給料を増やすにはー価値観の変換ー [思考・志向・試行]

多くの人は、給料が増えないことに大きなフラストレーションを抱えているだろう。
その理由は簡単である、みんなの消費が少ないということだ。
みんながものを買わないから儲からない、だから給料が増えない。

では、どうして消費が少ないのか。それは需要が少ないからなのか?
否。実際には人々の欲望は大きい。潜在的な需要は増えている。
消費しないのではなく、単純に、みんな金がないということだ。

給料が増えるには自分が属する企業が儲かる必要がある。
儲けるには、誰かにサービスを買ってもらうしかない。
そのサービスを売るには需要を増やすしかない。

確実な命題のひとつは「みんな欲張り」ということだ。つまり需要の存在である。
需要は常に広告や流行などによって喚起するように仕組まれている。
現在はかなりうまく行っていて、ほとんど人は無意識に需要を持たされている。
つまり潜在的な消費者になっている。

ところが、手元に金がない。金を稼ぐ手段として多くの仕事があるが、どの仕事をしても
それほど稼げるものは少ない。むろん稼げる職種はあるが門が狭くされており、みんなが
同様に稼げるわけではない。というか、みんながその儲かる職に参入出来ない仕組みが存在して
いる。そのような業界に参画するには、何らかのコネが必要となる。つまり人脈や血筋などが
物をいう。一般には、世間的によい職種につける手段として学歴がある。

基本的に多くの人は金を持たない。それに目を付けたのが金貸しである。
金がないけれども、潜在的な需要を満たしたい人は、商品の価格よりも高い価格であっても、
商品の購入を決定する。例えば、住宅ローンなどを利用して30年などで物を買う。金利によって
多額の利子を支払うことになるのだがおかまいなし。金貸しは、この差額を一瞬にして
手に入れる。借金をすると言う書類に消費者がサインをした段階で金貸しは架空的に金を
手に入れるのだ。

そうして手にいれた金は別の人に貸し出す。さらに利息を得る。そうやって、
多くの人々の「欲」を満たすために金貸しは存在する。金貸しの論理は、借りる人がいるから
金を貸すというものだろう。カード会社は同様の事をする。市場の適正価格から「ちょっと」
高い価格として商品を購入してもらうことで儲けようという商売が行われている。

金貸しを利用すれば、需要を満たすように多くの人が購買するはずだった。
ところが、景気が後退し始めると、大衆はこう考えるようになる。
「将来的な稼ぎが見込めないのに、借金出来るだろうか?」だ。

さすがの大衆も、どうしても必要なもの以外に借金はしなくなった。
正確にいえば借金出来なくなった。貸す側が渋るからである。
そうして出てくるのが、安い物を優先的に選ぶという行動だ。

景気が悪い時は給料が上がらない。ならば節約するためにも、安い方を選ぶ他ない。
かつてはユニバレという言葉があるように、安いものをチョイスすることに抵抗感があった。
現在はその思考自体が変化し、安い物を選ぶのは「善」であるという認識が広まっている。

ユニクロやH&M、Forever21など、低価格でかつデザイン性を保持するものが売れ始める。
これは、他の分野でも同様だ。高級なもの、良いものを選ぶという長期的視点への価値が薄れ、
むしろ、安くて持ちが悪くても、また買えば良いという思考になった。これもまた、メディアを
通じた喧伝の結果ではあるが、大量消費させなければ、経済がもはや回らなくなったという
収益上の問題なのだろう。

悪化する景気に乗じて、デフレが続いてきた。安いサービスでなければ売れない。
安く提供するということは、サービスを生み出す過程において、工夫が必要である。
日本企業はまじめに効率化を追求した。そうして安い価格を実現し、なんとかやり過ごしてきた。
この流れがバブル崩壊後に十数年も続いてきたのだ。

結果として、人々は安いものが手に入るのが当たり前になった。だが、問題がある。
資本主義の決定的な部分だ。最もクリティカルなのは、多くの企業は借金をしてサービスを
生産しているという事実である。企業も消費者同様に借金をしている。借金には必ず金利がある。
その金利を支払うには、企業は成長しなければならないのだ。だが不景気ではそれが難しい。

拡大再生産しないと金利が払えないために、企業には成長が必要だ。
だが、効率化によるサービスの生産にも頭打ちがある。それでも余剰価値を生み出さないと
借金が返せない。そこで、企業において最もコストがかかる部分の効率化に手を出し始める。
それが、雇用である。

雇用を減らすとは、新規雇用を減らす事とリストラである。早期退職という言葉でも良い。
企業がこのような対策を打つ意味は、イコール収益が上がっていないという指標である。
サービス生産の効率化がもうギリギリまで来た事を意味し、それ以上の生産性が見込めない
一方で、借金を返済するためには、見かけ上の成長が必要であり、それを固定費の削減で
賄うわけだ。人が減れば、一人当たりの仕事量が増え、やるべき事が増大してゆく。
一人が稼ぐ量を増やす事でなんとか食いつなぐ作戦だ。この影響で重圧を感じる社員が出てきて、
時に精神を病んでしまう事もある。

