現代病理ー若者と社会ー [思考・志向・試行]

<若者に課せられたもの>

義務
・一定の能力がある事を示し続けなければならない
・失敗からの復活は許されない、つまり失敗は許されない
・成功以外は承認されない、つまり普通ではいけない
・誰かにとって有益な人物であることを要求される

希望
・自分にしか出来ない何かがあると思い込む。
・「自分」という何かにとらわれる。
・そのような個性があると教え込まれる。
・個性は仕事を通じて体現される。


<構造その1>
多くの若者は、これらの命題をどうこなすかで苦しむ。
脱落したものの人生、脱出したものの人生がある。

勝者以外が認められないのであれば、
敗者の願いは、勝者が失敗すること。
すさんだ空気を作り出す元凶となる。


<構造その2>
ごく普通の人がごく普通の仕事を望む。
それは誰にでも出来ることだ。通常ならばこれでよいはず。

義務や希望によって、自分は個性ある存在であり、
そのように個性があることで始めて「承認」されると思い込んでいるため、
誰でも出来る仕事に対する著しい低評価を下すことになる。
誰でも出来る仕事から、自己を見出すことは困難であるし、自己が見いだせない
のであれば、そこに承認が与えられないからだ。

よって、仕事を離れることになる。

<構造その3>
仕事を通じての自己承認を果たせない場合、その承認軸を他へ求める。
例えば、友人関係に。LINEやSNSなどのツールはその要件を満たす。
恋愛関係に。愛する人の存在は自己肯定をもたらしてくれる。
遊び関係に。スポーツ仲間や趣味サークルの活動に承認を求める。
ただし、これらにはある種の義務、例えば互いを褒めあう等の義理性が大事。

また仕事の代理に過ぎないとすれば、それは代替であって、
本当の意味での承認とならない。

主婦の仕事を家事とするならば、主婦には承認する機会が必要である。
問題は家族内承認は、自己承認となりえないこと。家族とは「承認せざるを得ない関係性」
のことをいう。現代では、ここに問題を抱えている。家族の必ず承認せざるを得ない関係
ではない形において初めて、自己承認となりえる。

とすれば、主婦は「非労働」の中で自己承認を探すことになる。
それは始めから「代替の承認探し」である。これは主婦の不満となって心に沈殿する。

<構造その4>
社会的存在となるには、仕事を行うしかない。
その仕事をこなすための能力として若者は非常に高いものを求められている。
少なくとも、そのように仕向けられている。

経済状況が悪いため?給料を払えるポジションが限られてくる。
限られたポジションであるために、一人のこなすべき仕事が相対的に多い。
それらの仕事を確実にこなすには、質はともかく速度が必要となる。
つまり効率性の波にのまれるわけである。どうしても、自己の能力の限界に
あたる。ここで、頼れる仲間や上司がいれば良いが、能力の限界にさらされているのは、
他者も同じで、出来れば互いに余計な仕事を引き受けないようにしているため、
サポートされない。そのうちに、自分を自ら「出来ない人間だ」と思うようになる。
これは義務に違反する。出来ない自分を見せることは出来ない。よって、
可能な限り仕事に専念することになる。これがこなせる人も時にいる。
だが、こなせない人も同時に発生する。

こなせない人の選択肢は、あるようでない。なぜなら、義務を果たすためには、
その場から降りることが許されないからだ。失敗出来ないのである。
失敗するための土壌が今日の日本には、存在しない。

この先に、自殺という二文字が見える。
それは最後まで義務を果たそうとする健気な人物像を浮かび上がらせる。

<構造その5>
義務を果たさないと宣言することの困難さがある。
現代日本において、その宣言は、自ら孤立化することを意味する。
もちろん、自分で商売を始めるなどの手段はある。だが、多くの人は、
それを普通のこととはとらえられない。

その意味で、義務を果たすかどうかに選択権がない。
やりたくないゲームにオートマチックに乗せられている。
これが現代日本の病理である。

<構造その6>
承認されるべき道があまりにも狭く設定されているために、
そこからあぶれた者に対するケアがあまりにも少ない。
このことが引き寄せる不幸は大きい。

現実問題として、近年増加しつつある無差別殺傷事件。
これを彼らの問題として捉えるのはあまりにもイージーだろう。
彼らの動機は一貫している。それは世間への反抗である。
これは実に明確な動機なのだが、なぜそれを報道は個人の問題として片づけるのか。

彼らにとって、世間とは上記の義務や希望を与えた存在であり、
その世間によって疎外された存在である。その彼らが他者から振り向いてもらう
ために選んだ手段が、無差別殺傷である。攻撃性を伴うのは、生き物としてみれば、
防衛反応である。攻撃とは通常、何かを守るために引き起こされるからだ。
彼らは、殺傷という行為に及ぶことで、自らのプライドか、尊厳を守ろうとした。
むろん、それが社会的に許されざる行為であることは間違えない。むしろ、
社会的に許されざる行為だからこそ、彼らはその行為を行ったのだ。

現代日本がこれからも方針を変えずに行くのであれば、間違えなく同様の行為が発生するだろう。
もっと危惧すべきことは、彼らが徒党を組むことだ。つまりテロリストとなるということである。
テロの発生には、かならず外圧が存在する。それは生き物として当然のリアクションである。
世間は、彼らがいかに特殊かではなく、彼らのような存在を作り出している事に絶望すべきなのだ。

<構造その7>
現代の若者を弱い等、否定する中高年は多い。
だが、忘れてはならない。この年代の人々は世間に喧嘩を売った人々である。
自分たちを棚にあげ、現代の若者が喧嘩を売ることを規制しておいて、
現代の若者を弱いと称すのは、現状認識があまりにも貧弱である。恥を知るべきだ。

