デンジャーゾーン [思考・志向・試行]

様々な所で、鬱憤が溜まった人間たちが、その勝手な恨みを晴らそうと
声をあげ、行動を始めた。それは新元号がきっかけと言えよう。

今後の日本は悲惨な事になる。それを国民は看過してしまったのだ。
現政権が一種のカルトであると知りつつ、なぜか彼らを支援する一部の連中たち。
そして、多くの人々の無関心が、彼らを自由にさせてしまっている。

本気で分からないのは、安倍内閣が次々と日本の国益を削ぐような政策を行い、
アメリカや諸外国に富を垂れ流しているのにも関わらず、怒れる国民は多くない。

現政権は日本を良くするという意味においては全く無能である。
一方で、アメリカに奉仕するという点においては、百点満点といえるだろう。
何を安倍がやっているのか、それは明らかだ。

安倍がやりたいのはただ、憲法を改正し明治期の軍国主義を取り戻すこと。
それが日本のためであるという歪んだ信念に基づいている。馬鹿である。
だが、その愚かな信念と、アメリカが要求する事柄をバーターさせ、アメリカは
日本を食い物にする。アメリカは馬鹿な総理大臣であるほど、利益が増えるので、
これでよいと考えてる。一番、影響を食らうのは庶民である日本国民である。

税金を企業へとばらまく。特殊法人はそのためにあり、そこに官僚が群がる。
それを露骨にやり始めた。だから、安倍を忖度する組織は金が流れる。そのように
恫喝し組織を動かす。そのための内閣人事局であり、最高裁判事の任命権である。
安倍は立法、行政、司法を自分たちの仲間で固めるという手法を使っている。
もはや、国民が正当な手段で安倍政権的なものに太刀打ちはできないのだ。

こんな事を許すような仕組みに誰がしていたのか。
戦後の成長期を経て、人々はただ安定的な金儲けのために身を捧げてきた。
ここではおためごかしは不要なので、はっきり言えば、無駄な人生がたくさんあった。
そうして政治をタブー視し、人々をただ経済の奴隷にしてきた。

その中で経済が回らないとなったとき、経済界が国に泣きついたのだ。
そこに癒着が生まれ、その癒着こそが批判の芽をつむという行為を正当化した。
メディアはもう政権批判をしないのだ。そして政権批判するものたちは
悪という概念を埋め込もうとしている。良心あるメディア人がゲリラ的に
暴露を繰り返す。しかし、本当の諸悪をメディアは報じない。つまり、
庶民としては、メディアは信用ならないものであると断じておくことだ。

戦前にあさひ新聞が犯したように、様々なメディアはすでに萎縮し、
政府の宣伝機関になってきた。

我々は既に目撃している。日本政府が「極右化」したということ。
まずはこれを認めよう。既に政府機関は染まったのである。国民のごく一部は
その思想に賛同し、他の多くの人々はくだらない仕事に精を出している。
そんな仕事をやっている暇があるなら、安倍政権の酷さを知るべきである。
それは国民の義務とも言える行為だ。

しかしながら、多くの人々はまるでお上には逆らわないという家畜根性で、
唯々諾々と支持に従う。8%から10%に増税するといえば、イエスと返事をし、
保険料を増額するというならまたイエス、介護保険の給付を減らすといえば、
イエス。国民にとって何一つ益のない政策に反発しないのはなぜか?

奴隷だからである。何をされても反抗しない。反抗しないでいれば
良いことがあるとでも思っているのか? 馬鹿らしい。

黒人奴隷たちは、無気力で奴隷であるべき人々であると白人に思われてきた。
なぜなら、従順だからである。それは恐るべき報復を避けるための演技である。
しかし、その結果として、その関係性が定着してしまった。そして数百年に
渡る屈辱の歴史に身を沈めてきたのだ。

我々もこのまま状態を放置すれば、発言をすることすら禁じられ、
かつての黒人のようにただ国の資産を増やすために生きることになる。
現代日本人はある側面からみれば、奴隷化の一歩手前まで来ているのだ。
反抗の手段を禁じられると、どうなるか。


分かりきったことだが、きちんと記しておこう。
現代に起こっている一部の犯罪、孤独から生じる犯罪は、ある意味で警告である。
彼らは社会の歪において、現れる不幸な存在だ。そういうやり方でしか生きられないと
思い込んだからだ。そして、我々「普通の人」は彼らを特殊とみなし、自分には関係ないと
きって捨てている。しかし、同じ穴のムジナである。

国家という仕組みは労働者の拡大再生産を目指してきた。そのためのシステムである。
その目的の結果として、我々は存在している。まずはそれを認めないと始まらない。
つまり、国という管理者がいるゲージに押し込められた豚ないしは牛のようなものである。

はっきりいってしまえば、我々は奴隷である。自分の意志で生活を作り出しているとは
いうが、その裁量はごく限られた所にしか生じない。スーパーで鮭にするか鯵にするか。
そのくらいなものである。もっぱr仕事をして労働力を売り飛ばし、その儲けの一部を
手元に得る。そういう存在である。現代では、自給自足の人はほぼ絶滅した。日本では
ほとんどの人は、金を稼ぐ存在になったのだ。

