人が余っている? [思考・志向・試行]

以前にも書いたが、
97年の消費税率アップが自殺者の増加を招いた。

毎年、3万人もの人間が自殺をしてもなお、日本の状況が変わらないことが、
10年も続いている。これは皮肉にも人が余っているからと判断されるべきことだろう。
でなければ、論理に合わない。

少子高齢化だといいながら、少子化にほとんど対策を打たない。
少子化対策の本質は、保育園や子ども手当を出すことではない。
本質は、社会の構造を安定化し、若者が元気に働ける社会を作ることである。
しっかり働けるのであれば、必然的に少子化にはどめがかかるだろう。
問題を見誤ってはいけない。

ではその安定的な社会とは何か?
まずは大企業優遇の政策をやめることだ。
税制として、なぜ一番設けているはずの大企業から多くとらないのか?
一方で、生活のために数百円をケチっている主婦からお金をとるのか。

論理として、大企業が仕事を作り雇用を作っているというわけだろうが、
もう現状として仕事を作り出せているわけではないではないか。
もし、本当に仕事を作り出せているのなら、誰も就職氷河期などと言わないだろう。

今、過渡期である。
小泉内閣は、アメリカのいいなりに多くの規制を緩和した。
あるべき緩和とあってはならない緩和がある。

大企業の社長ともなれば、多くの賃金を手に入れる。
それがさも当たり前化のようにのたまうヒルズの社長もいるが、
そんなのは全然当たり前ではない。それだけの価格差をもらうだけの
能力差などありはしない。ただ少しだけわめいているのがうまいに過ぎないのだ。

人間としての在り方は人の能力そのものではない。
能力をいかに他人を喜ばすために使えるかである。

アメリカでは所得の格差が900倍もある。
日本はまだ10倍程度だ。
これが倍になるのは時間の問題だろう。
それに相当するだけのすごさをもつ人間など一人もいやしない。
すごい犬がいても、それはしょせん犬にすぎないというだろう。
同じことである。

結局の所、このようなことはすべてシステムから来ているのである。
日本的システムは現状、毎年3万人もの自殺者を作り出すようにできている。
そういうほかない。

その要因は、人を人として扱わないシステムにあると思う。
他人に大切にされたいのであれば、自らが大切にするしかない。


さて本題に入ろう。
自殺の本質は、自殺そのものではない。
自殺に至る動機である。

つまり、自殺は社会的なバイオマーカーであって、そのこと自体を対策しても
本質的な解決策はない。必要なのは自殺が多いということの意味である。

結局ところ、社会的な病理であるということを考えなくてはならない。
それは「制度的に」人が殺されていると考えるということである。
自分の責任として、この現状を引き受けるなら、どうにかして、
現状をかえねばと思うだろう。誰も変えようとしないくせに文句が多いのは
問題である。

結局人は安きに流れる。それは世の常である。
今日の怠惰が、明日の自殺者を生む。
この因果性に異を唱えるなら、あなたは現代をどうみるのか?

あなたが、わたしが日々人を殺しているのである。

そのような自覚のないものは、人として屑である。
自らが生き延びればよい。という発想ではいずれ滅びる。

サルトルの言うように、アンガジェ / アンガージュマン(政治参加もしくは社会参加)に
よって、自らの行動が社会を規定していくと考え直す必要に迫られているのではないか?

多くの人は自分の無力さを言い訳に、行動を起こさないものである。
結局、暴利をむさぼる人間と何も違わないのである。

人が人らしくあるために、理想を描くこと。
これが始めの一歩だと思う。
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