行動と欲求 [思考・志向・試行]

フロイトは人々の行動をリビドーに求めた。
その本質は行為の駆動の主体は、自己意識ではないという意味である。
よって、フロイトは無意識に傾倒した。

我々の行動の多くは、欲求に依る。
欲求とは、その本質において身体による衝動である。
お腹が減る、恋におちる、睡眠をとる。
いずれも自分がやりたいことではない。自己の身体が追い求める所である。
よって、我々の行動規範は、この「本能」に基づくものだ。

人は社会的な動物である。そこで繰り広げられる活動の元になるのは、
人々の作為であるが、そのロジックは決してシンプルではない。なぜなら、
相手にも同じく状況によって対応を決めるという行為があるからだ。
その2つが時時刻刻と変化し合う事で、自体は複雑になる。だから作為は失敗に終わる。

作為性をなくすために、人々は文字を使う。情報化し外部化したものは、
我々ほどには変化しない。今日契約した商談は、書面上で変化しない。
こうして、我々は書面を用いて作為を示すことに尽力したのである。

本能と自己意識、まるで別なものであるように思われる。
一方は、勝手にやってくるものであり、もう一つは意図を用いて駆使するものであるからだ。
時に意図は、本能と矛盾する。目の前のゲームが面白くて、トイレを我慢するなどである。
明日の試験のために、眠いのを我慢して勉強するなどである。つまり、別口のシステムである。

事実、脳の活動して本能を担う部位と、意識を担う部分は分離している。
少なくとも、意識レベルを担う脳幹部と辺縁系と、認知処理を行う大脳新皮質は
別物だ。よって、我々は本能的欲求と意図を別々に駆使することになる。

とはいえ、それぞれの部位における行動原理は同じである。それは生命原理である。
生命原理とは大げさだが、簡単にいえば、「生き延びろ」である。
我々が持つ機能は全てこの「生き延びろ」につながっている。これを脅かす時、
人は必死になる。動物と異なり、人の不可解な点は、自己の価値観によって、
「生き延びろ」という号令を無視して、死を選べるという点である。

本能が発揮される時、それを欲求と呼ぶのであれば、人は大脳を基盤とした能力によって、
それを滅却し、はては逆らい続ける事が可能である。これが本能が壊れた人という動物の
性である。通常、ナマのままの人は生きられない。大脳が本能に勝ってしまうからだ。
そこで人々は他者に頼った。他者との間に幻想を共有することにしたのだ。人はそれを
新しい本能として生きる。時に、道と呼ばれ、宗教と呼ばれ、世間と呼ばれるそれである。

興味深い点は、本能と自己意識は確かに異なるのだが、共通の行動原理がある。
それは欠損を補うという機能である。補完行動とでもよぼう。
補完行動とは、生まれた欲求を満たす行為である。そして我々の行為の主体である。

身体的欲求は、その不全感から来る。腹が減るから、ご飯を求める。覚醒を保てないから、
睡眠を求める。性的に不満足だから性を求める。身体はまず、不足を理解するのだ。
なぜだかわからないが、決してこれらは満たされない。一時に、充足しても日々の中で、
必ず不足を生じる。それは生き物としての宿命である。どれほどセックスをし続けても、
しばらくすれば、欠乏感が生まれてくるのである。

欠乏感をどう埋めるのか。それは欲求によって埋める。三大欲求は極限までくると、
大脳で制御も不能となる。食欲と睡眠欲は、生死に関わる。唯一性欲だけは大脳の制御下にある。
この違いに着目したフロイトは、人々の行動原理を性欲においた。性的欲求の充足こそ、
人々の行動の背後にあると説明したのである。過激ではあるが、ものの道理でもある。

性欲を少し広義に解釈すれば、それは他者との関わりのことだ。三大欲求の中で唯一、他者を
必要とするのが性欲である。ここに充足すべき欲求問題があり、ほとんどの社会的行為は、
この性的欲求不満をどう補うかに依拠する。

名誉を得るとは、社会的な行為であると思っているが、これは他者からの承認を得る行為であり、
性欲の変形である。他者から存在を認めてもらうこととは、性欲に属する欲求である。たとえば、
有名になりたいという感情こそ、まさに性欲である。他者からの注目という愛情を欲する働きは、
その欠乏に由来する。だから、有名人であることを誇る人は、それを目的化した人ということで
あり、心は虚しいのである。自分を正当に扱って欲しいという感情こそ、名誉欲になるのだ。

同様に親子関係にしても、いじめ問題にしても、対人問題の根幹に性欲が横たわている。
感情が満たされている人がどうして、他者をいじめて快楽を得ようとするだろうか。他者を
いじめて喜ぶのは、愛情に飢えている証拠である。愛情不足による欲求不満を、いじめで解消する
のである。他者からの正当な愛情を受け取れなかったものは、その事を恨み、他者を攻撃する
事で、自己の不満足を訴えるわけだ。もちろん、攻撃した所で心は満たされない。一時の快楽
のために、その行為を繰り返すことになる。酒や煙草と同じである。

現代社会では、人々は愛情不足に悩まされている。社会が共同体を失った結果、
愛情を与えてくれる存在が、両親のみになってしまった。すると子どもは、両親から愛情を
搾り取ろうとする。大抵の場合、それに失敗する。親は万能ではないからだ。多くの子どもは、
不全感を抱きながら育つことになる。

