疑え!-宣伝の本質ー [思考・志向・試行]

ヒトラーはいう。
「嘘を大声で、充分に時間を費やして語れば、人はそれを信じるようになる」
「民衆がものを考えないということは、支配者にとっては実に幸運なことだ」
「大衆は小さな嘘より、大きな嘘の犠牲になりやすい」
「政策実現の道具とするため、私は大衆を熱狂させるのだ」

何が言いたいか。それは世の宣伝は疑えという事である。
特にマスコミが行う被疑者に対する扱いは強烈に問題である。
彼らは必ずしも真犯人ではない。もしあなたが誤解されてつかまっても同じ目にあう。
それが誤解であるかは関係ない。あのようにテレビで報道されるだろう。
そして、隣人からこういわれる「とても親切な人で、あんなことするような人は思えません」と。

我々はメディアにならされて過ぎていて、メディアがいう事を鵜呑みしてしまう傾向をもつ。
その報道内容について、どういう意味があり得るのかを多角的に理解する必要がある。

一方で、そのような行動はとてもエネルギーがいる。そして知性もいる。
よって、大抵の人はそのような面倒くさい事よりも、明日の予定や今夜の飲み会を
問題にして生きている。その一方で着実にあなた方を苦しめる政策が進んでいるのに
である。誰も教えてくれないって?なぜなら、それで得をする人間たちがいるからだ。

このように書くと陰謀論である。陰謀論は原因と結果を短絡的に結び付けている
ために、嘘くさい香りがしてしまうのだが、陰謀論の中には本質的なものがある。
それは「現状を疑っている」という作用である。現状に対して懐疑を持つ事ほど、
重要な作業はない。そして、世間に喧伝されている事は、そこにウソを多分に含む。

ヒトラーの例を挙げずとも、人は繰り返し暴露される情報によってそれを信じ込む傾向を持つ。
また、その行為にどれほど怒りを抱いても、それを持続させるのはほとんど不可能である。
原発問題も、被災者復興問題も、結局、実態を知って尚、東京電力が存在している事が
その証左となろう。誰もがおかしいと思っても、なかなか現状を変えられない。

子供の頃から、テレビと共に生きてきた現代人は、テレビの内容をウソだと思っても、
それが繰り返し流されると事実だと思い込み始める。その一方で、それをウソだと
感じて説明を探した際にも、落とし穴がある。それが良くあるねとうよ問題であったり、
左翼問題である。ウソと言いたい人々がいる。彼らは現状に不満を持つ人々であり、
怒りの矛先を探している。そこに叩きやすい素材が現れれば、容赦なく叩く。それは
ルサンチマンの解放であり、それを俯瞰する視点が欠損しているからだ。つまり、
欲求不満の解消である。男日照りのオバサンがヒステリックにキーというのとまるで
同じことなのだ。

疑う人は、その安直な主張も疑うべきである。つまり、とある問題に対する懐疑を
説明するという言説もなお、疑わなければならない。それもまた宣伝かもしれない
からだ。よって、懐疑を続けると、事実が霧散してゆくことになる。では何を信じるか?
少し前までは「血」を信じていた。つまり家族である。親類は自己に対して損益を
与えることはない人々であるとの信頼があった。彼らからもたらされる情報は他よりも
重要視されてきた。状況がめまぐるしく変化する時代には、身を守るための手段で
あったろう。

現代はどうか?それは経験に依拠するほかない。我々が信じられる事は、経験しか
有得ない。報道を目にするということも経験である。逆に言えば、経験に左右されて
しまう。大きなウソを毎日聴いていれば、それが真実に思えてくるということである。
最後の審判があるから信仰しなさいというウソを信じるようになる。万世一系などという
フィクションに真実を求めるようになる。大きなウソの心地よさに身をゆだねること、
それを理解することを「大人になる」というのだが、そのウソに惑わされる事は何の
意味があろう。

伝え聞いたことは全て懐疑で応じるほかない。歴史もフィクションである。リアルタイム
に経験できないからだ。そしておそらくもっとも我々に強固に入り込んでいるフィクションは
「国」という概念だろう。日本という国はかつて、ばらばらだった。思えば国という言葉
今も、故郷を指す。つまり、日本はかつて小国の集まりであった。それが固まって日本を
形成した。だが、その国自体は目の前に存在し、国で行われる人間行為はほとんど不変
である。だがどこに[日本]はあるのか。それは我々が頭で思考する時に現れる仮想空間
であって、実態は日々の生活そのものに過ぎない。どこにも国などない。あるのは行政のみだ。

その行政は何をするのか?簡単にいえば、我々民を支配するためにある。そう看過したのは
柄谷氏であった。政府とは我々の代表ではなく、我々の敵である。そう解釈する方がより
現実をうまく捉える事が出来る。その行政のやることは、国がやることではない。国とは、
我々の頭の中にある存在に過ぎない。行政と国とはわけて考える必要があるのだ。我々は
愛国者でありうるが、愛行政者ではない。その意味において、自己のアイデンティティを
確立する必要がある。

