などで人の地頭を評価出来ないという事を理解しなければならない。


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