雇用を減らす以外にも、給料を減らすという事をし続けてきた。実際に現状から減らすという
ことは難しいので、昇給しないという技を使ってである。こうやって雇用条件を徐々に悪化
させながらも、企業はなんとか状況をしのいでいるのだ。

消費者はどうか。給料の伸び悩みが起これば、当然、借金を減らすだろう。
何しろ、継続的に収入が得られるのか不明なのだから。それは、とどのつまり、潜在的需要と
実際の消費の間に溝を作り出す。借金をしてまでも消費活動をしていた人々は、それをやめ、
可能な限り出費を抑えようとする。その結果が、不景気である。

こうして企業は豊かな消費者を失い、収益も失った。誰しもがどうやってサービスを売れば
良いのかと頭を抱えている。政府にテコ入れを申し込み、公共事業という名のばらまきを求め、
補助金という名の保護政策によって、商売を続けている人々もいる。近年ではそれも難しく
なってきたので、増税したり国債を発行して、政府予算を増大化させたりしているのだ。
現在では、年金受給者が3分の一に迫ろうとしていて、財源が確保出来ずに苦しんでいる。

消費者も企業も国も、金がないときは何をしたのか?そう金を借りたのである。誰に?銀行である。
つまり金は銀行にある。実際に、金を増やすのも銀行の作用の結果である。それは信用創造と
呼ばれている機能に依存する。

銀行はどうやって金を調達しているか?それは、預けてくれる個人と企業、そして国である。
その金をやりくりして、利益を得るのが銀行の仕事となる。多くの資金は特定の企業から
出ている。その特定の企業が絶対的な権力として、社会構造に影響を与え続けている。かつて
から、世界は銀行に多額の資金を提供する資本家乃至企業の影響下にあった。
資本主義とは、金を貸す側のゲームであって、借りる側のゲームではない。

消費者が資金不足で買えない。そして借金もしようとしない。同様に企業も、サービスを
増やしても実質上の消費者が見当たらない。すると、金は銀行でだぶつき始める。金融業は、
ただ金を持っていても利益が上がらない。だぶついた金であれ、どこかに投資して利ざやを
得なければならない。するとやる事は限られてくる。どんな業種であれ、資金を投下して、
産業を生み出し、生み出した産業に再投資をかけることで利ざやを得る方法、つまり投機や
投資である。それが、局所に起こればバブルとなる。土地の価格上昇に資金を投じたのは、
そこに投資価値があったから。そこに収益があがる産業を見つけた銀行はそこから利ざやを
得ていたのである。土地の価格が安定的上昇を描いていた当時、土地を担保に、資金を
企業に提供した。そして、いざ土地の価格が頭打ちになったとたん資金回収が不能になり、
多額の損益がでた。それが住専問題であり、バブルの崩壊だ。

サブプライムローンでは、冷えきった消費行動を無理矢理焚き付けようとした。
低所得者向けの住宅ローンである。潜在的な消費者に金を渡して消費活動をさせよう
としたわけだ。本来であれば、金を貸せないような相手に対して金を貸す。リスクの観点から
それは道理に合わないが、金融を工学を駆使して債券を証券化することで、リスクを担保した
気になっていた。市場には高金利商品として証券化され、それが金融市場で売りさばかれた
という事になる。つまり信用収縮の危険を犯して、金を貸す事で利ざやを得ようとしたのである。

これらの試みが失敗すると多額の借金が残った。その借金は誰が支払ったのか?
実は、我々である。大きすぎる影響を持つ企業はつぶせないという論理により、
多額の公的資金が注入される。そうして借金を肩代わりされた。はっきり言えば
こんな事が許されていいはずが無いのだが。

現在でも金はだぶついている。多額の資金は実態のある消費材を生み出す業界に流れては
いない。金が金を生むような金融商品へと相変わらず流れているのである。なぜなら、消費は
滞ったままであり、利ざやの稼げる投資先が存在しないからだ。そこで、彼らはブームを作ろう
と画策している。それはNISAやFXと呼ばれるものだ。

金融業界はだぶついた金の扱いに困っているため、また潜在的な消費者に金をばらまこうと
しているのだ。つまり、金融業界への個人の参入促進である。個人が金融業界に投資すれば、
それによって波が生まれる。生まれた波の差分を使えば、儲けを生み出せる。個人にギャンブルを
させて、胴元がそれを頂くシステムである。このギャンブルの参加者が増えれば、その分利益が
増えるというのが金融業界の思惑である。

果たして、どれほどの割合の人が勝てるのか?為替など現在コンピュータ仕掛けで取引されている。
個人が勝てる見込みはまず小さいのではないか?ともかく業界はそういうカモが参入してくれるの
を手ぐすねを引いて待っているのだ。

