いわさきちひろー純粋さと自由ー [思考・志向・試行]

いわさきちひろ絵本美術館に行ってきた。

あの絵本の人である。最近の人だとずっと思っていたら、
1918年生まれであった。そういう視点で見直すととてもモダンだと思う。
子どもたちの絵が多いが、彼らの服装などは、決して古くない。
髪型も、どこかしらオシャレである。きっと、岩崎氏の視点は少女のようで、
大人でもあったのだ。

岩崎ちひろ氏の息子である松本猛氏の著作「いわさきちひろ」を読んだ。

そこに気なる事柄を見つけた。それは岩崎氏の受けた教育のことであり、
彼女の波乱万丈の人生である。

高等学校には、丸山丈作という第六高等学校(現三田高等学校)の校長がいた。

彼の教育方針は先進的で、管理するのではなく、生徒たちを重んじていた。
得点化をやめ、4段階でのみ評価し、定期試験も止めた。不要な劣等感や競争心を
煽る事が教育の本懐ではないという判断である。そして、現代では軽視しがちな
体力増強に力を注いだ。また通知表もやめた。それが知りたい親がいたら、事前に
連絡するようにという仕組みである。

また、今では当然のように行われる修学旅行も、大胆に10日以上に渡る旅行であった。
それは当時の女学生が卒業後に遠出する機会が少なかったせいである。つまり、生徒の
現状を慮って物事が決められていたという事なのだ。本来的に、教育者とはかくあるべき
だろう。現代の教育者は逆に、彼らのために生徒がいるようなものである。生徒の成績は
先生の業績とみなされる。このような馬鹿げた仕組みが教育の荒廃を招くことは明らか
だろう。強制された勉学など誰がやりたいものだろうか。

http://www.wakaba-kai.org/pdf/maruyama.pdf

さて、丸山氏のような校長がいたためか、自由な雰囲気で岩崎氏は絵画に励んだらしい。
学校の成績をさして気にしなくても良かったためだ。この時に岡田氏に師事しデッサン等を
重ねた。これが、いわさきちひろ作品の基礎なのだと思われる。

岩崎氏の絵は今も多くの人々を魅了し、人々に影響を与えている。その人が生まれたのは、
シゴキのように絵を書かされたからではなく、能動的に自ら絵を書き、喜びをもっていた
からだ。現代の仕組みは、やはり創造性という点においても、かなり異常事態なのだと思う。
芸大などに入る子たちは、十分に技法がある。では、その技法がその後アートとして花開く
のか。私には疑問が大いにある。

一方で、いわさきちひろには、つらい経験がある。それは戦争だ。その戦争にまつわる
出来事は、彼女に大きな影を作る。彼女の両親は共働きであり金銭的に裕福であった。
また、親戚筋などにコネがあった。それがため、岩崎氏は戦時下においても、恵まれた
状況に身をおくことができた。しかし、それがために、果たしてこのままでいいのかという
疑問や、悲惨な満州での出来事が彼女を苦しめたに違いない。

自発的に思考し、それが純粋であったからこそ、戦後において彼女は共産党になった。
二度とあの戦争を繰り返さないようにと。その一方で、絵本がリリースされ、絵の仕事も
増えた。母となり、家族が生まれた。それは喜びに満ちたことだったのだろう。自らの
喜びと今もどこかで誰かが苦しんでいるという事実。このアンビバレントな状況に彼女の
創作の核があるのだと思う。


岩崎氏は主に子供を描いていた。とてもかわいらしい絵だ。しかし、そこに込められた
思いは戦争反対であり、苦い経験であったはずだ。どこか物憂げでもある子どもたち。
あなた方は、この子どもたちをまだ争いに巻き込むつもりなのか?と岩崎氏は問うている。

純朴な目でこちらをみつめる子どもたちの顔は、まさに岩崎氏なのである。
そして、なぜこのような存在を踏みにじるのかと。大事にすべきもの、愛すべきものを
ひたすらに絵にしたのだろう。私にはそう思えて仕方がなかった。
岩崎氏の核に備わった自由さは、時代に踏みにじられ、そこから絵画として回復したのである。