現代の若者は多数の大人の視線にさらされ、義務と希望を吹き込まれている。
その中で問題を起こすことがどういう意味をもつか、わかっていないのだ。
一度の失敗が、人生を大きく揺らがせてしまう。現代はそれほどに情報社会なのである。
逆にいえば、反社会的な行為・言動による圧制が、その瞬間だけに留まらないのだ。
問題を起こした人は、現代日本では、ほとんど再起不能である。誰も忘れてくれないし、
その証拠は常に電子化されている。この圧力を中高年は見くびっているのである。

圧力を感じにくい若者たちもいる。それは現代のブルジョワである。
圧力を感じさせるような状況に息子・娘をおいたことがないために、
そのような世間の風に無頓着な人間たちが生まれてきた。
彼らは、想像力があまりにも貧弱なために、同世代の下層であえぐ者たちをみて、
「努力がたりないのでは?」と一蹴する。そこに何も悪気はない。
だが、その無頓着さが罪であることは間違えない。ナイーブとはむしろ、
嫌うべき性質であるのだが、彼らは気が付かない。

<構造その8>
二極化。この言葉にいささかの違和感を覚える。見渡してみて、
はたして二極化しているのか?末端が肥大しているだけではないか?
下位・中間体から剥奪できるものを次々と剥奪して、上位へと集めている。
上位とは、ほんの一握りの人間である。これらの人々が持つ利権はどんな理屈で
担保されるのか?そのようなものはありはしない。つまり、不公平そのものである。
誰も大きな声を出さないが、人々の生活は本来的に不公平であって、公平などではない。

だからこそ、不公平さにあえぐなら、社会の貧富差を是正すべきであると訴える必要がある。
だが、その訴えは聞こえない。聞こえないようにする仕組みがあるのだろう。
二極化が進んでいるのではない。もともとあった極が明確化してきているだけに過ぎない。
兼ねてから、公平であったわけではないのである。

<構造その9>
では、この構造がもつ問題点を解消する手立てはあるのか?
かつてはこれを社会主義というイデオロギーで体現しようとした。
むろん失敗したのだが。そのアンチテーゼとして資本主義の有り方に多くの人が賛同した。
だが、待ってほしい。社会的な有り様は、その二択ではない。資本主義もまた一つの
イデオロギーである。我々にはもっと違う道がある。

現代日本におけるイデオロギーは「社会から収奪せよ」である。
あほらしいが、世間はそう教えている。金を得たものが世間に対する影響力を持つという
筋書きだからだ。金は一定量しかない。ならば、収奪せざるを得ないではないか。
各人が、そのために知恵を働かせて、せめぎ合っているのが現代である。

なんのために?不思議なのだが、ほとんどの人々は自分や家族の幸せのためである。
自分に関わる人々のために、そこに仮想的な「塀」をこしらえ、その外と思しき場所から、
収奪するのである。他者は不幸で良いというイデオロギーに賛同しているのだ。

金という人の頭で考えた制度における勝者を目指すなら、必ずそうなる。
よって、現代の金持ちは他者が不幸で良いというイデオロギーに賛同済みの人々である。
彼らの世迷い言に付き合ってはならない。また、彼らに尻尾を振っておこぼれを預かろう
というのも頂けない。それは、結局、他者の不幸を願う宗教に入信することと同義である。
現代社会では、程度の差こそあれ、そのような他者の不幸の上に生活を成り立たせているのである。

<構造その10>
社会主義でもなく、資本主義でもない。そのような社会性を生み出せるのか?
わからない。だが、我々個人が考え方を変えることは出来る。
少なくとも、若者に上記の義務と希望を与えなくても良いはずだ。

仲間として、若者を迎える必要があるのだ。
若者たちは、ただその存在において承認されるべきなのだ。
少なくとも、見回りの人は、その人の存在を祝福すること、これが我々の出来る抵抗である。

このように書くと、では「成長しなくても良いのか?」「能力を伸ばすにはどうするのか?」と
いうだろう。本来、学びとは主体的なものである。本人が必要だと気が付けば、学ぶのだ。
その時に、惜しみないサポートをするというのが大事であって、強制すべきことではない。

また学び自体はとても楽しいことだ。むしろ、金を払ってでもしたがることのはずである。
その学び自体が何かの目的、例えば、資格を取る事や、金銭的な対価に置き換わることで、
話が歪んでいるのである。つまり学びの能力を将来の対価として担保してはならないのだ。
なぜ世の中が、そうなってしまったのか?学ぶ能力はむしろ、体力と同じものに過ぎない。
昇給テストになぜ体育が入らないのかが私にはむしろ不思議である。

<構造その11>
他者を祝福するというのは褒めるという事とは違う。
あなたがそこにいても良いと認めるということだ。それは特定の能力があるからとか、
その人がいると役立つからという理屈ではない。ただ、そこにいることが大事なのだ。

そのように他者承認された個人は、他者のために何が出来るのかを考えるだろう。
これが仕事の原点である。この前提なくして、どうして仕事が可能であろうか?
現代は、前提がない宙ぶらりんな世界において、ただ目的だけが存在する社会である。

誰もが忙しい。実際に忙しいのだろう。
一方で、忙しさを取り除いたら、他者とコミュニケートするだろうか?
否。おそらく我々の洗脳は甚だ深く、ただの消費者に成り下がるだけだろう。
誰もかつてのウェットな世界を望まない。それでいて、孤立は困るという。
この二つの次元に切り裂かれている心が現代を灰色にしているのだ。
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