論理と感情ー小保方問題ー [思考・志向・試行]

昨今話題の小保方氏の問題を考えてみる。
反応の仕方にはいくつかレパートリーがある。

1.同情的反応
2.批判的反応
3.深読み的反応
4.女性目線反応
5.科学者的反応
6.その他

これらのどの反応をするかで、その人の在り方が映し出される。
この問題は、ある種の踏み絵的存在になってしまった。

この問題の問題点は3つである。
①STAP細胞の有無
②論文不正問題
③人間関係(小保方氏の問題、理研組織の問題)

これらにどう反応しているかが上記の反応レパートリーを決める。

1.同情的反応
 これは③の人間関係に一番のフォーカスが当たっている捉え方だ。
 彼女の置かれた立場や理研の組織の在り方を批評する態度である。
 割合と社会的地位の高い女性(つまり男性マインドを持つ)と、男性に多い意見と思われる。
 
 小保方氏をトカゲのしっぽのように切り捨てるとは何事だ!というような反応になりやすい。
 また、まだ成長段階の若者をつぶそうしてしまっていると言った意見も出る。特に会見後は、
 同情心を揺さぶられて、応援しようという態度になった。このような人として小保方氏を
 どう扱うべきかを論じるグループである。そしておそらく、これが主流派となる。

2.批判的反応
 この反応は、①に一番フォーカスを当てている。論文も人間関係もどちらかと言えば、
 どうでもよい事であって、そもそもSTAP細胞があるのかないのか、それが問題と
 訴える。よって、STAP細胞の証拠となる資料等に興味があり、そのような情報開示を
 待つのだが、それが与えられないがために、小保方氏に対して批判的態度をとる。

 合理的な人が多いと思われるが、STAP細胞があるのかないのかを迫るという対応が、
 現代人らしい点である。現状のグレーさにやきもきしているのだが、科学とはむしろ、
 現象がグレーであることを認めるところからスタートするので、この合理的反応を
 示す人は科学者ではなく、一般的知性のスタイルなのだと思われる。

 このグループの一派は、今後もしSTAP細胞があるとわかった場合に、小保方氏を
 批判していた人を叩くという行動に出るだろう。合理性に生きる人の問題点は、
 自分が「善」であると仮定して疑わない点である。自分は批評を保留していたと
 いう自負があるため、一層批評が強くなることが予測される。

3.深読み的反応
 このグループは①と③にフォーカスを当てて、利害関係で物事を考える人たちである。
 もしSTAP細胞があるとしたら、それを批判して研究の芽をつぶしたら、損をすると
 考える。臨床応用を考えた場合に経済的な利潤があるわけだから、その利潤を生むだろう
 人に損害を与えるのは有益でないとする。

 この利害関係を主眼にするために議論が横道にそれて、極端な場合、陰謀論を唱えたりする。
 小保方氏が批判されるのは、何らかの権力が動いていて、その利益をわがものとしたい
 人々の演出であるなどと議論する。そして、小保方氏が海外に行けば、その成果を流出し
 かねないと考えたりする。これは、小保方氏の肩を持つ論理のひとつであり、彼女が証拠を
 示さないのは、そのような利権を守るためであると類推する。

 むろん、これは深読みのし過ぎであることをここに述べておく。むしろ、科学というのは、
 可能な限り万人に利益になるために営まれる行為であって、知識や技術を囲って利潤を
 得ようというのは、企業論理である。

 また深読みの別の角度には、理研における政治的闘争によって小保方氏がやり玉に挙げられ
 ているというものもある。組織論になるのが深読みグループの傾向である。


4.女性目線反応
 女性目線では、③のとりわけ小保方氏の態度にのみフォーカスがあたる。
 彼女の出してきた「割烹着」などの演出や服装やメイクなど、女性としての在り方を問う
 人たちである。これを是とするか否とするかは、個人的な感覚で決まっていて、
 それは本人たちの置かれている立場の演繹となる。謝罪なのにスーツでないのはなぜか?
 という人たちは、スーツでなければならない社会的立場にいるのだろう。女性を売りに
 して、「おじさん」たちを籠絡してきたに違いないという批判は、おそらくそのような
 女性に日頃、迷惑をかけられている人に違いない。

 1の同情的反応の中にも、この手の話が紛れ込んでいる。男社会で苦労している女性たちは
 小保方氏を自己と同一視して、フェミニズム的精神により女性であるがために、優秀な研究者
 の成果を妬んでいるなどの感情論で今回の問題を見てしまう。よって同情的反応となるのだ。

5.科学者的反応
 科学者は②のみにフォーカスをする。STAP細胞の有無についてはここでは問わない。
 理由は、あるかないかという議論をする材料がない事、そもそも科学的手法ではないという
 証明は行わないという点にある。理研が会見にて、STAP細胞の有無は今後の課題だと
 言ったのは、まさにこのことである。

