ポストコロナー資本主義社会の有り様ー [思考・志向・試行]

人口増加のフェーズでは、資本主義という社会制度はよく適合し、社会を「豊か」にした。
しかし、物量に限界がある世界だ。都会で家を買って住みたいと思っても、需要が過多になり、
価格が高騰した結果、誰も住めなくなった。そして、郊外へ郊外へと人々は追いやられた。
その最大の理由は資源には限りがあるという事だ。土地という有限性によって人々の行動は
制約される。

資本主義がうまく回っていた時代とは、都市へ向かって人が流入し人口増加が続いた時代である。
端的に言えば資本主義の成功の理由は人口の増加であって、他の要因はサブである。日本が
すごかったとか、日本型経営などと言われていたけれど、それは資本主義の合理性にたまたま
日本人の振る舞いが適合した結果であり、内実的には国主導の計画経済がうまくハマっただけ
のことだった。

アメリカなど諸外国や、国内的には物品が足りていない状況があった。つまり人々が
都市に移動しそこで耐久消費財を欲していたわけだ。それは共同体から乖離し、個人となった
人々が個々人においてものを欲したがゆえだ。そこへ向けて様々な物品を届ける事。それが
時代の要請であった。とにかく物品を作る。そのためには、兵士のように労働者が同じ事を
繰り返し、製品を大量に生産する事が大事である。日本は国を上げて、労働者を作り出し、
物品を作り出した。一方で、資本主義のメリットの一つとして、労働者がまた消費者となる
という性質がある。労働者が対価を得ることで自分たちが作り出した物品を手に入れるという
事だ。資本主義は労働者を作り出したが、消費者も作り出したというわけだ。

こうして労働と消費が両輪となり、資本主義を加速させていったわけだが、ここに有限性が
立ちはだかった。人の生活には物理的空間が必要である。始めは郊外へと広がった都市。
横への移動が何十キロにも及ぶようになると、今度は縦方向へと空間を押し広げた。これが
都市空間の動力学だ。どのようにして空間を人々に割り振るか。だが、それにも限界が
出てくる。そして、そのような特殊空間を維持するにはコストがかかる。

結果として、コストがかかるようになると人々の増え方にも陰りが出てくる。戦後の
ベビーブームはまさに産めよ増やせよで、人が増えてきた。だが、人が存在する事に
コストがかかるようになった。都会への流入は停滞しはじめ、労働者が核家族化した
事で次世代の労働マシーン兼消費者である子どもたちを確保できなくなってきたのだ。

利益を得られるなら、かつての行動は遂行できる。既得権益はこれだけを考えた。
不足しているのは、本質的には空間という資源である。だが、そこには目をつぶった。
目を完全に逸した。そして不足とは、労働力でありモノ資源であると断定して、それらを
確保する行為に耽った。それが資本主義の「中年の危機」だ。気がついているのに、
気が付かないふりをする。本当の中年の機器とは違うのは、否認することである。こうして
嘘つきや、本当に分かってない愚昧な連中が世にはびこることになる。

テーゼ:資本主義の足かせは、空間不足そして資源というモノ不足。

資本主義の本懐である利子は絶対的に不足を生み出す。その不足を
資本主義的に解決できるうちはいわゆる「発展」が起こる。しかし、資本主義自体の
性質によって、確実にあらゆる場面において有限性が問題となるのだ。

その理屈は非常にシンプルで、資本主義の駆動力は金という実体のない存在に依拠している
ためである。資本主義の原理が虚無であるゆえに、現実の社会、モノがある社会と齟齬を
きたす。人間の頭の中にしか資本主義というものは存在し得ない。その金を生み出す原動力
の根本は、環境である。

太陽と土地つまり空間と資源。

これに尽きる。太陽は人類が存在している期間においては不足を感じることは少ない。
(氷河期などの例外が出てくるのだが。。)一方で、空間や資源には不足が生じる。
正確には、不足するような使い方を資本主義が要求するとでも言おうか。

不足しているなら、増やせばいいと考える。人とは愚かなものだ。
労働者が足りないなら、あぶれている人間を補充すればいい。
資源がないなら、資源を作り出せばいい。
空間がないなら、空間を増やせばいい。
土地がないなら、土地を増やせばいい。

そして、全てにおいて問題を引き起こしているのが21世紀だ。
大航海時代の不足は、人という資源だった。その資源をいわゆる先進国は、
奴隷としておもにアフリカや南米から人間をほぼタダで輸入することで、不足を解消したのだ。
続く、イギリスの発展は、奴隷貿易で稼いだ資本を機械という「労働力」につぎ込む事で、
その不足を解消した。資源は他国から略奪した。エネルギー資源だけでなく、土地そのもの
をだ。それが植民地主義である。生み出した兵器を背景に土地の略奪を行うことで資本主義は
発展したわけだ。そうしているうちにヨーロッパ及びアメリカとぶつかり合う事になる。