先の議論に戻ろう。給料が上がらないという事が、そもそもの問題であった。
その理由をたどってゆくと、潜在的な消費者に金が回らないという事が問題であった。
そこに、金を擬似的に増やす銀行ないしは金融業界が絡むと、多大な経済的問題が
引き起こされる事が明らかになった。その大元にあるのは、「利子」である。
腐らない金をどうして借りると利子がつくのか?機会費用の補填という論理がある。
ならば、金を持っている人間が使えばよろしい。わざわざ貸すのは、金が余っているからに
過ぎない。

逆に考えてみよう。なぜ企業は金が必要なのか?本来は金ではなく、資材が必要なはずだ。
だから、資材を提供する側が一番強い立場になるはずではないか。土や木、水を提供する、
鉄などの金属を提供する。この人たちが利ざやを得ると考えるのが自然なはず。ここに
金のからくりがある。資材の調達は、金を介在して行われるために、そこに銀行などの
金融が絡んでくるのである。そうして、資材が調達出来るか否かが、いつの間にか、
銀行から金が借りられるかどうかという問題に変更されてしまうのである。

この寄生虫のような銀行の存在こそが、問題の元凶だ。

もし資金の調達が自己資本のみで行われるのであれば、問題はもっとシンプルになる。
むしろ、株式会社とは、自己資本を基盤として運営されるものであったはずだ。
株とは、資本を市場から集めるための仕組みである。ならば、なぜ銀行から借りなければ
ならないのか?

どうやら銀行が介在するという事が問題になることが見えてきた。そして、銀行とは、
現在の資本主義の根幹に関わる仕組みのようである。そして、彼らが利ざやを得るために
利子を得ることが問題を生み出しているのではないか?

以前のエントリーで、利子の話は既に書いた。その時にわかったことは、
信用創造される金は、未来の金であるという事だった。その意味は、借金そのものが
創造された金という意味である。銀行はありもしない金を貸す。その金に利息を課す。
それは将来的に借りた側が返す金であり、つまり未来の金なのだ。

銀行がやっているのは、未来に生み出されるはずの価値を現在へ持ってきて、
さらに誰かに貸し出すというミラクルなのである。それを経済学では「信用創造」と呼ぶ。
それが架空のものであるのは名前からしても明らかで、みんながそれを信用している限りに
おいては架空ではなくなるというのがこの仕組みの興味深いところであり、罪深いところである。

時折この信用が、信用を失う。つまり借金が返せなくなる事態が発生すると不良債権となり、
それに伴う経済が停滞する。つまり不況が引き起こされる。なぜなら、損益を回復するため
資金を回収するからであり、回収された側はあるはずの資金を失うからだ。つまり信用創造に
よる資金に依存している限りにおいて必ず、どこかで債権が焦げ付き、大なり小なりに信用
収縮が起こるのである。

それが大規模で起こると恐慌と呼ばれ、比較的小規模に起こると不況と呼ばれる。
その損害の代償を支払うのは常に消費者である一般大衆である。

現状認識として銀行から資金を調達している限り必ず連鎖的に問題が起こり、
それによって経済が不安定かするのはもはや避けられないかのようだ。
我々は金を出している資金元に対して、常に献上金を支払っているのである。
彼らから受け取るのは信用創造された架空の金だけなのだ。

こんな腐った社会ではあるが、我々に出来ることはないか?
一つには安すぎるものは買わない事だ。安すぎるものを買うということは誰かが
安すぎる形で働いている事を意味する。そうして、我々が得られる給料はその基準に
合わされてしまうからだ。それから、借金をしてものを買わない事だ。可能な限り。
借金をすると、信用創造が発生して架空の金が増える。架空の金が増えると、金がだぶつく。
だぶついた金は、どこかで潜在的需要を持つ消費者に回され、投資をする側に利益を
もたらしたのち、崩壊する。その知りぬぐいは公的資金から出すことになる。
よって借金をして買うべきではないのだが、そういうわけにも行かない仕組み
になっている。つまり、この世は非情なのだ。

もっとも重要なのは、金に重きを置かない生活設計を発達させる事。人生の幸せは金とは
あまり関係ない。多くの人が求めるのは、他者から尊重される事や、子供を守る事や、
大事なパートナーと過ごす事などである。それ以外の事は付属的なことであって本質ではない。
とどのつまり、金では買えないものが人生善し悪しを決めている。

現代がたまたま金がなければ生きられない仕組みになっているだけであって、
かつては金などなかったのだ。つまり金がないこと自体は問題じゃない。
金がないと生きられないようになっているという常識を問題視すべきなのだ。
個人、企業、国、どれも金を必要としている。それは何故か?
ということに真剣に向き合うほか無い。

給料を増やしたいあなた。ぜひ力を貸してほしい。もう一度繰り返す。
やる事は、金に重きを置かない価値観を得ることであり、金に振り回されないように借金をしない事。
そして、やたらと安いものを買わない事である。21世紀に生きる人類には、経済成長などという
前時代の生き方を捨て、新しい社会的価値の模索が必要なのだと思う。
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