愛情の欠乏を抱えた子どもは、それを他者に求めることになる。幼稚園や学校で、先生たちに
甘える子どもは、親から貰えない愛情を埋め合わせようと頑張るのである。これは不安との
裏返しである。不安に陥った時、他者がそれを満たしくれるのか試そうとする。それによって
しばし、子どもは愛情の充足を感じる。この行動の過多は本人の資質や、親の対応によって
変化するだろう。だが、一貫して子どもが訴えるのは、その不全感である。愛情不足が不安を
招き、それが子どもの行動を過剰にするのである。

この作業に失敗した子どもは恨みを持つ。愛情など必要ないのだという態度を示す。もちろん、
それは認知的不協和である。よって、子どもの行動は2つに引き裂かれる。一方で愛情を求め、
もう一方で、それを拒否する。恨みを晴らすために、そのような複雑な状態になる。

多かれ少なかれ、人はそのような不全感を持って生きる。大人になっても解消するわけではない。
むしろ、表立った欲求の発露が消えた分だけ、不全感は心を巣食う。この解消こそ、大人の
行動原理である。大人の行動は、性欲を満たし、その必然的作用として子どもを儲ける事。
だが、一方では他者との間に愛情問題を抱えて生きる。性的欲求は、必ずしも正当に満たされない
のである。

こうした心の隙に、人は翻弄される。もう解消したはずの親子の愛情問題、友情問題を
時に大人になってから表面化するのである。昨今の不倫問題などは、要するに不全感を
満たす手段である。それは他者承認を必要とする人の不全感のなれ果てである。行動には、
欲求があるのだ。

なぜ男は浮気をするのか。いや女性も浮気をする。それは単一の個体相手では性欲の不全を
満たせないという事を意味する。また、生物学的要求でもある。パートナーとだけしか、
行為をしない種族がいたら、おそらく絶滅しているだろう。不慮の事故や、戦争などを
踏まえれば、繁殖は可能な時に可能なペアでするのが動物だからだ。それはミクロなルール
である一方で、我々がそのルールを社会から追い出せない理由でもある。

大脳が駆使する欲求不満は、あらゆる社会活動の原動力である。性欲の変形である。
十分に愛情を受けたと思えるものは、他者に寛容になれる。与える事が出来るのは、
十分に与えられたからだ。昨今はそれが明らかに不足しているように見える。

近年の恐ろしさは、この「性欲」を経済活動に落とし込もうとすることだ。
性欲をカネに変換するのである。何も風俗や売春の事だけではない。社会活動に値段を
つけるということだ。そしてそれをサービスとする。

愛情不足により、自己不全感を内向きに処理する人々は、自己尊厳が低い。
低い自己尊厳は、自分がそれに値するとは考えられない。自分で自分の行為に暗示を
かけている状態である。このような人は、他者から愛情を無条件にもらえると思っていない。
そこで行うことは、諦めることか、金を使うこと、立場を使うこと、である。

スネ夫は、財力を使って他者の心を得ようと試みる。新しい漫画やゲーム、そういうもので
友達を釣るように仕向ける。それでかろうじて友情を「買っている」のである。本当にスネ夫に
必要なのは、そのお手軽なモノでつった友人関係ではない。本当の友情が必要なのだ。
そのためにスネ夫がやるべきなのは、スネ夫が他者に愛情を与える事。スネ夫が相手を満足
させる対応を出来る人物になれば、必然的に友情が生まれるのである。得たい物がある場合は、
まず与えよ。これがこの世のルールである。

スネ夫をバカには出来ない。多くの大人は、金を使って対人関係を構築し、立場を使って
人の情愛を得ようとする。金持ちこそ、この傾向が強い。なぜなら、なまじ財があるために、
対人関係を気軽に構築してしまえるからだ。だが、そのような事で近寄ってくる人々は、
決して正常な友情関係を築けない。そして、その財や立場を失うと、手元に何も残らない人
になってしまうのだ。がっくりくるリタイヤとはこのようなものである。作り上げた対人関係が
経済行為の結果だと気がついていなかったからだ。

ジャイアンがいじめるのは、ジャイアンが母親から愛情を正当に受け取れないからだ。
その代償行為として、友達に友情関係を強要する。暴力を背景に他者を従わせるのである。
ここにも愛情問題がある。

我々の行動は大抵、このような欲求不満からスタートする。欲求不満を充足する事こそが、
人生である。そして、これらの欲は死ぬまで続くのである。これを我々は生と呼ぶ。
欲求をバカにしてはいけないのだ。欲求とはつまり生きることである。欲求に正直であるとは、
人生に正直であるという事である。不足を、不全を嘆くことはない。

とはいえ、その満たすべき手段は、代償ではいけない。ジャイアンは母親から愛情を受ける
べきであり、スネ夫は友人と愛情のやり取りをするべきなのだ。その意味でのび太はドラえもん
という装置により充足を得ている事になる。

代償行為はこころに歪をもたらす。欲求不満は形を変えて表面化することになる。
それを時に「芸術」と呼ぶことがある。
強烈なまでの欠乏は、強い創作意欲になりうる。強度の強い作品は代償的行為として
そこに命が吹き込まれるのだろう。欠乏は決してマイナスにだけ働くわけではない。
自己の欠乏を満たされたアーティストは創作を失う。言い換えれば、強い性欲がなければ、
良い作品は生まれないのだ。

行動の強さが性欲と結びつく。ならば欲望が強い方が良いのだろうか?
上がったり下がったり激しい人生は、この欲望の強さに比例するのだろう。安定的な人生は
性欲が弱い証拠である。どちらが良いのか、明らかではない。いや、どちらでも良いのだ。
我々は、活動的な人を良しとし、おとなしい人を評価しない。だが、それはその個体が保持する
欲求不満に依存している。人生とは不可思議なものだ。
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