日本はその余波として、ペリー来航からの混乱に突入し、2つの大戦を経て今に至る。
そして資本主義の思想は戦後日本のエートスとなり、精神の髄まで日本人の心に染み込んだ。
もはや、それが以外を考慮するのが不可能なまでにだ。

もちろん思想的反発はあった。それがマルクスら、社会主義・共産主義であった。
マルクスは、資本主義がいきつく先に幸福はないと訴えた。そして、資本主義の末路には、
富裕者と労働者という乖離が生まれ、その不満によって革命が起こると予言した。これが
正しいのであれば、現代はまさにマルクスの予言の前夜にいるだろう。我々は今こそ、
マルクスを再考し、21世紀の指針を考え直すべきといえる。

余談だが、この共産性とファシズムが結びつくことで、ソ連が生まれ共産主義圏が創立した。
強い独裁が公平な社会を築くと。それは人間性を無視した合理性である。今や、国家という
形における共産主義はトータルとしても不幸な仕組みであろうという見解が正しいと思われる。

問題は、マルクスによる資本主義内部の搾取構造の議論と、中国ソ連や北朝鮮などが標榜する
公平性社会にはかなりの乖離がある事を、多くの人たちは知らない事だ。マルクスの分析は
我々に多くの知恵をもたらす。「赤い国」の人々を嫌悪する事の一貫にマルクスの成果を
埋没させてはならない。

とはいえ資本主義との対立において共産主義は敗北し、いまや共産圏ですら、資本主義的
市場を利用している。正確に言えば、これらは別段対立項ですらないのだが、そのような
話は別の機会に。


話を戻そう。現代の問題はすべてがリンクしている。「不足するなら増やせばいい。」
からの帰結なのだ。しかし増やすためにはコストがかかる。時に金が、時に人の命が
利用されてきた。資源も大量に投下された。資本主義はつかの間の祭りのようなものでしか
ないのだ。不足を補うという行為は結局、あるところから奪うという事に過ぎない。
その動機は、つねに、時間に対して級数的に増える利子という資本主義的問題なのだ。
拡大再生産をしないと、できないと空間を奪われるという恐怖に対する強迫的行動の
ゆえなのだ。


例外もある。現在、発展中の産業はなにか。そう虚無な存在こそが発展している。
時空間を乗り越えられるもの、ネットや情報産業である。いわゆるITだ。

ITには資源はさほどいらない。人の不足はマシーンが補う。土地や資源は不要。
そして、作り出したものは実体がないがゆえ、大量にコピーすることができる。
それも劣化なしにだ。

足りないなら増やせばいいの論理のいきつく先の一つがIT社会、デジタル社会である。

級数的に増える利子というバーチャルな金の世界。その対としてデジタル社会が発展するのは
ものの道理としてごく自然である。デジタルもまた虚無の世界なのだから。
ただし、デジタル社会は生身の人間が支えているが故に、級数的に労働力を供給することは
できない。よって、いずれこのバランスは崩れ、資本主義はいよいよ自滅するだろう。

ところが、昨今AIが発展しつつある。AIは人々の論理思考を遥かに凌駕する。人の経験
認知というものも取り入れる事ができる。ルールすら学習し、行動に応用することができる。
この存在は、級数的に増える利子に対して、労働を供給する可能性を残しているのだ。

もちろんちゃんとITにもネックはある。有限性の壁だ。それは電気である。
太陽エネルギーを固定化した石炭や石油が枯渇すれば、大量のエネルギーはもはや太陽から
しかやってこない。それか原子力発電を行うかだ。いずれ決着しなくてはならないのが
エネルギーの供給の有限性である。

これらの事柄の根本に資本主義システムがあることは気に留めておく必要がある。
(資本主義システムの根本は、資本家という胴元が基本的に勝つゲームだという事。
 そして、それを明確に訴えたのはマルクスである。マルクスの基本定理によれば、
 利潤があるところに必ず搾取があるという事なのだ。そもそも、資本主義を維持する
 動機は庶民にあるのだろうか?と私は問いたい。)

さて、本題に入ろう。ポストコロナはどうなるのか。そもそもコロナは何を阻害したのか。

資本主義は、労働という資源を利用して、金という資源を集める事で動いている。
利潤は誰かの労働に由来する。そして常に利潤を上げ続けないと倒れてしまうシステムだ。
よって、常に走っていることが大前提なのだ。

また、都市空間という存在も重要である。利潤を増やすという個々人の動機により、
都市への流入と核家族生活という優秀な消費者の集合体という意味がある。

コロナはこの2つを分断する。コロナ蔓延による余波で「ソーシャルディスタンス」という
不可解な言葉によって表現されるように、人と人の距離を強制的に広げるわけだ。

一つは労働搾取の停止である。通勤ができなければ、労働できない。労働ができなければ、
利潤があがらず利益は出ない。よって資本主義は打撃を受ける。もう一つは都市機能の麻痺
である。都市空間ではその性質上、人口過密であるために、屋外へ出ることはコロナウィルス
罹患のリスクになる。結果として、外出は減り、人々は引きこもりを余儀なくさせる。