 むしろ、問題点は論文に「不正」が存在していた事である。図に明らかな改竄が見られた
 わけであり、その図こそがSTAP細胞の存在を証明する証拠である。多くの人は誤解している。
 小保方氏は単純なミスであると主張しているが、あれは単純なミスと呼べるようなものでは
 ない。意図的にしか起こりえない事である。図が勝手に自分の意志とは無関係に作られる
 はずもない。よって、不備を問われた図は実質上、「不正」である。仮に過失だとしても、
 論文の最も重要な図を間違えるということ自体が、資質を問われる問題である。

 多くの科学者は、論文の不備から、STAP細胞があるかないかは証拠不十分であって、
 現在は未定であると判断し、一方で論文の不備は紛れもないのだから、論文の取り下げ
 を検討すべきだと考えている。それはSTAP細胞があるかないかには関係がない事象である。
 この切り分けがなぜだか世間では通じていない。

 理研は科学者の集団である。よって会見での説明は上記の通りであった。だが、世間は
 ①と③の話にどうしてもなってしまう。ここが理研の不幸の原因である。

 では論文の不備は誰が招いたのか?そしてその責任は誰がとるべきか?
 それは調査によって、小保方氏が行ったと明らかになった。ならば、責任は小保方氏にある。
 理研の調査は妥当であれば、その責任追及も小保方氏がメインになるのは必然だ。
 もちろん、共著者がデータの信ぴょう性を詰め切れなかったという意味での責任はある。

 よってこの反応では、小保方氏に同情するとか、組織が責任逃れをするとか、利害関係が
 あるとか、そういう部分を基本的に考慮しない。あくまで科学者として、
 小保方氏の責任追及を行ったのである。問題は、これに対する世間への説明が足りない事。
 理研は、共著者の責任の所在を明確にすべきであろう。

6.その他
 ①にフォーカスして現代の魔女狩りに例える人がいる。地動説を唱えたガリレオのように
 真実に対する偉大なる錯誤を侵そうとしてるのではないかと。

 それは杞憂である。今回の騒動は、STAP細胞があると示しきれてない点にある。
 STAP細胞があるかどうかは、論文不正とは関係ない次元のことだ。小保方氏が責任を
 問われているのは、STAP細胞があるかないかではなく、論文の画像を細工したか否か
 である。通常、図に細工をしたら、不正と呼ばれるだろう。ただそれだけのことであり、
 上記のようなことは考え過ぎなのである。ましてや未熟であるとか、若い研究者である
 などは一切関係ない。小保方氏に関係なく、STAP細胞があれば、今後、存在するという証拠が
 提出されるだけのこと。現代では、証拠は基本的に信頼されているため、偉大なる錯誤は
 起こりにくい。もちろん無いとは言えないが。。


最後に個人的見解を示す。

 私の個人的意見は基本5にある。小保方氏は、故意にしろ過失にしろ、論文の不備を認めて、
 取り下げや大幅改定などを検討すべきである。それにも関わらず、なぜか彼女は不正を
 認めず、むしろ、①の問題にSTAP細胞はあると言い張り、②の問題にはただ謝るだけで
 肝心のデータをみせず、③の問題については言及しなかった。これをみて同情というより
 むしろ「怖い」と思った人はどれほどいるだろうか?

 自分が行った「不正」を認めないのはともかく、むしろ何度も成功しているアピールや
 証拠はあるが示せないという言明に対して、不可解さがあらわになった。それならば
 なぜ、始めからそのような論文にしなかったのだと。証拠がみせられないなら、論文に
 もしようがないではないか?
 
 例えが悪いが、今回の話を一般の人がもっと理解しやすい形にしてみよう。
 「とある人物AがUFOの存在の決定的な証拠をつかんだ」という命題に置き換えてみればよい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 UFOの存在を証明するには、その証拠が必要である。UFOの部品とか、写真である。
 とある人Aはその大発見を世間に公表するために新聞社に売り込んだとする。
 その時、Aはその道の大家と呼ばれる人にも協力を得ていて、確かであろうとお墨付きを
 得た。

 新聞社は、部品やUFOの写真を見せられ、その説得に強い信ぴょう性を持った。
 そこで、世紀の発見として記事を仕上げて公表したのだが、その写真はAが
 以前にUFOではないただの機械を写したものであると判明。また写真そのものにも加工が
 あることが判明した。Aの説明は「単純ミス」で「証拠は別にある」とのこと。

 Aは会見で「UFOは絶対にいるんです」「もう200回も見ています」「第三者の証言も
 あります」「でも、本当の資料はみせられません、第三者も言えません」と説明した。
 そして涙ながらに訴えます。「UFOの研究をつづけさせてください、写真については
 私が未熟でした」と。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
 少なくとも当事者では我々には、今回のSTAP細胞の発見については、上記のUFOの話以上の
 情報がない。ほぼ同等であると言えるだろう。さて、この話をみてあなたは何を思うだろうか?