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蛇足ながら、つけ加えたい。負い目という感情の事だ。岩崎氏は明らかに自らに負い目を
感じていたと思う。他者が苦労しているのに、自分は比較的恵まれていた事、また自由さへの
意志があることが、どうにも出来ない状況にいる他者の存在への負い目になったのだろう。

ノブリス・オブリージュとは、高貴の義務であるが、岩崎氏の行動にはそういう思想性を
感じる。みんなが苦労し困っているのに、私は果たして、このままでいいのかという思い。
むしろ恵まれている事がかえって足かせのようになっている。作品を創作する事は、その
思いを払拭する事でもあったのではないか。共産党への入党も、このような思想的背景を
感じるのである。

きっと純粋だったのだと思う。高貴な魂をもつものは、自己犠牲をもって、他者の救済を
求めるものだ。それが貧しいものからみれば、鼻につく行為に見えるだろう。だが、どう
にもならなさは、お互い様なのだ。裕福であることもまたどうにもならない事である。

個人的見解からいえば、裕福なのにただそれを笠に着て、脳天気に暮らすのはただの
バカなのだと思う。成金とは心の貧しい人が金を抱えている事である。金持ち一家に生まれ、
放蕩する事もまた愚昧なことだ。なぜなら、どうしてその金が手もとにあるのかを考えた
事もなく、自分の当然の権利のように振る舞うからだ。裕福であるとは、どこかで搾取を
引き起こしたのだ。不当に利益を得たのである。

マルクスの基本定理から、利潤とは搾取である。他者の取り分を’合法的’に自分が得たからこそ、
金持ちになったのだ。自分がやらずとも、家族が祖先が、誰かがやったのだ。胸に手をあてて
何もやましい事がないといえる人は裕福ではないのだ。所有とはそういう仕組である。元来、
誰のものでもない土地や森を我がものだと我欲を突き通した結果である。当然、合法的であると
言い訳するのは分かっている。その法とは、組織における掟であろう。では掟は誰がきめるのか。
その起源はなにか。他者を支配する道具であろう。法とは他者の行動抑制のためにあるのだ。
その法に従って、利潤を得た何が悪い?とのたまうのが、金持ちの常である。

その一方で、金持ちにも苦労はある。金を保持し続けるという事だが、それもまたおかしな
事だ。イラぬことで苦労している。金など使ってしまえばいいのである。金があると人心は
狂う。権力欲が騒ぐのだ。よって金があると不要な苦労を背負い込むことでもある。物事は
一長一短である。

アメリカの誕生史には、入植者たちに配偶者をあてがう目的で、売春宿から多くの女性を
アメリカに送り込んだ事実がある。これをどう思うか。ひどいと思ったか、それとも、
売春婦なのだから仕方がないというのだろうか。二重の意味で酷い事である。社会的に迫害
されたものは、アメリカに行かざるを得なかった。また、ヒトがそこで望んだものは、
結局サル的なものであり、それを満たすために人が利用された。

生きるために否応なく、酷いことを受け入れざるを得ない事がある。金に操られる現代人は、
一生を金のために過ごす。言い換えれば、他者を操って生きる。多くの人を操れるほど、エライ
と言われるのが現代である。だが、それは猿としてのヒトの幸福とは無関係である。

経済的徴兵制は、生きるために人を殺すことである。生存を脅かすなら、他者を殺しても良い。
これを国が保証する仕組みである。一方で、権力者を殺したとしたら、死罪は免れないだろう。
それもまた国が保証する仕組みである。正義とはなんだろうか。危うい状況に佇んでいるのが
現代の我々である。国など信用してはならないのである。

さて、先のアメリカの話をなぜ取り上げたのか。実は日本も同じことをしたのである。
先の戦争において、満州国への移住者を日本は募った。美辞麗句をならべ、それが如何に
大変であるか、貧しいことであることを隠してである。

岩崎氏の母親は、満州国への移住斡旋をする組織にいた。そしてまた、岩崎氏とその友人たちも
満州へと移住したのである。その内実はなにか。それは同じく開拓団として、満州へ入植した
青年たちに嫁をあてがうためである。国が歌う希望には注意しなくてはならないのだ。