金を稼げばいいんだろ? と短絡的に思ったとしても、大枠から逃れたわけではない。
どんなに大金持ちになっても、国という規定から逃れることはない。あくまで国家に
取り込まれた人間として、国家のために人生の多くを使う存在なのである。システムは
それを要求しているのだ。これはもう生まれた瞬間に決まっている事なのだ。

よって、日本に生まれ、日本で暮らすということは事実上、国の奴隷である。
その支配される割合の程度問題なのだ。いくら仕事とはいえ、24時間中、縛られているわけで
はないと主張するかもしれない。本当にそうだろうか? 多くの人が快楽のためセックスして
生み出した子供は、ある意味で労働者の再生産である。生活のための行動はすなわち消費で
あり、その消費は国を回すための経済活動になる。自由にしているはずの休日は、仕事の
ストレスを発散するためにあり、仕事から逃れられてはいない。

その仕事自体がよき自己実現であり、自由選択の結果ではないかというかもしれない。
本当にそうだろうか? 自由に選んだ仕事なのか? ただそこに仕事があったからじゃないのか?
仕事が遊びみたいに見えたとしても、その仕事の大目的は金を得る事である。労働の提供である。
労働の提供こそ、金に変換されるからだ。それは社会的な枠組みにおける要請された活動である。
結局、誰かが作り出してきたシステムに絡め取られたに過ぎない。

本来的な仕事とは、生活である。生活とは衣食住を確保すること、気の合う仲間と過ごすことだ。
それに100%の力を注げば良い。しかし、現代的な仕事とは必ず国家に承認された行為であり、
国家が許可しなければ、事業ができないのだ。その事業の一端を労働者は担っているに過ぎない。

我々は見えない鎖に繋がれている。何をするにも、対価を払わなければならない。それが
国という中で生きる人間たちの悲哀である。まあ、人によってはそれを希望と呼ぶ。もしくは
チャンスであると。だが、どの生き物が政府に税金を払っているというのだろう? 国家集団に
とって構成員は、ひたすらに手段に過ぎない。国家という人格は存在しないが、近似的には、
国家を支配する少数の者たちがいる。陰謀論ではない。制度として、社会を牛耳ることが可能な
人間がいるという意味だ。

例えば、竹中平蔵は、パソナという人材派遣会社にいる学者がいる。彼は派遣会社に都合のよい
法律を作るよう政府に吹き込み、その法律に従って派遣会社を経営する。これは陰謀でなく、
事実である。彼はおよそ、代表例の一人に過ぎない。多くの経済界の人間たちが政治に近づき、
そこで自社に有利な政策を推し進めるようにキャンペーンをはるのだ。法律ができてしまえば、
あとは、公権力を背景に金儲けを行えばいい。アメリカでは、こういう行為を回転ドアという。
企業人が政府の人間になり、法律を作成して、民間に戻るという方法だ。こんなものがまかり
通るのは国家が支配機構であるという証拠である。

このような事をやる人間たちが、牛耳る国というシステムは、国民から労働対価をピンはねする。
どれほど納めているのか、人々は小さな我慢をさせられている。本来しなくても良い我慢を
国にさせられている。消費税を筆頭に、あらゆるサービスに課せられる税を通じて、消費行為を
限定されているのだ。

国民は愚かである。このような害のある政府を批判すべきであるが、このシステムは巧妙である。
ずる賢い人間たちの利益の一部は市中に流れる。微々たるものだが、その恩恵を受ける。つまり
気が付かないうちに共犯になっているのだ。だから、害があるシステムを変更する事を望むと、
自分も損をするという構造なのだ。

目先の金に目がくらむ人々は、それに平然と加担する。「生活のため」「家族がいるんだ」等々。
誰も否定はできまい。そうやって、共犯関係にある国民は、害があると知っていても是正を
望まない。

また、現代ではメディアは政府の圧力を強く受けた。その結果、まともな情報を流すのをやめた。
TVキャスターは次々と代わり、政府の犬が増えた。何を握られたのか、何を人質にされているのか、
政府の言いなりになる事で利益を得ているわけだ。

庶民は、そのような事実を知らない。知るつもりもない。なぜなら庶民は今日の仕事だけ
していれば、生かしてやるという脅しに屈しているからだ。いや、大きなプロパガンダによって、
経済貢献する仕事をしている人間がまともであると思っている。そうやって自己満足に生きる。
他者もまたおなじ度量衡のうちに、仕事を志向する。気がついたら、虜になっている。「金儲けを
するなんて素敵!」という洗脳だ。そうして、如何に良い仕事につくのかという資格を得るために
リソースを割く。それが人生の成功であると幻想をおいかける。そんな事をしているうちに、
政府はあなた方の財布から、小金を少しずつ抜き取っていく。

取られるなら、それ以上に稼げばいいんだろとうそぶく。およそ自体を把握していない。
そもそも、取られること自体が人類史において、異常事態であると知らないからだ。

ルソーの社会契約論をまたずとも、日本人に生まれた直後から、国によって管理される。
戸籍に載せられ、成人をすぎると税を徴収される。生きるための負債である。生存税なのだ。