原理上立ち止まれない資本主義が今まさに強制的に半停止しているのだ。
そして、消費者としての人々の活動も制限されてしまった。
これは未曾有の危機といっていい。経済という観点から言えば。ましてや資本主義という
観点からいえばだ。

この状況は数ヶ月で収まるだろうというお花畑な日本政府および日本国民の愚かさは
いうまでもないが、これが数年も続けば当然、資本主義は首がしまる。たかだか数ヶ月でも
かなり影響が出てしまった。

身近な所で言えば、近所の商店の廃業。あらゆる客商売の商店はピンチを迎えている。
路面店という存在はかなり苦しいだろう。そして生活を潤わす嗜好品を供給する産業は
もっと苦しいだろう。金が回らない社会において、余分な事をやっている場合じゃないからだ。

今後もっと苦しい状況に追い込まれる人々が出てくる。我々はそれをケアできるのか?

一方で、儲かる産業もある。食料周りや通販型の産業である。
もちろん、これらは今の所という短期で見るほか無い。在庫があるうちは、とか、食料供給が
なされている間はという限定である。コロナによって生産が滞ってくれば、そんな事を
いってはいられない。アマゾンが稼ぐことができるのは、今までの備蓄があるからで、
コロナで労働が抑制されれば、商品をならべることができない。

実際的には労働の一部が止まったわけだが、その余波は全体に及ぶ。とりわけ消費活動が
抑制されれば、大きな痛手となる。

ではもっと大事な人々の命はどうか。

やや不遜な事を述べよう。資本主義の問題点として空間のコストを上げた。つまり土地だ。
居場所の事だ。多くの人は労働の大部分をこの空間・居場所に対して行っている。人生で
もっともコストがかかるのは家である。つまり空間だ。空間を確保するということで
多くの人の人生は決まってしまっている。

コロナはこの場所を広げる役割がある。むしろ、都市における過密な状態こそ、コロナの
好物である。コロナが蔓延し、緊急事態宣言がだされた場所がどこだったのか思い出すが
いい。まさに都市だ。コロナとは資本主義への適応ために作り出された都市にこそ影響を
与える存在である。

そして、コロナによって少なからず、都市空間が疎になる事は疑いようがない。
自然現象として、増えすぎたものが他の生物によって駆逐されるのは当然の作用なのだ。
コロナは考えようによっては、増えすぎた人口をバランスするために生まれた存在かも
しれないのだ。

図らずも、老人がもっぱら亡くなるという。まさに老後対策ではないか。
これから生まれくる子どもたちにとっては、ヒト社会にバランスをもたらすものとして
認識されても不思議ではないのだ。

もっと人が人として扱われる世界であれば、コロナもそこまで感染しないだろう。
コロナウィルスが蔓延する最大の理由は、都市化そのものにあるといえる。


コロナは労働不足を招く。それを補足しようというのが人々の行動だ。
ポストコロナによって、在宅ワークが増加するのは間違えない。少しでも労働をさせようと
するのは経営者の腕の見せ所でもある。

その在宅ワークは電気や通信網に依存している事を忘れてはいけない。
その維持もまた労働に依拠する。結局、さしあたってのコロナ対策は、誰かの労働の
賜物なのだ。 我々は彼らに感謝しなければならない。
それは全力で取り組んでいる医療従事者にもいえる。ありがとう。



さて根本に立ち返る。不足を補うという行為の源泉は、資本主義の維持にある。
つまり現状維持だ。人々は変わりたくない。変えたくない。だから、現状維持のために
不足を補おうとする。そのためにコストを掛けるし、それをペイさせることを考える。
だから第三国問題が生まれるし、植民地主義になる。

私が思うに、コロナを機会に、資本主義のあり方を見つめ直すべきなのだ。
資本主義を何がなんでも維持する必要がどこにあるというのか。金という制度を維持する
事はそこまで大事なのか。少なくとも、もっと修正される必要があるのではないか。
とくに利子という拡大再生産の動機は見直されるべきではないかと思う。

こういうとじゃあどうしろと?というかもしれないが、例えばイスラム圏をみれば、
利子がなくても社会が回ることは明らかだ。

共産主義はともかくも、共同体を核にした社会制度はマイルドな資本主義においても
実現可能ではないか。私はそう思う。

国家という幻想に囚われすぎている。そんなものは伝統でもなんでもないのだから。
今から400年前なら、国などなく、地方に分割されていたし、5000年前なら、みんな
好きな場所に暮らしていた。

国という単位で、しかも資本主義という単位に生きているのは我々の歴史上ごく最近の
話であり、それが唯一ではないのだから。

引き続きコロナと社会については考えていこうと思う。
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