開拓団の帰国が見える数ヶ月前になると、強制的に見合いをさせられ、そこで伴侶を選ぶ
ほかなかった。何十分か前に始めて知り合ったような人と結婚したのである。そして更には、
戦争に負けたあと、日本に戻れなかった人は、生活のため中国人に嫁いだのだった。

生きるために自由を奪われた人たち。生きるとは、それほど必死なのである。
社会にがんじがらめになっても、なお人は生きてゆく。戦争は人のエゴをむき出しにする。
そのエゴに対して、身も蓋もない行動をとるのが人なのだ。理念などどこ吹く風である。

現代において、権利を主張できるのは、生きるために仕方なく人殺しをした人々の歴史が
あるからだ。そのような非道を繰り返さないよう、人々のエゴを調整する必要があるのだ。

満州国というものを現代日本ではまともに反省していない。だが、満州にいった岩崎氏は
確かにそこで人々のエゴを見たはずだ。そんなものにどうして、子どもたちを巻き込むのか。
その怒りと、哀れみが彼女の書いたたくさんの子供達からの訴えである。

私は思うのだ。結局、人はエゴでしか動かない。その時代の一番流行りの手法で、エゴを
主張するのである。釈迦はそれを捨てろと言った。確かにそれを捨てられるのであれば、
問題は解決してゆく。だが、人は愚かにも強欲である。そして、そのような強欲を強化し
続けた。強欲に終わりはない。だから資本主義は成り立つ。しかし、資源には限りがある。
全員が同じ様に強欲を満たせるはずはない。この不公平さが争う心を生み出す。公平な
リソースの分配が、争いを減じる手段である。いやむしろ、この不公平さが資本主義を
回す駆動力である。


資本主義が正常に動くには、強欲である必要がある。そして不公平がまかり通る社会で
ある必要がある。不公平を是正しようと<努力>するものがいるから、金が動き、金が
増え、労働量が増えるのだ。増えた労働量によって、資本主義的な意味での経済的な
豊かさが決まる。そして、既存の組織は、<努力>しようとするものからさらなる搾取を
行ってますます大きくなる。これを”社会的成功”という。

一般な人は、社会的成功を是とするだろう。だが、歴史的にみて資本主義的な意味での
社会的成功は、なんの成功でもない。それは搾取の成功であって、幸福の実現とは違う。
また、その成功は既存組織への貢献度で測られる。つまり奴隷としての優秀さである。
それが良いとされる社会で、それから逃れるのは不可能と言える。実際に逃れた人は、
生物学的な危機に瀕する。日本人として戸籍が登録されている者は、海外に出る以外には
この支配から逃れられない。番号のついた豚や牛のようなものといえる。

若者はこのようなエートスに敏感である。だから失敗を恐れる。現代のように個人が
問題となる社会では、いざとなると誰も助けてくれない。その結果として、自助努力が
生きる手段と思われてしまう。その仕組が用意されていて、その仕組の攻略者こそが
生存権を得られると。

それが国がばらまくデマコギーであると若者には理解されないのだ。何しろ、周りの大人も
また豚や牛であるからだ。そして、大人たちは自らがそういう社会を作り上げたことを無自覚
なのである。若い頃と現代がまるで変わったことに無知なのである。大人とは所詮そんなもの
だ。だから若者は自らが正しいと思う事を優先し、行動しなくはならない。大人の言うことを
真に受けていたら、それこそ生存を脅かされてしまうのだ。

現に、多くの若者が自殺をする。それは社会のせいである。だが、大人は自己のエゴを
むき出しにして、その事を否定する。金を十分に得るには勉強が必要で、上司にペコペコし、
従順に生きる事を求められる。それが人生と教える大人が多いからだ。そして、その仕組から
こぼれ落ちたと思うと、若者は絶望してしまうのである。それくらいこのデマコギーは強い。
なぜなら、国はその思想によって秩序立つからだ。それを失うような思想を恐れている。

本当の事を知る。現代に置いてはそれが一番重要なのだ。
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