江戸時代に「お上」と呼ばれたのは行政であった。そこに国はない。支配者と被支配者の
関係があった。現代は建前上、国民が支配者であり、施政者は国民の代表ということに
なった。だが、我々は相変わらず、支配者と被支配者の関係において生きている。この
どこに国民主権があるのかと問いたい。このような仕組みになっているのは、我々が
大きなウソに繰り返し暴露されてきたという事実に依るのである。

金にしても、経済にしても、あなたの人生そのものも、制度の上に規定されている。
そんなものは、本質的無効である。なぜならフィクションであるからだ。我々全体が
欺かれている。社会という名のフィクションにおける配役を得るようにと育てられている。
それが如何にどうでもよい事かは明らかだろう。

かつての村人はこう考える。お上がそういうなら、こちらにも利益をくれと。
そうして、そこに癒着が起こり、制度が蔑ろにされてゆく基盤がある。現代も、常に
この癒着で物事が動いている。そしてそのような事に与しないと主張すれば社会から
追い出されるようになっている。共同すれば、お前も同じ穴のムジナだと。こうして
社会に組み込まれていく。

社会はたえず、問題を生み出す。その根幹はヒトの欲だ。個々人の行動を決めるのは、
個人の「意思」ではない。集団の「意思」だ。集団の意思に逆らうのはほとんど容易
ではない。とはいえ、そのこと自体は実はあまり問題ではない。問題はこの集団の
意思を誰が作るのか?である。

世論は、原発の廃棄、現内閣の不支持、辺野古移設反対、これらを表明している。
だが、実際には全て逆の事が行われている。民意とは集合意思になり得ない。
では何が集合意思を生み出すか。それが宣伝であり、一部の既得者の意思である。

宣伝は常に既得者に有利に働き、その既得者たちによる政治がなされる。
これは妄想ではなく、事実に基づくものだ。常に決定力を持つ一部の人間たちが
世界の動向を決めてきた。いや、世界ではない。人間社会という側面のルールを
策定してきたのである。そこには正論はない。美辞麗句が並ぼうとも、如何様にも
解釈可能である。

国民は常に国から圧政を強いられている。そのように社会制度が組まれているからだ。
その国民が、他国からせめられると喧伝されると急に、行政の肩を持つようになる。
わが国を守るのだと。そして、その行為に非を唱える平和主義を非「国民」だと罵る。
それがかつての戦争であった。なんだ、人は簡単に戦争に駆り出されてしまうではないか。

その戦争すら、金儲けの手段であったりする。人の行為は常に合理的だ。その行為が
単なる破壊しか生まないのであれば加担するものは減るだろう。だがそこが儲けになる
なら、話が別だ。これが戦争の真実である。

さて、宣伝とはなにか。それは人々を操るということだ。あなたも常に操られている
と思った方が良い。なぜあなたはApple製品をつかう?なぜあなたは車を買う?家を買う?
消費を促されている事に気が付いているだろうか?

幸せになるために物を買う?既にこれについては決着がついている。幸福論は
物や金に依拠しないと。幸福をもたらすのは、自己肯定とよい人間関係と他者貢献だ。
それには金や物は不要とわかっている。

大いなる矛盾は、幸福になるための行為は、日々、金を稼がなければならないという行為と
背反する事である。金を稼ぐ事が食べる事や生活の直結している現代では、避けられない
行為となってしまった。そうして、仕事に不満があれば、人は不機嫌になり、問題を起こす。
その不機嫌を酒やギャンブルやドラッグ、風俗といったもので解消しようとする。その問題
の本質は、そもそもどう金を稼ぐかということと、人間関係にある。

こういった幸福論と戦争とはあまりにも次元が異なる。戦争という行為は、本質的に
国民の意思では在り得ないのだ。国民が問題にするのは、日々との生活だけなのだから。

だが、制度としてなぜか一部の人間たちが我々に影響を及ぼす仕組みなっている。
それが現代の社会制度である。歴史が育んできた統治機構である。

統治機構の側に回りたいと人々はいう。それをすればいかにも楽が出来そうだからだ。
だが、それはウソである。それも喧伝の一部である。庶民が金儲けにいそしもうとすれば
するほど、既得者が得をするようにできている。誰かの元で働くとは事実上そういうこと
なのだ。

職探し?本来ならば、職は自分でやるものであった。それを個人から取り上げたのは
国である。いや行政である。それが嫌なら起業すれば良いではないか?確かにその通り。
だが、起業をする事すら、現代では喧伝の一部である。多くの起業家はやぶれて借金に
まみれてゆく。それはなぜか?起業方式が、既得者によって牛耳られているからだ。
そうやって仕組みに誘い込んで彼らの懐を潤す限りにおいて、飼われていて、いざとなれば
はじき出される。究極は、農業でもやり時給自足することだろうか。

あなたはなぜ、都市に住むのですか?あなたはなぜ、企業ではたらくのですか?
あなたの意思でそうしたのですか?全然違いますね。

あなたは集合意思によって動かされている。それは現代社会がそうできているからだ。
それでも、別に良いというのであれば、それを享受して欲しい。だが、それが幸せかどうか。
その基準は忘れてはならない。

疑う事。我々の一つの武器である。安易に従ってはならないのだ。

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