関心を見せることー機会ー [雑学]

自分の興味・関心を他者にみせておくのは大事なことだ。
例えば映画や音楽が好きだといっておけば、何かという場面で、
声がかかるかもしれない。一方で、スポーツを一緒にという場面では
誘われない可能性があがる。

だが、何も言っておかなければ、声がかからないのも事実である。
よって、興味があることについては口にしておく方がよい場合が増えるだろう。

一方で、人はどういうわけか、人をステレオタイプに眺める傾向が強い。
強いどころが、ほとんどステレオタイプにしか人を判断できないようだ。
よって、スポーツマンが芸術に興味があって美術館に行くことなど、まったく
想定しない。清楚な女子が、よなよなクラブに通うことも全く想像しない。

とはいえ、ステレオタイプな見方を否定しているわけではない。
ステレオタイプとは、とどのつまり効率的認知手法のことである。
誰かを批評するときに、ステレオタイプに当てはめて考えれば、それがラクだからで、
その方が行動を推測しやすいからである。考えてみれば、自分もたいていの場合、
ステレオタイプに当てはめて人を眺めている。

個人的なステレオタイプを当てはめていたという実感としては、姿かたちにおける
刷り込みである。今まで生きてきた場面でおそらく数百から数千の人とかかわると、
その過去の人と、雰囲気と身なりが似ていると、同じような性格なのではないかと
推定してしまう。大学に入って一番驚いたのが、そのような見栄えのステレオタイプが
知性とは必ずしも相関せず、むしろ情動的な部分にのみ関わると気が付いたことだ。

バカに見える格好もあるが、見た目は精神的なポーズである。どうみて欲しいのか
というポーズである。もし自分をこう見せたいという願望があるならば、ポーズを
作り出せばいい。それはきっと、自分を助けてくれるだろう。声をかけてくる人を
選別する手段でもある。

ステレオタイプがどれほど合理的かはわからないが、少なくともまったく使えない
手段でないからこそ、これほどまでに流布される思想なのだと思う。その意味で、
スタイルによるステレオタイプをはぎ取る「学生服」というものは、人の精神的な
ノーマルな状態を眺めるための装置となるのかもしれない。

その一方で、制服自体がステレオタイプを創出する。医者の白衣にしても、スーツに
しても、そこに目的遂行のスタイルを想定させるという意味では、ステレオタイプを
創出させる。だが、その中身は様々であることも我々は知っているのである。
よって見た目のステレオタイプとは、定型であることに端を発しているのである。

一方で、行動としてのステレオタイプはちょっと違う。どんな行動を起こすかは、
実はその人の本質的な性格である。その評価において、人はある種の仮定をおく
癖がある。それはあることを過大評価し、ないことをマイナスに評価するということだ。

怒りっぽい人がいれば、その人の性格は怒りっぽい人というステレオタイプが創出
される。だが、怒りっぽいのは、周りが怒らせるようなことを頻発させているだけ
かもしれない。よって彼もしくは彼女が怒りっぽいのは、その人の性格ではないかも
しれない。これが出てくる行動を過大に評価する原因になる。

一方で、いつも反応が乏しい人がいる。同意を求めても、芳しい言葉が返ってこないなどである。
すると周りはこの人をおとなしい人だとか、関心がない人だと評するようになる。
だが、本質は違うかもしれない。誰かの言説に同意できない場合にとるべき態度はいくつかある。
この出す態度の問題かもしれないのだ。誰かにとって、この手の話題にはこういう反応を示すもの
というステレオタイプが存在する。ところが、それに単純に同意できない場合もある。
心のおけない間柄であれば、反論も行えばよい。だがそうでない場合や、内容がどうでも
いい場合は受け流すのが普通のやり方だと思う。よって行動としてそっけない態度になるか、
話題を変えようとするという行為になる。

困ってしまうのは話し手が重要と思っていて、周りがどうでもいいと思っている場合に、
話し手が聞き手の状態を推定できない場合である。話題に興味がないことなどいくらでもある。
その際に出すサインに気が付かない場合に、誤解が生じるのだ。

話し手と聞き手は、当然立場が違う。そしてたいていのコミュニケーションはただ、
言葉のやり取りをしたいだけの場合が多い。だから、聞き手は話題に賛同できなくても、
なんらかのリアクションを示すべきなのだ。それを気をつかうと世間では呼ぶ。だが、
気をつかえばいいわけでもないと個人的には思ってしまう。

個人的には、世間とずれた考えを持っているために、しばしば誤解を受ける。
ずれた考えを表明すると面倒な反発をくらうし、かといって意見をださないと
無関心というレッテルを貼られる。だからといって、自分の意見を変えて相手に
合わせるという行為に価値を見いだせないでいる。うーん、客観的にみて面倒な奴である。

個人的な考えでは、意見が違っていて良いものは摺合せの必要なしなのだが、
どうも世間はそうは考えないらしい。同調するか否かが問題となることがしばしばである。
そして、なぜか一部が同調できないと、存在を否定してくるのである。

例えば私はトマトが好きであるが、案外トマト嫌いがいる。こういった場合、トマトを好きに
なれ!とは言わない。ただ、そういう人もいるんだなあである。これが意見の相違を許容する
態度であり、それと個人的な付き合いとは別問題である。だが、例えば府知事の橋本氏に
賛成か反対かとなると、話が変わってくる。橋本氏に賛成といえば、反対派は全面的に抵抗
するであろうことが予測される。すると、多くの人は風向きをみて、多勢に無勢であるほうを
選び取ろうとする。そうでない場合はつまはじきにされる可能性があるからだ。なぜ、トマト
と同じにならないのだろうか?

残念ながら、個人的な悩みは解消されない。誰もがこうであると考える場面において、
私は別にそうではないと答えることに常にジレンマを感じる。普通の人は、自分を隠して
同調するのか、それとも素直に同調できるのであろうか?気を使って相手の機嫌を損ねない
ようにするというのが処世術なのだとすれば、自らの意見など取るに足らないものであろう。
だが、同調したところで何になろうと思うのも事実である。

よって、いつもやってしまう行動は、あたりさわりのない態度をとるということだ。
あえて反発する必要はない。波風を立てる必要はないだろうから。といって、自分の心情を
無視して同調することもない。妥協案なのであるが、これも欠点があって、「無関心」と
受け取られるのだ。あの人はあれに興味がないなどと評される。多くの場合はあれには
人間関係が入ってくる。

どうも自分は人にあまり興味がないらしい。だから人を研究している気がする。
自分がどうにも浮いているという感じがある。それはもっぱら、同調しないという行動様式
にあるのではないかと最近わかってきた。同調しないなら反発すればまだましかもしれない
のだが、波風を立てるのもキライなのである。よって「人間関係に関心がない人」と思われて
おくというのが個人的な処世術になってしまっている。その結果、その手の話題は私には
振らないということになった。

さて話をもどそう。つまり人は大方ステレオタイプで人を見る。その当てはめ方が
間違うことは往々にしてある。特に外見のスタイルだけでは、見誤ることが多いだろう。
そして人は無いものについては関心がないと推定し、あるものについては課題に評価する。
よって、戦略としては、とにかく自分の興味は振りまいておくことだ。世の中には、
興味がないことの方が圧倒的に多い。だから、興味があることを振りまいておけば、
そこにひっかかる人たちが出てくる。そしてそれが人間関係を築いていくのだ。
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