 大家にどれほど責任があるだろうか?UFOの存在性は?Aは可哀そう?

 UFOは単なるたとえであるし、辛辣な悪意のある例えであると思う方もいるかもしれない。
 だが、論理的構造は同一である。そのうえで、再度今回の話を考えて頂きたい。

 「会見を見る限り、Aという人物が嘘をついているようには見えない。むしろ、
 UFOの存在が確かならば、その技術を使って儲かるかもしれない。だから、Aを
 応援するってのが人の道ってもんじゃないか?」と果たして考えるだろうか?

 むしろ、Aはこの期に及んでまだ、嘘をいってるのではないか?と疑うのもやむを得ない
 気すらしまいか?
 
 大事なのは、UFOがあるかどうかと、Aがやってしまった「不正」は別問題ということだ。
 Aの「不正」についてはやはり何らかのペナルティが必要じゃないだろうか?でなければ、
 またみんなが混乱させられてしまう。UFOがあるかないかは、今後の検討を待てばよい
 ではないか。Aが大家によって無理やりやらされていた可能性も否定は出来ない。だが、
 大家が敢えて、そんなことをする道理がどれほどあるか。この辺りは人間関係なので、
 彼らしかわからない。彼らの中で解決するしかないだろう。

 もしかすると、Aは本当に証拠を持っているのかもしれない。だが、それは証拠が出てきて
 から考えれば良いだけだ。ここで類推しても仕方がないだろう。

 多くの人には、事態を少し冷静にみてほしいと思う。



 最後に小保方氏の人格に対して気になる点を述べたい。
 仮定の話になるので、そのつもりで差し引いて頂きたい。
 小保方氏によれば、不正はミスであって、「不正・捏造」ではないと言っている。
 もしかすると、不正を不正ではないと本気で思っている可能性がある。残念ながら、
 図表のネタがすべて真実だとすれば、ああいうのを通常「不正」という。
 その「不正」と知りながら、嘘を述べているとするならば、そのほころびがあると多くの
 人は思う。だから、彼女の言う事実はあるに違いないと人々は類推する。

 ところが、心理的に嘘を本当と思いこめる場合がある。本気で嘘を本当と思っていた
 としたら、ある種の人格障害を想定せざるを得なくなってくる。演技性パーソナリティ
 障害という概念がある。虚言を伴う性格のことである。彼女の来歴や置かれた状況を
 鑑みて、もしかすると彼女にはそのような傾向があるのかもしれない。

 そもそもSTAP細胞はバカンティのアイデアである。彼女はそれが真実だと思い込んだ。
 その真実を示すためには、あらゆる事をしただろう。周りの大家はそのような彼女の
 思い込みに振り回された。それが今回の騒動の要因なのかもしれない。
 むろん、これはただの推測にすぎないが、ひとつのあり得る可能性である。


 論理は感情によって左右されないからこそ論理である。
 存外難しいのかもしれない。
 
nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 1

Apple2

《形質の形》

『感覚的対象、形質の形は真の形ではなく像である。』

暗闇でまるい青信号を高速で点滅させると青信号の真ん中が暗いままになり輪っか状に見える。これは始めに具現する象の境目から像を認識してゆくことを示している。高速で点滅するので中の処理が追い付かず輪っか状に見える。これが形の起源である。


《物因子・体系的物》

広義の物因子は世界・象を具現する原因のことを言う。我々の志向が完全な状態で具現されることがなく差異をもつのは、志向・因子と再具現機構としての躰・物が同じ物の類でありながら一方で対立因子として存在しているからである。従って、狭義の物因子は不確実性の原因としてある物自体を意味する。

『志向性と不確実性の対立とはすなわち体系的物の対立。すなわち現象的対立である。』


《物因子2》

『我々は物の形を知らない。ならば、この物としてある感覚は何処から来るのか。あの星は、あの人は、あの匂いは何処から来るのだろうか。』

我々は物の形を知り得ない。それは我々の願望が完全な状態で具現されないことから明らかである。理論の精度を語る以前に、我々の認識が像と音に依り構成され概念という名称を与えられ、ありと凡ゆる象に対して用いられている事実から理解できる様に、我々は物・形という実体を把握していないのである。

『我々の認識は真の物・形を把握するものではない。表面に現れた象を記憶して像と音を繋ぎ合わせ、繋いだそれを同列に連結するものである。また経験により得た因果の概念を表象に垂下げ、その象の因子に作用して物・形の存在可能性を把握するものである。』

すなわち物の重みは存在可能性。あらゆる象はその存在可能性の志向を得たときはじめて、凡ゆる物になる。存在可能性なき像その他は重みがなく浮き漂うだけの現象である。

by Apple2 (2014-04-27 10:03) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0