代わりに国は道路を作り、社会インフラを作る。そうして親切を押し付ける。
「お前らのためにインフラを作ってやったんだから、税を納めろと」こちらが望んだわけでもない
ものを次々に作り出し、金を徴収する。少なくとも私は頼んだ覚えはない。もっといえば、
日本に生まれることを望んだわけでもない。気がついたら生まれていたし、気がついたら
生きていた。

生は圧倒的に受動的である。その生を自らの意志で能動的なものに変換せよと哲学者はいう。
そこで、人々は世間のプロパガンダに染まる。金を儲けよ。税を納めよ。である。

一方で国は労働をさせるための仕組みを構築する。そういう雰囲気を構築する。
それが幸せなのだと言わんばかりに。そのようなパターナリズムにはもう辟易した。

意志をもった人間として、国とはどうあるべきか、再度考えるべきだろう。
社会契約論は、おためごかしではないか。権限を移譲した?? 馬鹿な。 そんな選択など
した覚えはない。そうではなく、生まれて瞬間から国から、経済的奴隷として生きよと
囲われていた。選択などありはしない。’自由’などありはしない。それが国に生きる者が
負った人生である。

国があることが、素晴らしいことなのかどうか。無批判に生きる人間にはどうでも
よい問いかけだろう。また、このシステムに満足する人間にとっては何を青筋を立ててと
思うことだろう。まさに、満足するとは何かの問題なのだ。


数多くの先人たちの声をきけば、このシステムに満足するとは、まやかしである。
奴隷として立派に生きました。それを信奉するのは一つの価値観である。逆に言えば、
どんな風に生きても、満足可能になる。それは心持ち次第だからだ。一種のニヒリズムである。

逆に言えば、この世界は不満足になるように常に駆動しなければならない。
でなければ、労働しないわけで、それで困るのは本人と国である。ここに逆説がある。
国の存在性を担保するのは、人々の不満足である。満足する人間は危険であり、貶められる
べき存在なのだ。でなければ、どうして嬉々として仕事に勤しむというのか。

褒めてもらえるから、他者に承認されるから、そういう弱い心になったのはなぜか。
そういう風に貶めた人間たちがいる。それが事実である。その心が、努力を欲し、対価を欲し、
嫉妬を駆動し、黒黒とした心理を生み出す。本人の問題ではない。社会が要求する脅しである。

その脅しの根幹は、国に生きるという自己が囚われているという事実である。

国はほおっておいてくれないのだ。


誰にでも、自分の価値観で生きる権利があるならば、国に加担しないで、日本という土地に
生きる権利もまた存在する必要があろう。むろん、そんなものを許容するはずがないのだが。

現代日本に適応的というのは、自分が経済的奴隷であるという事実を肯定し、その立場に
おいて自己利益最大化するために行動する事になる。これを意識化できない人々がたくさんいる。
意識化できないから、何が心の問題なのか理解できない。理解できないが、そのために常に
不安であり、不満足なのだ。自らが適応した事で、自ら不満足な人生を生きている。
あらゆる場面において、満足できる人間もたまにはいるだろう。しかし大抵の人は不満足である。

みんな不満足で死んでいく。


根本は、国に支配されているという構造である。生死を国に委ねて生きる。それで満足する
のは相当な幸運が必要である。ならば、我々はもっと好き勝手に生きるべきではないか。
国のいう事に反発するべきではないか。それが、我々のためにならぬのなら。

社会人の殆どは、洗脳済みのでくのぼうである。およそ私もその一部だ。
しかし、彼らと私が決定的に違うのは、自覚しているという事である。
自覚できる人間はほとんどいないのではないかと私は睨んでいる。

目覚めた人間としていえることは、およそ恐ろしいという事だ。
大抵の人間が異常者にみえるという事だ。異常な事をやるのが異常者ではない。
異常だと思うことを信奉し、無批判に生きている事ほど、恐ろしいものはない。

大衆は時におそろしい事をしでかす。ホロコーストとか、南京大虐殺などを持ち出さなくても、
身近なところに、悪意の発露を見いだせる。無自覚の悪意は、修正が聞かない。その意味で、
とかく適応済みの人間はおそろしいのだ。実に簡単に、操作されてしまうのが大衆の恐ろしさ
である。

だいぶ文句が過ぎたかもしれない。だが、これだけ書いてもまだ理解しないし、
できない。それがまた怖いのである。

アインシュタインは「常識とは18歳までに取り込んだ偏見である」といった。
まさに、大人は偏見の塊である。常識がゆらぐのはせいぜい、大病を患った時くらいだろう。

大病を患い、命の危機がせまったとき、目を覚ます人もいる。だから彼らの言葉は
時に感動的なのだ。一方で、何もなく世の価値観に身を委ねた人間は、死ぬまで自分が
何者かを知らない。屠殺されるまで、まさか自分が家畜だったとは豚は思わない。

知らないほうがいい事も多い。世の中なんて、そんなものさ。
うそぶく大人の背後から、私は囁こう。フェイクなる人生に価値など無いと。
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